戦中の生活
鈴鹿市には昭和12年に来て。それまではな、父親が岐阜県の職員やったもんで、時々移動がありますやん。それについて歩いとったもんでな。それで12年になってからな、この家におじいさんとおばあさんだけおったん。2人だけやったもんでさ、私と私の下の弟の2人だけは12年からここに来てさ。父親は22年くらいまで岐阜におったんかな。母親は17,8年くらいに私の弟と妹を連れてこっちへ来た。私は一応、神戸中学に入ったわけ。神戸中学に入ったんけども、おじいさんがだいぶ弱っとるもんで、1年生の2学期で学校辞めて。それからずっと家の手伝いです。
兵隊さんとの交流
そこ(近所)に飛行場があったんです。そこに松林があるんやけども、そこで兵舎建てて寝起きしておって。兵隊さん、お腹空かせとるやんか。せやもんで私らが山の草刈りに行っとった時にさな、焼き芋して待っとってやったの。それでいっぺんやるとさ、癖になるんやね。私が焼き芋をして待っとる兵隊さんは見習士官やったからさ。まだ大学卒業しとらへんもんな。あんまり年も違わん人らで、この2人は優しかったよ。
同じ見習士官でもう1人おったんですわ、この人はきつかった。私は昭和18年頃は勤労奉仕で飛行場を造りに行ってましたけども、それで集合かけるわけやんかな。兵隊と違うし、若いもんばっかやからさ、さっとやらん。集まるのでもダラダラして集まるとさ、「5分もあったら戦闘機は上にあがってく」って言ってさ、「もういっぺんやり直し」って言うてな。それで夕方、作業が終わりますやん。スコップなんかをいちいち手で触ってさ。泥が付いとると、「もういっぺん洗い直してこい」って。そういう人もおりました。
掩体壕や誘導路もつくってさ。掩体壕へ続く誘導路を隠すのに、その辺の松葉や杉葉を持ってきて刺すんやんかな。刺した時は青いけどな、すぐ枯れて赤くなってしまうやんかな。周囲は田んぼや畑やで、いつ見ても緑や。そこだけ茶色いものがずっと続いとったら、上からみたら「これ何や」ってなるわな。その時はそんなに考えませんけどな、今思うとそんなことしてもすぐわかるのになって、そう思う。
戦中の食事
イモ、それからサツマイモの蔓、春はレンゲなんかを食べてました。レンゲは茹でて食べるとおいしいですよ。花が咲くと固くなってしまうから花が咲く前にな。カボチャとかな。供出もありましたよ。米と麦、それとサツマイモ。家は田んぼや畑は少なくて茶畑が多かった。自分のとこが食べるくらいしかやってなかったもんで、家としては供出はあまりなかったんです。
買出しも、家は自分のとこが食べるだけしかないで、来られたからって分けてあげる分もないけれど。中には山を開墾してさ。役場の台帳にはあらへんで、その面積はヤミやんか。それで1貫目50円とかで売って、儲けた人がおる。私の家はじいさん、ばあさんと私らやでさ、山があってもそんなん開墾する気力もないしな。
防衛隊
20年6月に津の町の建物の疎開に行きました。これは一応、召集令状がくるわけ。赤紙が。最初の1週間は亀山の小学校で訓練して6時に帰ってくる。そしてまた何日かすると、赤紙がくるわけ。3回くらい行ったんと違いますかな。一応兵隊の階級はもらってますよ。ここの場合は深溝の区の小使いさんがおって、その人が役場からその令状をもらって、各戸の家に届けとった。赤紙が来た時も別に遊びみたいなつもりでな。戦地へ行くわけではないでな、緊迫感もない。戦地へ行くのではまた、思いが違うでしょうけどな。
津の町の疎開で、私らがやったのは道幅を広げるために家を壊すこと。たとえば焼夷弾を落されても一角だけ燃えてもそれが広がっていかんようにな。疎開の為の道路拡幅やな。大体8時から17時頃まで。訓練は夜やったしな。召集やで帰るのは亀山の小学校へ帰る。私らが建物を壊して家に帰った晩くらいに津の空襲があったと思います。
防衛召集の時は食事もちゃんとありましたに。食べるのもお米も入った麦飯。でもこの辺におった兵隊さんは食べ物も少なかったみたい。サツマイモの床作りますやろ。するといつの間にかイモがなくなってる。そこらの松林に秘匿の飛行場の兵隊がおるんやからな。山の方に兵舎建ててな。荒神山や石薬師の部隊は塀がしてあって出られやんけども、ここはオープンやからさ。
警防団
今の伊船の集会所になっとるとこかな。深溝から1人、伊船から1人、長沢から1人って、各区から1人ずつ出てきて泊っとるわけ。夜になったら行って。すると空襲警報が出ると駐在さんが言うてくるわけやな。そして、その当番の人が自分の部落へ行って。その頃サイレンはあらへんからさ、鐘を叩いて知らせる。
玉音放送
玉音放送は防衛隊におった時で、放送聞いても何の話か全然わからん。ラジオは鳴っとったけども、ガーガーとかなんとか。終戦は隊長から15時頃に知らされた。やっぱり悲しいくらいやな。でも私のおじいさんはかなり早い時期から負けるって言っとった。そのおじいさんは息子2人を海軍に出して。私の親父は目が悪かったもんで、兵隊は関係なかったけど。夕方にもう防衛召集は終わりで、戦後はもう手伝いなんかはなかったな。
(防衛隊について)
8月初めにアメリカ機による参宮線の列車銃撃戦がありました。丁度昼食過ぎで、休んでいた時、その知らせがあって全員救護に行きました。現場に着いた時は、列車は救援列車によりすでに亀山駅に戻っていました。列車には、菰野方面から志摩の方に勤労報国隊として行かれる人が死亡したり傷を負われたりしていました。当時、鈴鹿地方事務所長の鈴木さんも死亡されています。そのようなこともありました。参宮線、現在の紀勢線で、亀山駅を出て鈴鹿川を渡り、阿野田のトンネルに入る手前でおこりました。(ご本人の加筆)