小野照光さん(昭和1年生まれ、稲生地区在住)

138 ~ 140

 生まれは稲生で、戦中戦後も稲生で過ごしました。戦時中は勤めに行っとったんですが、食糧難で終戦後に農業を始めました。


海軍工廠で働く

 生まれは稲生で、戦中戦後も稲生で過ごしました。戦時中は勤めに行っとったんですが、食糧難で終戦後に農業を始めました。私は稲生の高等小学校を出て、県講習所を修了し、県に就職。2年くらい勤めてから、家から近いこともあって、昭和19年頃に海軍工廠へ工員として就職しました。就職した頃は、技術を学びに呉海軍工廠へも行ったんですよ。向こうで過ごしたのは3か月で、事務所と現場とを行き来しとるだけの仕事でした。作業自体はしてないですよ、技術を教えてもらいに行っただけですからね。呉では食糧難でしたね。ちょっとした喫茶店があったんですがね、そこにようけの人が並んどるんですよ。何が貰えるのかなって思って私も並んでみたら、小さな団子1つだけでした。そのために数珠繋ぎに並んでね。だから、鈴鹿はその点は楽でしたよ。まだ米がありましたでな。

 鈴鹿海軍工廠には、工員だけで2万人くらいがいたんじゃないですかね。徴用で来た20歳過ぎの朝鮮人もいて、軍隊と一緒に門の前で敬礼して工場に入っていってましたね。朝鮮人がいたのは鈴鹿だけで呉の方にはいなかったですね。それから、亀山の関より向こうの新堂ってところから通ってる者もいました。加佐登まで汽車で来て、そこから工廠まで歩くんですよ。それはえらかったでしょうな。寝る時間がないって嘆いてましたに。それでも、家から通う方が都合が良かったんでしょうな。

 私は寮に入って生活してました。呉から帰ってきて、しばらくは家から通とったんですが、指導工員になってましたから、どうしても寮に入らなあかんってことになりましてね。指導工員20人くらいが寮で生活しましたに。寮生活っていうのは本当に厳しくてね、舎監の館長が軍隊上がりの者でしたから「起床5分前」って言われるとビシッと起きないかん。部屋でも何人かが一緒になって生活してました。軍隊と同じような生活ですよ。

 食糧難でしたから、うちの母親が見舞いに米を置きに来ましたわ。米は蒸気で炊きますんやけど、寮の中で炊くわけにはいきませんもんで、ちょうど近くに水の流れてない川がありまして、そこが石垣になってましたので、木を突き刺してやかんで炊いたんです。その時ね、私も疲れてたのか仕事を休んでたんです。でも、その休んだのがあかんかった。それが寮長に見つかってさな、スリッパで顔がパンパンになるくらい張られましたよ。それも、当時は1人が悪いことしたら、その友達も連帯責任ってことになってましたので、みんな張られました。

 工廠内では技術工員として働いてたんですが、出張が多かったですね。当時、工廠にあった機械の調子が悪くてね、瀬戸の大隈鉄工所が良い機械を作とったので、そこに1か月くらい技術を学びに行ったり、機械の具合が悪くなったって言うと、それを直しに行ったりね。それから、亀山実業学校の生徒に技術指導もしてたんです。小学校を6年で卒業した者はみんなここに学徒動員で手伝いに来てましたからね。かわいそうでね、見舞いに寄宿舎に行くと、窓から「帰らせてくれ」って叫んでね。先生が寄宿舎から出ていかんように囲とったらしいです。本当にかわいそうな時代でしたね。そりゃ家が恋しいでしょう。

 私は第一弾莢にいて、弾を作ってたんです。当時は19歳くらいでしたから、工員では私が一番若くてね。作業自体はね、弾のお尻の部分、雷管を作ったんです。それから、飛行機乗りが自分の撃った弾がどこに向かって飛んでったかわかるように、3発から5発に1発くらい曳光弾(えいこうだん)っていう発煙弾を入れてたんですけど、それも学生らが装填してるわけです。そういう作業をずっとしてました。時間もね、工員は昼勤と夜勤の2交代で昼勤は朝の8時から夕方の5時まで、夜勤は夕方の5時から朝の8時まででした。もちろん小学生は昼勤だけやに。ずっとぶっ通しで作業してるのは大変ですよ。夜中になるとね、寒い冬は休み時間におじやとかお粥が1杯ずつ出るんですわ。それは夜勤で働いてる人全員がただで貰えました。寒いですでな。

 作業に間に合うのは、ほとんど高等女学校の子でね。今でいう中学生ですね。この子達とは夜も一緒に働きましたでな。私が腕章をつけてると女の子達が後ろからついてきてね。あの時はみんなが一丸となって働いてましたからね、学校が違っても一緒になって頑張ってましたよ。学童もね、作業する時にはいろいろ組に分かれて作業したんです。1組に5,6人ぐらいが配属されてね。仕事によっては組の中に工員もいるし、中学生、小学生もいましたな。

 組には1人は女の事務員がいましたね。それも一等工員ですよ。一等工員じゃないと役職なんか貰えませんからね。秘書関係におりました時は、そろばんだけができる方もいましたな。大きな事務所があったんですけど、そこに座っとってね、普段はポカーンとしとんのやけどね、私らが上から数字を読み上げてくとそろばんでササッとやりますでな。なんにも字書くこともできませんでしたのに。あれはどうなっとるのかなと思いましたけどな。大したもんですに。


戦中・戦後の思い出

〔伊奈冨神社の掩体壕〕

 飛行機の修理工場として伊奈冨神社の裏に掩体壕がありましたよ。最近まではあったんですが、もう埋めてしまって今は平地ですけどね。大きいところで3,000平米くらいありましたよ。柱が組んであるところに大きな板を何枚か重ねて、その上に土を盛って木を植えてね。そこに飛行機を入れて隠して、修理もしてました。他の掩体壕はほとんどが隠す場として使ってたみたいですけどね。飛行機は航空隊の整備士が運んできて、修理も彼らがしてたんじゃないですかね。一般の人は入れませんで、実際に運んだり修理したりするのを見たことはないですけどな。

 そういう掩体壕も、軍が勝手に作るんです。でも、当時はそれに反論なんかできませんでしたけどね。軍が言う通りにするだけですわ。それに、私らも何としてでも勝たないかんって思ってましたしね。

〔鈴鹿市誕生の記憶〕

 鈴鹿市ができたのが昭和17年でしたな。鈴鹿海軍工廠を建設する前に鈴鹿市が誕生したんやと思いますの。その記憶だけはありますで。

 その時分に白子に行った時に、戦車2台がゆっくりと江島の郵便局前を通り過ぎていくのを見ましたよ。陸軍の戦車でしたけどね。それを見た時に大きくなったなと感じましたね。

〔海軍将校が民家に下宿〕

 当時は海軍もようけ民家に遊びに来てましたよ。この近くでは海軍将校の方が下宿してましたに。民家が寄宿舎みたいになってました。食事だけは海軍で食べてたみたいですけどね。寝泊まりは民家に行って朝になると海軍に戻るんですな。それでね、その下宿していた将校が民家の娘で白子中学の英話の木村先生と終戦後に結婚しましたんや。北海道の方でしたけどね、終戦後も帰らずにこっちに住みついてたんです。私の知人で白子高校浅井正治剣道8段も鈴鹿に残りまして、市の発展に貢献しました。

〔伊奈冨神社の忠魂碑〕

 日清・日露・大東亜戦争の戦死者の忠魂碑が伊奈冨神社の奥の丘に建設されてましてな、毎年4月15日になると慰霊祭をするんです。神楽をあげたり、お祈りをしたりするんです。4月の第1日曜日に稲生中の方が来て、草刈をするんです。遺族の会の方は、それとは別に、また後で忠魂碑の周りを掃除するんです。

 初めは、慰霊祭も遺族の会が主催でやってたんですが、最近は自治会がやるようになりましたな。戦中は式典はやってなかったんですけど、戦後になって発足しましてね、それから今までずっとやってるんですよ。


終戦後の生活

 玉音放送は海軍工廠で聞きました。みんなが受謀所の前の広場に集まれってことで集められて、放送を聞いたんです。その時に、初めて陛下の生の声を聞いたんですけど、薄ら声で何が何だかわかりませんでしたね。ラジオ自体もあんまり良くなかったですしね。後で人に聞いて敗戦になった事を知りました。私も日本は勝つものだと思ってましたから、悔しい気持ちもあったと思います。工場も閉鎖するってことでもう働きに来んでいいんやっていう安心感とアメリカが上陸してくると何されるかわからんっていう不安とが入り混じったそんな気持ちでしたね。

 戦中にはね、航空隊が農家の納屋に勝手に衣類や食糧などを入れてたんです。海軍がようけ民家に泊りに来てましたでしょ。私どもの畑のすぐ端に鳥小屋があったんですけど、そこにもなんやらようけ入れてましたに。戦後になって軍が引き揚げた時に、近所の住民が入ってた物品を持ち出しに来ましたんや。その夜は、みんなが寝やんと引っ張って分け合いして帰ってったってことですわ。朝行ったらもう何にもなかったって言うんですでね。私の家の傍にも倉庫があったんですけど、私は持ち出しには行けませんでしたわ。

 終戦後も、しばらくは物がない時代でしたからね。私はどこへも就職するあてがなかったですから、百姓を始めたんです。それからずっと未だに百姓です。あの頃は、農家は殿さんで農家さまさまでしたよ。米でも1升を持ってくと大名暮らしで、なんでも好きなことして遊べました。京都や大阪からも買い出しに来ましたよ。反物持って、これと食べ物と替えてくれってことでね。米でもちょぼっとやるとえらい喜んでましたよ。農家もね、朝一番から鶴橋まで行くと、大体なんでも売れましたな。もちろん電車で警察に見つかると没収されますから、運ぶ時は窓の方へひもで米をぶら下げたってことを聞いてます。それが今では反対で、百姓から勤めに出る方が良い時代になりましたけどね。

[杉山亜有美]