学校と役所への勤務
尋常高等小学校卒業してから1年、家で親父の商売を手伝っとった。父親は「中学行け」って言ったけど、勉強嫌やで尋常高等小学校へ行っとったんやわ。それで1年経ってから「これではなぁ」って。せめて中学校ぐらいあがっとらな、いかんなぁっていうことで試験受けに行った。四日市市立商工学校へ。それで今の四日市工業の商業科へ入った。終戦の前の年に商業科が廃止になって全科に変更したわけ。その当時、昼は市役所におったもんで、夜間部入った。学校行くのに、今の鈴鹿市駅から5時2分か、そこらの電車に乗りよったんですわ。普通やと退庁が5時やで、役所に事情を話して時間をもらって、4時半になるともう夕飯の弁当食べた。その当時の市役所は、もう道路になっとるけど駅は近かったでな。
役所へ入ったきっかけは、戦時中で商売もできやんだし、ほとんど家で半分遊んで半分手伝っとるようなことで。役所の知り合いに「お前、そんなんなら役所へ来い」って、昭和18年の4月に役所へ引っ張られた。その時の市役所の職員って100人ちょっとぐらいやなかったかな。私は税務課へ入ったけども、その当時は電卓とかそういうのはなしで、計算はそろばんばっかや。そろばんが大なり小なり少しできたもんで、税務課か会計課っていうことで、税務課に引っ張られた。あの当時に税務課は14地区あって、20名くらいおった。税務課でも地区地区でわかれてますわな、それでほとんどは出身に近いところを担当する。それで私も若松を担当した。大体、地区ごとに1人か2人でしたな。私は昼は役所へ勤めて、夜学校へ行っとった関係で、学徒動員には関係なくって工場には行かなかった。
軍隊生活
私は終戦の年の1月に陸軍に通信兵として赤紙の召集で入隊したわけ。その当時は数えで18歳ですわ。満でいくと16歳です。召集令状がきた時も、兵隊に行かんならんっていうのは自分で思とったし、別に何にも思わんかった。若松駅まで送ってもらって、そこから四日市で国鉄に乗り換えて、名古屋に行って部隊に入った。鈴鹿市から名古屋の部隊まで鈴鹿の担当の方が送ってってくれるの。
最初入隊したのは名古屋。それからすぐに愛知県の三好の小学校で1か月ばかりおって、それから岐阜市へ行って、岐阜市から犬山で、犬山から多治見のお寺へと、20人ばかりで転々として。通信兵っていっても、ほとんど今でいう電話のケーブルを外す作業。おそらく導線をとって使うんやろなあ。通信兵でも、通信の方と外へ出るのがあったんです。それで私は学校が電気科やもんで。そういう経験の必要があって引っ張ってきたんやろなぁと思う。ちょうど岐阜市に行った時は、岐阜市は焼け野原で。まだ煙があちこちで燃えとった。
〔食事〕
ご飯は十分に食べられやんしお腹は空くしで、兵隊の時は大概苦労した。作業で外へ出た時は、一般の家庭で休憩する。そうすると、大豆を煎って「兵隊さん、食べて食べて」っていうて貰った。持って帰った時は、食べる時に音がするで、部隊内では布団かぶって食べて。決して、兵隊に行っとるからご飯は十分食べれたってことはない。7月は、ほとんど毎日キュウリ。キュウリがほとんどやったんやわ。少ないご飯と、おかずに大根漬けとな。その当時はゆっくり食べることはできんし、お茶も飲みたくてもすぐにはよう取りに行けんような現状で。
〔軍隊での思い出〕
1番記憶にあるのは、短小銃って銃があるんですよ。それを掃除するわけ。「銃口の中は掃除せんでもええなあ」って少年兵ばっかりで掃除しながらサボっとったん。そしたら後ろに立っとったんやな、上等兵が。それを聞いたら、その銃をばっと取られて、持ち手の金でガツンとぶたれて。本当にあの時は目から火が出るかと思ったな。それだけはよう忘れん。殴られるのはしょっちゅうやったけど。
岐阜におった時は、作業で電柱に登ったら艦載機が来て。「動くと艦載機からわかるで」ってことで、登ったままで「降りるな、動くな」って言われるし。電柱にぶら下がったまま1時間くらい動かずにおった。あれが一番きつかった。
玉音放送から帰宅
〔出征前の帰郷〕
8月の始め頃に多治見へ来た時は、もう何しとったんか作業した覚えがない。いっぺん、小隊長の軍刀を私が持って、お付きみたいなもんやな。それで高山に1日行って。帰って来てから、ちょうど終戦の2日前に朝鮮に行かんならんってことで、行く前に2泊3日で鈴鹿の家に帰って来たんです。それで8月の13日に家に来て、15日の終戦の日に隊へ戻ってな。何で外泊できたかというと、班付きの上等兵が尾鷲の方で、それから班付きの小隊長が伊賀上野の方で。それで三重県の少年兵は私1人。偉いさん2人と少年兵とで三重県が3人そこにおったの。私の家が商売しとるもんで砂糖とか塩とかそういうの、家にあるもの取って来いってことで、それで鈴鹿に戻って来れた。
〔玉音放送〕
ちょうど12時の天皇陛下の放送の時、名古屋駅のホームにおった。ようけ憲兵がおったけど、私は「なんかあるんやろなぁ」って思うだけで、ただ単に部隊に戻って行くってだけの感覚です。放送は聞こうと言う気もないしさ。人がようけおるし憲兵が多いし、なんやろなぁって思うだけで。2日前に私が家に帰った時に、航空隊の隊員が2人家に下宿しとった。その時にちょっと、「もう終戦や」っていうことは耳に入ったけども、私は「まさか」ということで、もう頭にないわけです。それから4時半過ぎに多治見の部隊へ戻って、部隊の小隊長に終戦になったってことを知らされて。それで1週間してから解散で帰りました。それで持ってきた荷物どうしようって。ちょうど多治見にはようけ梨園があったから、荷物と物々交換して。それで部隊は朝9時に解散して。帰ってくる時も暑いし、リュックに大豆を5升、米を5升を入れて。それだけもろて帰ってきた。それと地下足袋と。米やそういうものは家に帰ったらないっていう頭があるもんで。リュックにいれて3里も4里も歩くんやでさ。暑いし、帰りに百姓へ寄って、地下足袋をスイカに換えて。それでスイカ食べながら歩いて来よった。家に帰ったときはもうやれやれって。8月の22日に、もうここへ帰って来た。そういうわけで、1月に入隊しとるもんで、鈴鹿市内の空襲っていうのは全然わからん。
兵隊から帰って
それで兵隊から帰って来て、また役所へ戻った。9月過ぎかな。「帰って来たんなら、もういっぺん来い」って言われて役所へ入って。兵隊に行く前と帰ってからで市役所にえらい変わりはなかったな。昭和23年か24年まで役所におって、そのあとは親父の商売。
学校へも戻って。本当は兵隊に少し行ったもんで間があるんやけども、先生が「帰って来たなら、もういっぺん編入試験受けよ」っていうことで。2年生で兵隊へ行ったんやけども、4年制の編入試験を受けて、それで早く卒業した。終戦後、編入試験を受けたのが3人。その中で1番年長の人が38歳で、私が1番若い。その間に27,8歳の人が一緒に編入試験を受けて、3人とも4年生に編入した記憶があるんや。
市役所では、また税務課に戻って。その後は厚生課と商工課にちょっとずつ。それから選挙の事務局で最終です。商工課には半年くらい、救援物資の配布とかを計算せんならんでって引っ張られて。配給物資ってのが終戦後にはあって、商工課が集めて地区地区に配布するっていう恰好でした。
〔選挙管理委員会〕
昭和22年頃やったかな。第1回の市長選挙があって、あの時に選管やった。その時の選挙管理委員会ってのは、正規の市の職員は事務局長と主任の2人だけで、あとは10人くらいパートの人。その時に私が市の職員として局長の代理で。選挙が済んで、ちょっとしてから役所は辞めた。その当時は2町12か村で、選管におる時はパートの方を連れて、投票缶をずっと各支部へ配って歩いた経験がある。開票は2か所でして、最初の選挙で24時間経っても開票の結果が計算できやんの。普通やったら、いくら遅くなっても1時か2時には終わるんやけど、それが明くる日の昼になっても総計がわからんだっていう記憶がある。その当時の選管の役職あった人なんかは、もうほとんどみえやんやろうな。男では我々が1番年が若かったんやで。その時22歳くらいやでな。
実家での食事
戦時中は、私の家がカマボコの商売しとったもんで、塩とか砂糖とかはあったから、あっちこっちから物々交換で米と交換しとるおかげでしのげたんやと私は思っとる。塩や砂糖は、カマボコ作る原料として家にあった。1番えらい時は兵隊に行っとったし。
カマボコの材料は、地元で揚がる魚。戦時中から終戦後5年くらいは、地元で揚がる魚で製造しとったけどな。その当時は夏はキス、冬はアカハゼ。もう今はそのアカハゼっていうのも、漁師が獲りに行かんので全然なし。今あるのは、もうキスくらいやろな。アカハゼなんかは身はカマボコにして。頭とかそういうのは吸物にしたりダシにしたりして、自分らは食べよった。良いダシ出るの。まあもったいないでってことで。