女性(昭和3年生まれ、鈴峰地区在住)

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戦中の生活

 小学校6年生で卒業する人も大半あったけども、その上に高等科が2年ありました。私はな、そこあがっただけですでな。高等2年を卒業してから、三日市の方にそろばん学校があって、そこへ自転車で通いましたに。せやもんでどうにか郵便局へ。それもな、私のすぐ上の姉がな、和裁を習いに亀山へ下宿して行ってましたん。あの頃はな、女性でも兵隊みたいにしてとられてな。挺身隊として桑名のベアリング工場へ行きましたに、私のすぐ上の姉が。せやもんで、父親が考えて「あんたもとられるとあかんで郵便局へ入れてもらおに」って言うので、それで私は郵便局へ入ったんです。


兵隊さんとの交流

 この辺(伊船町)も飛行場があって、ずっと飛行場の誘導路があったんです。17,8年か、そのくらいやったやろか。私とこの実家も家が広いもんですでな、将校さんが泊ってみえました。3人みえて、それぞれ独身で若い方でしたけど、みなさん戦地へ行かずにもう終戦で帰られましたな。実家の場合は若い人やったもんで、母親が朝と晩だけ食事を作って。私らもよう手伝いして座敷と2階に運んでましたに。母親はえらかったと思いますに。

 その時に私の父親がすごい防空壕掘って。私の父は昔、海軍でならした人ですもんでな。ほら穴みたいに防空壕掘りましたに。そしたら、その泊ってみえる将校さんがな、「飛行機で上から見ると、入口が見えとるで何か隠さないかんよ」って、教えてくれましたに。


食事

 実家は百姓でした。お米も作ってますし、あの頃は畑はサツマイモを作って出荷してますものな。お米も自分らが作りながら供出せんならんもんで、サツマイモをサイコロに切って麦もようけ入れて、お米は本当に僅かなそういうご飯でした。私の家らはもう山の方ですやんか。魚屋さんがどこでか知らんけど買うてきますやんか。その時は氷なんてあらしませんので、水の中へ入れて、水も一緒に量らはって、水の目方も入ってな。それやで値段が高いですやんか。それでも早く行かんと売れてしまってあらしませんやんか。配給ではないの。配給なんてたまにあるだけで滅多にあたりません。野菜を作る畑は田舎やでどこでもありましたけどな、みなさん季節季節の野菜を作って。だからほとんどそういう野菜で育ったんですな。


空襲の記憶

 空襲になると郵便局へ行かんならんだですの。空襲の時は局を守るっていうことで。四日市の大空襲の時も夜でしたけど行きました。今でもB29の爆音が耳に入ってますけどな。火の海って言っていいぐらいに見えてましたに。ここは小高いですし、夜ですので余計な。それを眺めながら、歩いて行きましたに。在所から600メートルくらい郵便局までありますの。あの頃は深伊沢郵便局やったと思う。場所はちょっと違いますけど、今は鈴峰郵便局になってます。B29がここの上空で旋回して、それで四日市の方へ行きますのにな、本当にえらい音させて行きますの。それが今だに耳に残ってます。鈴鹿山脈エアーポケットって気流のなんかがありますのかな。私、あれをよう忘れません。飛行機の爆音が。ツーンと金属製の音がしますのな。すごかったですよ。


玉音放送

 郵便局で放送を一緒に聞いたのは私を含めて7人くらいおりましたな。他の人の様子までわかりませんけどな。自分らも何て言えばいいのかわかりませんだ。みんな、日本が負けるってことは夢にも思ってませんでしたから。本当に天皇陛下の放送は何て思って聞いたかなぁ。あの時は感極まってな、天皇陛下のお声やし、その意味がわかったようなわからんようなそんな心境でしたな。負けとるのに、何で軍は勝ち戦のことばっかり言うのかと思いましたな。私はその時はわかりませんでしたけど、今になってみると本当に思いますな。


戦後の生活

 鈴鹿市がだんだん復興してきたことは、私は百姓が必死でしたので眼中にありませんだ。わずかな土地こそ持ってませんやろ、みんな作ってもらってました。それを取られたらつまらんので、自分らも始めたんです。もっとようけ土地もあったんですけどな、田5反、畑5反こそ貰いませんだ。ようけ小作の人の土地になりましたな。そんなんですに。私は百姓の嫁としてもろてもらいましたんでな、頑張らんならんですの。

 百姓の傍ら、農閑期がありますやんか。そうするとこの辺からは、四日市へようけ働きに行かれました。それがものすごい収入源になったんですやな。あの頃は船から陸へ荷物をあげるのに機械がなかったでな。それはこの辺のみなさんはようけ行きました。

 私もまだ子供ができてない頃でしたけど、この辺の人に誘ってもうて、籠にスイカを入れて富田の市場へ持って売りに行きよったですに。自転車に乗って久間田の方を通って行きます。私、男の人に交じって、富田までスイカをよう持って行ったなと今でも思います。あんなことようしたなぁと思いますもん。


夫との思い出

 主人は、学校から「教員が足らないので勤めてもらえん?」って言うてきて。息子が昭和29年に生まれて、それで昭和の30年から頑張って小学校へ勤めてましたけど。相当いろんな苦労はしてます。夫は師範学校やなしにな、今の神戸高校。それの前の神戸中学に入学したんですけど、2年生の時に父親が急死しましたもんで、百姓の息子やで「河原田の農学校へ行きな」って親戚が言うて。それで農学校へ行ったんですに。それで百姓の道を選んだもんで、師範学校はよう行かずに。今の三重大学の農学部の前身を出たんですかな。結婚してからはずっと百姓してな。田畑がまだありまして、私が頑張って作ってましたでな。私兄弟が多かったので兄弟に助けてもらって。畑5反をお茶畑にして、田んぼもあって。私も頑張って百姓をずっとしてきましたんやわ。

〔結婚〕

 私は主人と同じ伊船生まれの伊船育ちで、9つ違います。9つ違うとこの人知りませんだの。でも昔は親の勧めで結婚しますのでな。主人が22年の12月28日に帰ってきたらしいですの。そやで23年の3月11日に結婚したんです。あの頃はな、みなさん復員されるとな、すぐ奥さんもらいましたわ。23年から25年くらいはものすごく出生率高いですやんか。私とこも娘が25年生まれですけどさ、ベビーブームでしたもんな。みなさん復員されて、結婚されて、一般の方でも落ち着きを取り戻したもんでな。そんな時分がありましたでな。

 ただ、実家に見合いに来てもうた時にお茶出しはしましたの。座敷に座ってみえるしな。顔も見やんとお茶だけ出してもうふいっと部屋から出て来て、もうそれっきりやんかな。向こうは見たか知らんけど、私はよう見ませんだでな。そんなんでしたの、昔は。それから、もう2人の子供もできて、相当年月も経ってから、主人が「今みたいにな、1年も2年も交際してからもらうんならな、わしはお前をもらわへんだ」と。それで私もな、「お父さんがそやって言うんやったら、私もこんなおじいさんのところへ来やへんだのに」って、そんな冗談も言うてな、笑ったこともありましたに。でも、ええ人やったでな、おかげさんで私は幸せにさせてもらいました。

〔戦争から帰って〕

 負け戦で行ったんやで、本当に弾に当たってもう死んだって思うこともあったみたいです。もう1週間も敗戦が遅かったら白骨化しとるなって、よう言いよったです。そういう方がようけみえると思います。「生きて帰れたで良かった」っていつも言います。「亡くなった方に申し訳ない」って本当によく言いましたわ。

 子供のPTAでよく海水浴へ行ったんです。四日市の霞ヶ浦は遠浅やったもんで海水浴場やったんですわ。PTAで親も一緒に付いて、あそこへよう行きよったの。「わしはもう絶対行かん、海は思い出すで」ってな、全然お父さんは行ってくれませんだ。主人は海でも遭難でやられましたの。思い出すで、嫌やでって。それはまあ、そうですわな。本当に難儀したみたいですでな。

[小川真依]