私達は年が1つ違いですけど、小さい頃からずっと一緒でね。2人とも国府生まれで、戦中もここで過ごしました。森さんの兄さんは3人が戦争で亡くなってます。みんな甲種合格で三重県でも優秀な軍人だったわけ。だから、森さん家は終戦後はここら辺の遺族会の会長やってたの。
小学校・中学校時代
〔勤労奉仕 打田さん〕
私達2人とも国府国民小学校に行きました。小学校でも勤労奉仕はありました。ここら辺でも戦争に行っとる人がおりましたから、その出征兵士の家に農繁期になると必ず手伝いに行きましたな。その頃はね、蚕が盛んやったん。だから桑つみに行ったり、桑の木の皮を剥いたりね。桑の木の皮ってロープみたいに頑丈でしょ、その桑の木の皮を干したものを小学校にみんな持っていったん。学徒動員も来たけどね、この辺は特に沖縄から若い人らがたくさん来てくれて、長い間この辺に泊まり込みでずーっと来とったな。
〔学徒動員 森さん〕
私は小学校に6年行って、その後、神戸中学に進みました。私らの時には、たった3人だけ中学校に入って、その内2人が神戸中学に行ったんです。神戸中学の5年生になる時に学徒動員になって、鈴鹿海軍工廠で十三粍機関銃を作りました。中学に行かずに海軍工廠で作業していたんです。でも、空襲も激しくなってきて、海軍工廠から現在の神戸高校の体育館のある場所に機械を移すことになったんです。私達はそこで作業をさせられました。
学徒動員には亀山実業学校の人、亀山女子師範学校の人、石川県の小松高女の人が来ていました。海軍宿舎に強制的に入れられて、そこから海軍工廠に通いました。500メートルくらい距離がありましてね、今の本田の工場の東門から入っていくんです。行く時も、歩調をとれって事で200メートルくらい手前になると軍隊と同じようにいちっ、にっ、いちっ、にって言って歩くんですね。門には技術将校が立っておりまして「君らは一般工員の模範になってください」って言われてね。良い恰好をさせられるわけです。
朝8時から夕方17時まで、昼の休憩はありますが、その他は休みなしで工作してました。一生懸命になって一般の工員さんに教えてもらってね。17時になると、東門まで現場から170人の同級生が歩調をとって歩いていって宿舎まで帰っていったものです。
その時に、軍人さんに「神戸中学校の皆さんは一生懸命働いてくれたから、今日は美味しいものをあげます」って言われたんで、私達は大変喜んでおったんです。そしたら芋の雑炊でした。当時はそれが御馳走だったんです。それ以外はおかゆです。水の中にお米がパラパラパラっと入っているだけで、他は芋が少し入っている程度。朝も昼の食事もそんなものばかりでしたね。我々の同期では7人ぐらいが栄養失調で亡くなりました。私は何とか生きながらえたんです。というのも、寮から夜に看守の目を盗んで家に帰ってきてね、当時は電話もなかったですから、私が帰って来てから母にご飯を炊いてもらって、それをおにぎりにしてガブガブっと食べて、一緒の寮におった同級生達のためにおにぎり10個くらい拵えてもらって、それを食べさせたんです。そしたら、それが教官に見つかって食べることができなかったという思い出があります。それくらい食べる物がなかったもので、ずいぶん苦労しました。頬も痩せこけてね。技術将校さんは白いご飯を食べていたようですが、私達学生はいつもおかゆでした。
〔空襲 森さん〕
グラマン戦闘機っていうのが伊勢湾の外にいてね。航空母艦から飛び立ったのが滋賀県の琵琶湖の上を旋回して、また航空母艦に戻ってくるんですよ。京都なんかは文化の町でしたから絶対に爆弾は落としませんでしたけど、大阪や三重は被害に遭いました。三重県では津・四日市ですね。毎晩のように四日市の方の爆弾の音がボカンボカンと窓ガラスに響いてくるんです。家の前の田んぼまで出ていくと、焼夷弾は四日市方面から鈴鹿だけを落とさずに通って、津の白塚方面からどんどん落して行きました。津はB29に焼かれてしまいました。鈴鹿では今の算所、三日市の間に爆弾を2発落されて、池ができたくらい大きな穴があいて、近くには大きな牛がごろごろ殺されてました。
〔空襲 打田さん〕
私はね、算所の爆弾の時には陸軍国土防衛隊として東海部隊に召集されて、教育を受けてました。17歳で召集令状が来て訓練に行くんです。3回あるんやけどね、1週間ずつ軍隊に入るわけ。入隊中に爆撃でやられてね、荷車を持って現場に駆け付けたの。現場は大きな穴があいて、田んぼの土が付近に飛び散って、まるで墨絵の中にいるような感じでね。稲は爆風で根こそぎ飛んでました。それから、牛が死んどったの。びっくりしたのが牛の目玉が飛び出しとったことですよ。野球のボールくらいあったな。私らね、死んだ牛を荷車に乗せて軍隊に持って帰って、みんなで食べたの。みそ汁の中に入れたりしてね。あれはおいしかったな。そりゃ肉やなんやって手に入る時代じゃなかったからね。それだけはよう覚えとるんですよ。
〔兄の死 打田さん〕
兵士さんが帰ってくると嬉しくて迎えに行ったり、逆に遺骨になって帰ってくると悲しくて泣いたな。私のとこの兄貴も戦死しとんの。久居へ行っててね、その遺骨を取りに来いっていうハガキが来たの。それで、取りに行ったの。遺骨を入れる白い布がなくて蚕を飼ってた時に繭を入れたのがたまたま白かったから、綺麗に洗ってそれに遺骨を入れて抱いて帰ってきたけど、その時に涙が出てきた。元気で久居へ行ったのになって思って。昭和20年の6月だったからもう少し早く戦争が終わってれば死なずに済んだのにね。
〔終戦 打田さん〕
小学校6年が終わってからは、試験を受けて中学校に入る者と高等2年に残る者とがいたんです。それでね、高等2年が終わると青年学校へ編入されるの。牧田、庄野、石薬師、加佐登の人が牧田に集結して訓練するわけや。
私らは、昭和20年の終戦の日に行軍してたんや。そして、牧田の小学校の教室の中で天皇の放送を聞いたの。初めはなんて言っているかさっぱりわからなかった。みんなでわいわい言いながら「何って言うとんのや」って、「なんだか終戦って聞こえてきたけど、戦争が終わったのか」ってね。玉音放送を聞いても負けた実感がなくてね。日本は神国であって負ける事なんてないってそんなことばかり頭にあったから「負けたってそれ本当?」って感じでした。信じられなかった。
私らはね、軍国少年で国のために死ぬために生まれてきたんやっていう教育ですから、みんなそう思とったね。それでね、妙なこと言うなって思って今でも覚えておるんだけど、犠牲っていう字を教えてもらった時にね、先生が「日本人には犠牲っていう字なんかないんだ」って言うんです。「国の為に散るのだから犠牲なんてないんだ」ってね。そういう風な教育でした。頭の中まで徹底して叩きこまれたな。だから、今は終戦になって良かったなって思うね。
戦後の生活
〔本田技研に入社 森さん〕
私の事を例にとると、3人目の兄が戦死したので、私は大阪の学校へ行こうとしとったのをやめて家へ帰ってきて農業をしておりました。たまたま小学校から「臨時教員に来てくれないか」って言われるもので2年半くらい国府小学校の先生をつとめました。そういう経過を経て、10年ほど家の手伝いをしておりました。ある日、自転車を作る大きな工場が海軍工廠跡に進出するという新聞記事を神戸中学時代の1級先輩の人が教えてくれて、「本田技研が募集しているので、お前も受けてみないか」ということで受験をしにいきました。
ところが、手違いでみんなは3月1日に試験を受けたのに私だけ3月2日の試験だったんです。その時の農林水産課長だった寺尾さんという人が「今日市役所にたくさんの人が来てるけど、季隆君の試験ひょっとしたら今日と違いますか?」って言ってくれましたので、ひげも剃らずにオートバイで飛んでいきました。しかし、試験はもう終わっていました。それで、試験当日にね、小川係長っていう試験官に「森さん、もう書かなくてすぐに面接に行って」って言われたんです。というのも、試験は私1人でしょ。面接に行ったら5人の本田技研の制服を着た人が座っていました。「森さん今日は悪かったね、これは本田技研にとっても大きな失態だから、この地方の話でもして」って言われたんです。私は奈良、京都へ行ったり、文章を書いたりするのが好きでしたので、いろいろ話したら大変喜んでくれました。そんな思い出がはっきりと残っております。
本田の試験には300人ぐらいの受験者がおりました。本田技研っていう会社は随分たくさんの人を採用してくれるのかなって思ってましたら、6人しか採用されなかったんです。私は珍しく6人の中に入って、私ともう1人には「あなた達2人は臨時ではあるけど、4月1日から先行して本田技研へ来てもらうから」って言われました。うまいこと2人だけ中に入れたんですわ。
それから2年ぐらいして鈴鹿サーキットができて、本田社長が見える時は本田のテストコースにセスナ機で飛んで来られました。ちょうど、その時には、日曜出勤をしましたので、セスナ機の留っているテストコースの東の端から見送ったっていう事があります。
初めてのサーキットのレースの時には、社長さんは6種目のオートバイレースに全部勝利したんです。社長さんが本田のタクシーで本田技研の正面に来られた時はたいへんな交通渋滞でした。ものすごい人だったんですよ。社長さんはタクシーから降りて、今の東門は当時土手でしたので、そこを飛び越えて走って来られました。私が二輪工場の事務所前で待っていましたら本田宗一郎さんが走って来られるので、飛んでいきました。そして「今日は浜松製作所に帰るつもりやったけど本社に帰る」って言うて帰っていかれたんです。
それと、中部実業界の要請で愛知・岐阜・三重・静岡の4県の本田関連のオーナーさんを集めて名古屋市で本田宗一郎さんの講話があったんです。その時に「鈴鹿製作所は、入ってくるお客様をあんなに丁重に扱われるんですか」って言われたので、本田宗一郎さんが大変喜んで事務所に来られ、「俺は今日は嬉しかったぞ」と言われるものですから「なんですか?」って私が申し上げたら、「今日の講話で、鈴鹿製作所は入ってくるお客様をあんなに丁重に扱われるんですかって言われたのでオレはたいへんうれしかった」ということでした。それから、私は30年間本田技研に勤めました。本田宗一郎さんの墓参りに浜松へ行ってきたいと思っている今日この頃です。