鈴空工員を経て召集を受ける
昭和18年暮に中学を繰り上げ卒業になって、鈴空(鈴鹿海軍航空隊)の二等工員になった。中等学校を上がったもんは、中卒言うて甲種が一等工員、乙種が二等工員。わしは二等工員で軍属になったんや。就職みたいなもんやさ。鈴空では、名古屋の三菱から飛行機を空輸してくるんや。ゼロ戦や。大型飛行機で持ってくるんやに。岡崎や水島からも飛行機が来た。ジェーツーと呼んでた飛行機は、雷電と言ったかな。ジーヨンとかいろいろ飛行機があった。海軍は一線基地からここ(鈴空)にそれを取りに来る。そんで海軍に乗ってもらうの。試乗運転やわな。名古屋くらいまで小一時間飛んで、あれが悪いここが違うと、色々と小言を言われたわな。落ちたら死ぬでな。それでわしら工員がそれを直すわけや。わしらみたいな年季が入ってないもんがするわけやから、農家上がりでするんやからな、リベットひとつでもガタガタやったな。素人目でみても年季が入った工員との違いはわかったわ。
昭和19年の12月7日に尾鷲の方で地震が揺ってな。名古屋が焼けたんやな。三菱も焼けた。名古屋があかんなったもんで、飛行機が届かん。仕事が全然なくなったわな。
そんで1年半ばかり鈴空に行っとって、20歳になった(昭和20年)4月20日頃に召集令状が来た。出征して陸軍の船舶工兵になったんや。船舶兵いうと海軍みたいやが、陸軍にもあるんや。船で行って上陸するんでな。小船や漁船を徴用して乗っとたな。和歌山の暁部隊いう紀ノ川が海にでる辺りにあった紀ノ川練兵場に行ったんや。手旗やモールスなんかの訓練を受けて、3か月ばかり新兵教育受けたな。そんで7月のはじめに富山の新湊に行った。普通は新兵教育いうたら何年もしたもんらしいけど、昭和20年やとみんなそんなもんやった。新湊は港やで、船が着くわな。荷揚があるんや。豆なんかの食料が来るんやさ。それから、支那や満州から本土決戦やといって銃器なんかも揚がってきたわな。それを人夫仕事で運ぶんさ。その合間に訓練さ。それから、100メートル道路を作るとか言って、家を壊して瓦を引っ張り壊してって、し始めて2,3日いった時に玉音放送さ。今思うと家なんか壊して、もったいないことやったな。
終戦
玉音放送は、不動で聞いた。ピーピー言っててわからんだ。「戦線思わしくならず」だけ聞こえたかな。それが終わったら「またロシアと戦争すりゃいい」と上の人がその作戦を相談してたな。それで約ひと月新湊にいた。無条件降伏やで、殺されても仕方ないとみんなそういう思いやった。宮さんも壊せと言われるやろうと思っとった。フィリピンに少年兵は輸送されると高年兵に言われたわな。賠償金を出さなならんから、アメリカ軍に使役されるんやと。銃剣二つ隠しておいてさ、そん時には荷車乗って逃げようちゅう計画を仲の良いのとしとったな。陸続きやし暑い時期やから銃剣さえあれば帰れるやろうと。フィリピンまで連れていかれたら帰れんからな。そうと決めたら、あとはやる事ないで演芸会や相撲大会して遊んどった。部隊長から「絶対校舎から出るな、出たら撃たれても仕方ないんやぞ」と言われたんで、遊んどったな。食べ物は、敗戦やで、荷揚げされた豆や砂糖を食ったな。軍のをちょっとくすねたったんや。もう戦争終わったでな。砂糖はようけ食った。美味かったなぁ。そんで、軍隊から切符を貰って石炭貨車で帰って来た。
9月10日に玉垣に着いた。そんで(鈴鹿海軍)航空隊になんぞ良いもんないかいなと思ってすぐと(20日頃)行った。わしは双眼鏡欲しかったんやけど、もうパラシュートくらいしかなかったな。小型の飛行機は50機くらいあったけどな。飛んでいくとあかんで(プロ)ペラを取って置いてあったな。白菊なんかは日の丸が書いてないし、十字が書いてあったもんやから良かったんやろうな、後になって上空飛んでおったのを見たわ。でも、良いカメラも、航空写真用のも、トランシットも計算器も、持っていけるもんはみんななかったな。ごまのタイヤもみぃんな持って帰って、売ってしまったんやろうな。帰って来てから早よ行ってんけどな、遅いと言われたわ。もう何もなかったな。番人はおったけど、敗戦やに、誰も持って行くななんて言わんわな。
戦後処理
12月頃になって、アメリカの使役に行く話があった。みんな嫌がって行かんやろ。各村から何人て役所から言われたんや。玉垣村に割合がきたので行ってくれと言うんやけど、みなアメリカが怖いので行き手がない。それでわしが行くことになったんや。玉垣からは5,6人行ったな。動員やない、日雇いで銭もうけやな。銭が貰えるけど、怖いので行かないんやな。鈴鹿の航空隊の跡で、ダイナマイトの小さい奴をもって兵器を爆破する使役やった。もう飛行機はあらへんだな。魚形水雷の空気も抜いたわ。空気で進むんやから空気抜いたらグルグル倉庫の中で回っていたな。名前はマルタイとか回天とか魚川とか言ったかな。
アメリカ軍の服は上等やったな。純毛でまっさらでびっくりした。通訳がちゃんとついとってな、「アメリカ人は良い服着とるけど、怖いで。教育ないのもおんで相手になるなよ。あかんだら逃げよ」とまず言われた。良い服着とるとみんな賢いと思うわな、日本人は。それで覚悟したんやが、それが何にもない。アメリカは、時間はきちっとしていて休憩もくれた。休まんと怒るのさ。5時には帰らせてくれる。残業はない。人夫しとるより良い値もくれた。どつかれるもんだと思って使役に行ったもんだから、丸腰なのにまず驚いたな。軍隊にはどつかれるもんやというのが日本人やったからな。
それが12月8日は、ちょっと違ったな。開戦した日やろ。その日だけはな、反乱するかもいうて、アメリカの兵隊が鉄砲を担いでた。サーベルも持っていた。空気銃みたいな軽い銃やった。日本の銃は重い銃やったから驚いたな。開戦の日なんで何か起きるとあかんで備えたんやろうな。それまではいつも丸腰で、棒ひとつ持っていやんだのにな。特別な日やったんやな。
12月やから寒い時やね、気が合うやつらと兵舎の南側のところで昼飯を食っとったら、背の高いアメリカの将校が来てな、「you、come on」と言ったんや。そんで、1人を引っ張って行ったんで「あいつ悪いことしたんで引っ張ってかれたんや。殺されはしやへんやろ。殴られるんやぞ」とみんなで言っとった。大分したら、そいつが帰って来たわ。どうなって帰って来たと思う?革靴持って来てん。大きな革靴や。ゲートルついてる革靴やない、普通の革靴やったから、私物やったんやろうな。これ履いて明日から来いって言うんやて。あいつ、草履はいて来とったんや。みんな農作業する地下足袋なんか履いとったのに、そいつだけ草履やったんや。足が出とって作業したらあかん、事故したらあかんて構うてくれたんやて。釘やなんか落っとるからくれたんやろ。「われ儲けたのぅ」って言っとったんや。アメリカは余裕があるんや。それだけでもわかったわ。その他にも、殴られたやつは1人もおらんだ。