男性(昭和2年生まれ、稲生地区在住)

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戦中の生活

 戦中戦後は稲生で過ごしました。稲生小学校を4年行って、高等科に2年行って、その後すぐに第二海軍航空廠に入廠したんです。14歳か15歳ぐらいですね。戦中は遊ばせてもらえやんから、学校卒業したらどっかで働かなならんでしょ。だから、一番近場で自転車で通えるからってことで、そこで終戦まで働きました。

〔第二海軍航空廠での仕事〕

 第二海軍航空廠って、いうなれば今の会社やね。整備したり供給したりする一つの組織やったんです。そこでは発動機科、機体科、装備科がありました。装備科っていうのはね、機銃とかなんやかんやを装備するところ。機銃なんかも、前のプロペラに当らんように装備せないかん。戦闘機には前に2丁機銃がすわっとるでしょ。それ調整すんのは難しいわな。機体科は羽の掃除とか、操縦管の油差したりとかしとったんやないかな。機体科におらんかったから、ようわからんのやけど。私は発動機科に入っとったもんで、発動機を整備しとった。航空廠には予備の発動機が倉庫にどんっと入れてあるわけやね。その発動機に油が入れてあるんですけど、星型エンジンやさかいに、油が下にとごってしまうから、発動機にプロペラみたいなんを付けて月に1,2回、回したらなあかんのですわ。私らはそんな仕事をしてました。

 二空廠では、航空機の試験飛行もしとったもんで、兵隊さんらが飛行機乗ってけってよう言うてね。まぁ、爆弾の代わりですよ。だから、私ら早いうちから飛行機乗って伊勢湾の上空を回とったですよ。それが楽しみでね。色んな爆撃機に乗りましたね。というのも、隣に三菱の工場があって、そこが飛行機を納めに来るわけです。

 二空廠には、そこらまわしから働きに来とったですよ。やっぱり地元の人が多かったですけどね。中学生もいたし、40か50歳くらいの人も一緒に働いてましたから。神戸中学の生徒もようけ来とったよ。中学生でも、工員でも、みな同じ扱いでね。いつも8時に始まって、昼休憩はさんで、16時くらいに帰ったかな。8時間労働やでな。交代勤務っていうのはなかったですよ、働く人はようけおったでさ。私は、時にはうっかり遅刻して怒られたこともありましたよ。

 当時は、上は軍人さんばっかりやったから厳しかったですよ。あの時は特務大尉がおって、その下に下士官が2,3人おったな。それでも、その特務大尉もええ人で、二空廠では出張も多かったよって、同僚は岡崎へよう行きよったけど、私は「母と2人やったから出張はやめてくれ」って言ったら「そんなんやったら行かんでええ」って言うてくれて、出張も行かんで済んだけどね。そやけど、初めの頃は講習には行きましたね。私なんかは神奈川県の平塚まで講習受けに行ったな。そこで整備について教えてもらうの。それから千葉県の木更津にも行きました。

 二空廠には、寮はなかったけど、当直はあってさな、私も当直をやりましたよ。当直の飯は、隣の鈴鹿海軍航空隊へ貰いに行くんさ。第二海軍航空廠と鈴鹿海軍航空隊の基地はくっついとんのや。航空隊の西に航空廠があって、倉庫も何もかもくっついとんのや。やから、行き来は自由にやっとったもんでね。ご飯貰いに行くと、兵隊さんがどんと飯を盛ってくれてね。私なんかは、お腹空かすなんてことはなかったです。あの頃は家庭では大根飯なんかを食とったけど、軍隊なんかにはどんと食う物があったからね。

 1回切りやったけど、敵の飛行機が1機飛んできて爆撃してったこともありました。私は倉庫におって昼ごはんを食べとったんやけど、ドーンって音がして、上から爆弾のギザギザの破片が倉庫破って落ちてきてね。あんなもん当ったら命ないわさな。そりゃ怖かったよ。突然来るよってにな、逃げる余裕もなかったわけ。銃撃した後は、敵の飛行機も中国の方へ逃げていきましたな。当時は、私らも子供やでさ、面白いもんやから弾が残ってないかと思って銃撃されたところ掘ってみたけど、そんなもん入ってないわさな。弾なんて地面に穴掘って抜けてくんさ。空襲があるとね、これ幸いとみなそこらまわしに行って帰ってこないんですよ。まぁこっちとしては良い休憩になったわけ。友達なんかはカラスの巣を見つけに行きよってね。

〔鈴鹿市誕生の記憶〕

 鈴鹿市が誕生するってこと自体は知っとったよ。人から聞いたんかな。各村に市役所の支所、昔は村役場っていいよったけど、そこが1つはあるさかいにな、誰からでもなく伝わってきとった。鈴鹿市ができるからって騒ぎなんかもなく、冷静なもんでしたよ。まぁ、そりゃあ、軍が決めたことですからそれに逆らうわけにもいかんし。

 村役場は、前の出張所があったところにあったんさな。古い建物でさ、真ん中に廊下があって、戦時中やさかいに兵務科とかそんなんがようけあってさ、赤紙があるとそこからみな持ってきよったんさな。村役場に赤紙が来るとそこの小使いさんが渡しにくるんさ、「おめでとうございます」って。何がおめでたいことか。

〔出征兵士のお見送り〕

 出征する時は、稲生の人は鼓ヶ浦の駅から電車に乗って行きよったんさな。出征兵士を家族、親戚、それから集落の人で送るんさ。お別れの挨拶は、今の塩屋の墓があるところであって、そこまでみな送ってきよった。やけど、その人が遺骨になって帰ってきたりね。終戦近くには遺骨すら帰ってこない者もいたみたいですけど。


戦後の生活

 玉音放送は第二海軍航空廠で聞きました。重大な放送があるからってガーガー鳴るラジオでさ。何言うとるかわからせん。後から「なんて言うとったんや」って聞いたら「戦争に負けた」ってことやったんや。その時は悔しいって思いもあったけど、その一方で安心する気持ちもあった。一緒に聞いとった軍人さんは泣いとる人もおったし、気楽な人もおったな。練習機で赤とんぼってのがあるやろ。それを、秋田の人で「実家に帰ってくのにくれ」って言うて乗って帰ってった人もおったに。

 航空廠で働いとった人で地元の人やと、戦後はみんな百姓しとったと思います。農地解放があったでしょ。その当時、田んぼ作っとった人は水呑百姓ばっかやったんや。そやけど、みんな安い値段で田んぼもろたんさ。

 稲生の高台(家から少し西に行ったところ)に高射砲があってさな、戦後は進駐軍がそれを壊しに来た。それと、野町、今の伊勢鉄道の辺りから東の方ね、戦中はそこからずっと飛行場やったんやけど、あそこも戦後に開拓団が来て、旭が丘ができたんやでね。その時に、頭のええ人がおって交通整備をきちっとしとったら、あそこもあんな狭い道じゃなかったのにね。

 私も終戦後、第二海軍航空廠から帰ってきてからしばらくはブラブラしとったんやけど、昭和21,22年頃に農業会、今でいう農協さな、そこに行ったんです。昔は農業会も各村々に1つずつあって、そこで独自に活動しとったわけさ。農業会が潰れて農協になって、その農協の理事を私の伯父さんがやっとったもんで、口きいてもらってそこに入れてもらったん。12,13年おったかな。それで玉垣に川崎重工業の会社、今の富士電さな、それが出来たもんで、そこへ試験受けて上手いこと入って、神戸に3か月くらい研修に行っとったな。研修が終わって稲生に帰ってきたら、会社が富士電になって、そこで定年までおりました。

 戦後一番変化を感じたのは、とかく、杉本さんが本田を引っ張ってきたんが一番大きいわな。本田技研が入ってきた時が一番景気が良かったでね。

[杉山亜有美]

昭和38年 鈴鹿海軍航空隊跡地の様子 電通学園、大東紡などが見える(鈴鹿市)