兄のこと
わしは大正15年生まれ、昭和元年やな。わしの親は15で嫁にきた。おとっつあんは16で嫁さんもらったんやに。兄貴がいたが、昭和19年に戦死したんやわ。兄は明治43年生まれやった。昭和18年やったかね、兵隊に行くときにはな、嫁さん迎えておったんや。嫁さんは千代崎の越山医者の看護婦やった。兄が戦死して、わしの嫁にという話もあったが、わしと兄は年が大分と離れておったでな。兄は大竹師団に入ってな、航空母艦でアメリカの魚雷を受けたんや。兄が戦争に行く前に、三重県は洪水にあってな、池田にも大水がきてな、天井まで水がきたんや。兄貴は一ノ宮まで流されてな、必死にいろいろひっつかんで生き残ったんや。草や藻をつけて素っ裸で泳いで戻ってきた。そんなして、生き残ったのにな、戦争行ったらすぐと死んだわ。兄は35やったわ。
徴用
わしは、一宮尋常小学校6年で卒業、高等2年行ったんや。んで、神戸中学へ行ったやろ、それで16で卒業やな。確か授業料は30銭やったな。
勤労動員省ていうのが亀山にあってな、軍需大臣がやってたんやが、そこ行かんだら憲兵にしょっぴかれるんやな。わしは背が低い子やったが、勉強は飛び抜けとった。わしには徴用令がきてな、勤労動員省からやな、白紙や。18年に卒業して、すぐと白紙が来たさ。大正14年生まれまでは徴兵があったんさな、数えで21でみな徴兵になったんや。そんで、わしは大湊へ行ったんや。大湊は木造の船を造っているとこさな。木造船ばっか、おっきな船を造っとった。大湊ではろくなもの食わされなんだな。丼に乾燥したイモばかりでさ、腹減るんやさ。作業中は、蹴っ飛ばされて頭ぶっとばされて、辛かったな。寝るのは遅いし、朝は早いしな。7時からどつかれて拷問みたいな労働やに。何でもないことでもどつきやがるんや。軍国主義やで、青年学校や中学でも殴られたけどな。神戸中の時には久居33連隊長の少佐がきてな、軍事訓練や言うて、駆け足とか鉄砲とかさ、実弾は入ってないけどな、銃剣とかさせられてさ、それがまた怖いのや。18年から19年頃には週に3べんくらいはあったんやけどな。天皇陛下のためっていうてさ。でも、それはちがうに。そんなでさ、どつかれたんはほんにえらかったわ。それで、20年に羽津の造船所に行ってな、すぐと終戦やったわ。大湊はさ、憲兵がおってえらかったけどな、羽津におったのは女の事務員やったから、それはましやったわね。工員は100人くらいおったかな、宿舎に入ってさ、風呂はそりゃ汚い風呂さ。大湊は工員の数はもっと多かったけどな。
戦中の生活
戦争中は物のない時代でさ、麦か米かサツマイモの干したやつばかり食べてたわ。海の塩水に色粉入れて飲んだわ、空腹でたまらんでな。言論の自由もない統制やからな、天皇陛下の新聞拝みよったんだな。ラジオはほとんどなかったからな、空襲警報なんかは持ってる人に10円出してな、聴かしてもらったんだ。
池田には大演習ってのがあってな、上級な家に兵隊が泊まって行ったな。寄宿がないでさ、将校士官が泊まっていくんさ。それがその家の誉れやったんや。町費もさ、1から32まで段階に分けられとってさ、家の序列があったんやさ。親はさ、器量良くても貧乏の子はあかんというたわ。今じゃ差別になるけどな、そういう時代やに。成り上がりより成り下がりやていうたんや。自転車を嫁入りに持ってきたのは、うちの嫁くらいやったに。
昭和19年12月には大地震があった。19年は干ばつでな、6月に田植えやったわ。便所はその頃、肥にするのに貯めてたからな、汲み取りやでな、地震でみんな流れてきたわ。石原産業の煙突も倒れとったわな。19年てのは、一番悪い年やったわ。
終戦から戦後の生活
昭和20年8月15日の玉音放送は、造船所で聞いたわ。周りみんな、戦争負けて喜んどったわ。「負けたでええな」て、みんな喜んどった。10人中8人は喜んどったと思うわ。毎日どつかれてえらかったからな。18年末頃からもうあかんとみんな思ってたやろ。腹立ち紛れに道具みんなぶつけてな、手斧やなんかで壊してやったわ、みんなでな。とくに咎められもせんかったわ。鬱憤晴らしやな。
初代の市長の奥田はな、大阪のボタ屋の息子やったんや。これは暫定市長やな。そんで戦後の杉本龍造は市会議員やったんや。
昔はな、青年団と処女会っていうのがあってな、処女会は嫁入りせん娘が入ったんや。あと国防婦人会とな。鈴鹿市には青年団があってな、鈴鹿市の連合青年団が三重県で優勝したことがあるんや。わしが初代の副会長やったんや。鈴鹿市の連合青年団は市役所で事務とってたんや。
昭和21年の時には、人夫賃が1日8円だったに。「背が小さいで仕事せんやろ。」と人夫回しいうばばぁがそう言って、他のもんは10円やったのにな、わしだけ8円や。おがくずを取る仕事やったわ。
昭和23年には農地改革があったわ、小作しとったのに取られたわ。2町以上は持ったらいかんのや。そんで800円さ。稲生の大井、矢橋は神尾といった有名な大地主がさ、没落したわな。
そんで、わしは、昭和32年から区長になって、総代になってさ、市や県の自治会連合の会長もして、平成18年からは全国自治会連合の副会長もしたんさ。