宮崎米子さん(大正15年生まれ、天名地区在住)

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航空隊での運動会

 私が6年生(昭和14年)くらいまでは、河芸郡の運動会は、現在の白子高校のグランドでしました。その後に航空隊が開放してくれて、運動会がそこでできるってなったんです。そんでね、白子高校でもそうですけど小学校なんてよーいドンで100メートル競争って言っても、グラウンドに円が描いてあるだけですやろ。航空隊はまっすぐで100メートルですやんか。こんなん走ったことないなって思っとったら1等でしたん。高等1年のとき。私はよく走るので有名でしたんよ。リレーってしますでしょ、リレーのバトンタッチが下手な人もようけおるんです。前におったら邪魔やで、びゅーっと抜かしとった。その時にね、忘れもしませんけど、先生が「走るのに生卵を飲んで来い」って言いましたん。私らは小さいときから貧乏育ちですで、生卵やら牛乳やらは父が飲むって決まっとたんです。私は口にもしたことなかったですけど、先生がそう言ったもんで、飲まないかんなっていうことで。学級で選手は1人ですので、1級上や下の子らと一緒に飲もって言って、当日、親に言って家の卵を1つ貰ってきてね。ところが、うまいこと飲めんでね。卵割って器へあけて醤油でもかけてってするのはね、お父さんがそやってして飲んでましたから知ってましたけど、そんなん子供の頃は飲んだこともありませんでしたので。そしたらね、うえーって出してしまってね。そんな覚えがあります。

 私らは運動靴もないし、足袋もないし、運動会のときも裸足でしたな。運動足袋ってあったんですわ。でも、そんなん買ってもらえんかったし、小学校のときはみんな裸足でした。裸足は走りやすかったんです。その頃は鈴鹿の航空隊が出来て間もない頃で、小学校で朝礼してますと、その上を練習機が舞っとるのが日課でした。怖いも何にもそんなんは思てません。鈴鹿に航空隊があって練習機が飛んどんやなって、先生の説明もありますしね。平和で練習機がいつでも飛んどるってだけでした。中国の支那事変の当時やで、戦争っていうのをまだ身近に感じてませんでした。やれ南京攻略やら、提灯行列やら旗行列やら。その頃は日本は勝ち戦でしたからな。


村葬

 天名村で最初に支那事変で戦死された人の村葬があって、それは記憶に残りました。奥さんが、まだよちよち歩きの女の子を連れてな。私は「気の毒やな」って「お父さんがいなくなって育てていかなならんな」って思ってました。子供でもその時は思いましたもんな。小学生の私が思うのやで、周りの大人も思ってたんでしょうな。その後は戦争が激しくなるにつれて、どんどん、どんどん人が死ぬもんで村葬もなくなりましたな。


郵便局に勤務

 私は高等2年を卒業して、16歳の4月から津の大門の郵便局へ勤めてました。私は高等科へやってもらったし、良い方でした。みんなは小学校を6年であがったら女中奉公ですとか、どこかへ行ったりとかしてました。

 たまたまね、近所の方が昔の特定郵便局ですけど、郵便局長をしてました。2人結婚で辞めるで、私に来てくれんかって言われて。それで勤めることになって。最初は郵便、それから電報、電信。私らの当時は電話やで、電報で送るんですわ。電報が一番早かったんです。当時はね。

 あの時分は通信手と事務員しか階級がありませんでしたけど、逓信講習所を卒業した45,6歳の通信手の人に厳しく指導されたもので、私は2年で一人前になりました。「私がせっかく一人前に育てても直に結婚で辞めてしまう」って、その人がよく怒りましたけど。私の入る前の人が結婚して、新人の育成にまた仕込まなあかんもんで、よう怒ってました。「そんなの私関係ないのに」って思ってましたけど。

 まあ、16年12月8日の「米英と戦闘状態に入れり」っていう、そのラジオ放送は郵便局で聞きました。その当時には郵便局も「兵隊さんよ、ありがとう」っていう慰問袋をたくさん送りまして。津の大門の郵便局は大森屋さん(うどん屋)のすぐ西側にありました。

 津にいるときはそこに住まいがあったんです。郵便局長の娘さんや息子さんはみんな津中とか津高女へ行ってますので、そこで私らと一緒に暮らしてました。私らが炊事してあげて、一緒にご飯食べ、若いもんばっか、4人が一緒に生活してました。気楽なもんでした。


戦艦長門

 郵便局へ勤めている頃、長門の見学へ大門の町内で行きました。私ともう1人、同じ年頃の事務員の娘も連れてってもらったんです。町内の人と一緒に戦艦の中を説明してもらって歩いていたら、戦艦は広いし、私らも若いし興味がありますで。「あの水兵さんええなあ」とか言うとって、途中で迷子になったんかな。そんで、後から水兵さんから手紙が来たんやって言ってましたので、一緒に行っとった子が目当てやったんでしょうな。水兵さんらにチョコレートやら缶詰やら食べたこともないようなものをいただいて帰ってきましたな。


結婚

 主人の宮崎亀夫とは、いとこ同士で親の決めた結婚でした。親と親との約束で、元々は姉がここへ嫁ぐことになってましたん。そやけど姉が、彼をこしらえて出て行ってしまったん。それで「しょうがない、妹がおるで」ってことで、私がまだ数えの18歳ですでね、満16歳と数か月ですし、もう泣き泣きで結婚させられました。私の実家も農家で兄弟も9人もいますし、ここ(宮崎家)は兄弟も少ないし財産もあって、私の実家は大分借金してたみたいです。私は知りませんでしたけど、昔の貧乏っていうとね、ほんとに大変なものでしたに。今の暮らしからは想像もできない暮らしでした。

 旦那はすでに2回中国、フィリピンと出征してまして、その間にいったん帰還したんです。というのは子を作るためにです。お若い人が出征してますでしょ。健康な人はほとんど行きました。若い人がみな行ってしまったら、内地には女、子供、年寄りくらい。昭和18年の4月に結婚して翌年の6月に、子供が私のお腹へ入っているのに、3度目の出征をしました。長男は、父親のいない時に出産したのです。


夫の出征

 国のために赤紙1枚で行かんならんっていうのはみんな覚悟してました。赤紙は役場の収入役が大抵持ってきましたな。赤紙は召集令状です。宮崎亀夫の名前が書いてあったのはしっかり覚えてます。この辺では歩兵は久居の第33連隊に入隊しました。主人は「また来たか」っていうので。私は子供がお腹に入ってましたけど、そんなお別れの言葉とか、「気をつけて」とかってなんにも言ったことないし、何も考えたことない。もう時間になって、その当時はまだ村の人達が村のはずれの徳居橋まで送ってくれました。そこから下之庄まで行って。そこまでは近い親戚の者が送っていったと思います。主人は私らを心配して兵隊にいったと思います。今までは独身でしたけど、今度は内地の勤務でも私ら家族がおりますからな。私らも志摩に行ったっていうのはすぐにわかってました。主人も「外国に行かんでもいいのや」ってほっとしたみたいです。私にとってはどこに行っても同じですけどな、家におらんのやで。

 志摩からは9月の1日に帰ってきました。私の義父は時々面会に行ってましたけど、私はお腹が大きいから1回も行ったことない。警備って言っても、古兵ですので威張っていて。またいくら海岸を警備しとっても、アメリカ兵が上がってきたらどうにもならなかったことが、後になってわかりました。


国防婦人会

 天名村の主婦は国防婦人会に必ず入会しておりました。兵隊さんを送る時でも、必ず国防婦人会の人が出てお世話したり千人針を作ったり。ものすごく日本の女の人は頑張ってましたに。男は男で青年団の教練はありましたけど、女は国防婦人会に来て竹やり訓練。「前前、後ろ後ろ、突け」って言って「やあーっ」てしました。今考えると相手は爆弾やのに、こちらは竹槍でって思いますけど、当時は真面目でした。それは敵軍が来たときに殺すためにするって、その当時はそう信じてましたからね。日本人も真剣に軍国主義一色になってました。在郷軍人が学校の校庭へ指導しに来てましたけど、みんな召集されますで、在郷軍人もだんだん少なくなりました。


戦中の思い

 戦時中は「欲しがりません、勝つまでは」って騙されてました。一般人の我々はただ、何の反発もなく上の指示通りにしとったっていうだけでしたから。自由に発言もできませんでしたからね。そんな自由が許されませんので、素直に言うことを聞くしかありません。私とこはいい物持ってませんでしたけど、金や銀の指輪とか火鉢とかお寺の釣鐘まで供出で否応なしに全部出してました。「そんなものいくら出しても、何の役に立つのか、戦争に勝てるか」って義理の父が言ってました。でもその時は、誰にも言えません。私も戦争が終わってほっとしたってのが確かな気持ちです。


夫の帰還

 主人は帰ってきてから、「これで2度と兵隊に行かんでいいから」って本当に喜んでました。主人が帰ってきたのも束の間で、長男が脊椎カリエスになってしまって、また苦労しました。そしてその子が一番大変な最中の23年の2月に主人が病気で死にました。そんでその12月にお腹に入っとった次男が生まれて。この子は父親の顔を知らんですに。私は旦那が死んだときもほんとにぼけーっとして、今後どうするのやろとも思いませんでした。旦那が死んでも涙一つ零さんし、ほんとにあっさりしたものでしたに。そういうもんやと思ってました。自分の意思っていうのは、何にもありませんでしたもん。そやから悲しい目っていうのはありませんでした。一番悔しくて悲しかったのは子供が病気したこと。私は自分の子供だけは、命に代えても育てようと思てました。


再就職

 2人の子を持つ女として復職したいと義父に相談したところ、快く承知してもらい、当地にある天名郵便局に復職しました。昭和27年12月、年の瀬も迫り忙しい時に、経験者であるからと歓迎してもらって、勤務が始まりました。当時は集配局で、外務員4名、内務員4名(内3名が宿直勤務)、3日に1度の24時間勤務(朝8時30分~翌朝8時30分)です。農業は当時、田8反を義父と耕作していました。勤務最初の宿直日、当時次男は3歳4か月、今まで夜は母親と寝ていたのが急に母のいない夜で寝付くのが悪くて義父がおぶって寝かせてくれたそうです。母親の勤めで2人の子供の境遇が180度変わりました。けれども兄弟仲良く育ってくれたのが何よりの救いでした。20年間、3日に1度の宿直で何年局で泊まったのだろうと思うことがありました。

 昭和49年12月、電通合理化で電話交換もなくなり、私は白子郵便局(普通局)に転勤を命ぜられ勤務することになりましたが、こんな事になるのではないかと昭和46年、45歳の時に普通車免許を取得していたのが幸いでした。58年4月20日、勤続30周年表彰を受けるため名古屋中日劇場で坂東玉三郎の芝居を見せてもらい、感激しました。当時の私には観劇などする余裕もなく、玉三郎という名も知りませんでした。永年勤続賞を貰ったら退職しようと秘かに決めていましたので、郵政職員としてのピリオドをうつため、第16回郵政事業論文コンクールに応募しました。論文なんて、自分でも思ってみたこともなかったけれど、少しずつ資料も集め、原稿用紙30枚以上の規定も厳守して提出した結果、入賞をしました。思いがけない出来事で、当時の局長(石薬師出身・古市久二さん)が名古屋郵便局人事部長に、「57歳で女子職員が論文コンクールに入賞したんだね」と言われて、「僕も鼻が高かった、宮崎さんありがとう」と言われ喜んで下さったことも退職のよいしめくくりができ、私の最高の喜びでもありました。


趣味と実益を兼ねて

 3日に1度の宿直勤務から日勤に替わり、吼山流詩吟道に入会したのが昭和49年12月、歌を唄うのが好きで、練習に励み、5年で教えられる免許をもらい、毎週3か所の教室めぐりが始まりました。遠くは津市一身田町へ10年通い続け、教えた生徒が奥伝になるのを期にその教室は譲りまして、50名近くいた生徒も散り散りに死亡して、現在は94歳を頭に5人の生徒になってしまいました。私の吟声30周年記念には、松阪支部からの応援もあり、華道吟、書道吟と盛大にでき、それぞれの生徒さん一人ひとりに感謝の気持ちを表しました。

 他の趣味も平成5年から書道、先生は100歳で今でも続けています。退職したら是非始めたいと思っていたお箏の練習も、月2回亀山市関町まで行っています。民謡も、詩吟との発声の仕方の相違等、勉強するために習得しています。何にでも挑戦してみて自分の力を試したい、でもこれができるのも、健康な体を育ててくれた両親と、与えられた職を全うしたお陰かと、毎朝仏前で「有り難うございます」と感謝の気持ちで一杯です。

[※小川真依の原稿をもとにご本人が表現を改めた]