男性(昭和3年生まれ、白子地区在住)

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富士電機での勤務

 僕は鈴鹿郡加佐登町の生まれで、昔は商工っていいましたけど、今の四日市工業に通ってましたね。そこしか機械科っていうのがなくて、当時、機械の方へ関心があったもんで、四日市の機械科へ行ったんです。当時は関西線で通学しましたね。入学した年に太平洋戦争が始まりました。私らはギリギリ戦争へ行かなかったですけど、予科練や志願兵へ行った人はおりましたね。僕は、学校から推薦されて4名の同級生と富士電機に行きました。僕はそこの寮に入ったんですけどね、寮として使ってた家とか環境とかは良かったです。大会社の重役の家とかいってね、応接室もあっていい家だったんですけど、寮長が厳しくて。それに食料がないので非常に困りましたね。始めは川崎の本社まで行って4か月くらい研修して、四日市の方へ戻ってきてからは加佐登の家から通ってました。川崎にいた頃は家が恋しかったですわ。富士電は終戦後、製品をどんどん、どんどん貯水槽のなかへ放り込んで処分したんです。高速回転のモーターを作っとったんですけど、終戦で営業停止みたいな形になりました。それからしばらくの間、仕事がなかったものですから会社に行かんだんですけど、そのまま僕は自然に退職みたいなかたちになりましたね。


財務局

 戦後、財務局に勤めました。津の財務局の所管になりますけど、津財務局加佐登出張所か、鈴鹿出張所かっていう出張所みたいなのを鈴鹿海軍工廠に設けたんですよ。海軍工廠っていうのは、今の旭ダウや本田技研、ベルシティの辺りにあって、その一帯に木造の工場があったんです。海軍工廠はそこで機関銃を作ってたんですね。それから試射っていったかな、試しに撃つ所もあったね。いろんな機械がずらーっと並んでたんです。そこで、僕は機械の調査や電線の回収や保管、管理もやってましたね。具体的にはその機械のネームプレートを見て、どこどこの製造とか書いてあるのを全部台帳に記載して、国有財産台帳ってのを作ったわけです。台帳作ったり、それらを回収して1つの倉庫にまとめたりして財産の整理したんですね。それで、そこらに張ってある電線は全部、業者に1つの倉庫へまとめさせてました。電線なんかは、売却してましたね。機械の最終的な処分については、全部処分するまでに僕は税関に替わりましたからよくわからないんです。土地も全部国有地だったので払い下げになりました。職員は20人くらいいて、海軍工廠の財産の全部に対して国有財産台帳作る仕事してました。財務局の人は台帳作る事務所に10人ちょっとくらいで、保守、管理する人で監守っておりましたけど、寝泊りして管理やっとったんですよ。その人らはだいぶおりましたな。


税関の仕事

 財務局も税関も大蔵省で一緒なので、部内出向みたいなかたちで税関の試験を受けないかということを言われました。僕は税関の方が将来性があると思って、試験を受けたんです。税関はどんどん大きなってましたから、若いのを集めようという気持ちがあったんだと思います。昭和24年の9月1日から税関に勤務してましたが、全国転勤があって清水や名古屋も行きましたね。名古屋の方では駅前で郵便物の検査もやったこともありますわ。税関は津にもあったんですよ。外国貿易船が入って、いろいろな機械の輸入があったんです。僕は四日市の税関に行ってましたけど、転勤があって名古屋へ行っていた時も家から通ってました。外国の船以外でも、カツオやマグロなんかの遠洋漁業は外国の港へ寄って買い物して帰ってくるでしょ、それに税金かけやないかん。土産もんでもウイスキーなんかをたくさん買ってくるので税金かけるんです。免税の範囲もありますけど、それを超える物は税金かけましたね。漁船へはよう行きましたよ。


健康優良児

 小学校6年生の時に健康優良児っていう制度がありましてね。クラスに2人くらい選ばれたんです。私は体が大きかったものでね、加佐登の小学校の代表で行って、それから鈴鹿郡の代表で県の大会まで行きました。幅跳びと、ボール投げと、50メートル競走と、懸垂と、そんだけ競技やったかな。そしたら四日市の子なんてね、僕より1メートルくらいよけ跳んだんですよ。走るのでもものすごく速い。これあかんなあと思ってね、それでも参加賞(皇紀二千六百年記念、陶器製の桃太郎像)だけもらって。朝日新聞かどっかが主催やったかな。僕は運動もあんまりできなかったけど、体は大きかったんです。戦時中は予科練なんかで、身体検査ではねられたって人もいましたから、体が大きいのは良かったんでしょうね。

[小川真依]

参加賞の桃太郎像(ご本人提供)