後藤道男さん(昭和3年生まれ、白子地区在住)

169 ~ 170

鈴鹿航空隊の開隊式

 わしが小学校の5年生やったな。飛行場の開隊式があったんですわ。それにあわせて河芸郡の運動会があったんですわ。その時に海軍の航空隊のいわゆるアクロバット飛行があって見たわ。開隊式のイベントだわな。ほとんどの小学校が来とったよ。小学校から代表で何人か出て来て。わしも100メートルやったか50メートルやったか選手で出してもらって1等とってな。なんやらおかしな商品もらった覚えがある。アクロバット飛行はまだ5年生やったけど、今でも鮮明に覚えとるよ。それは素晴らしかったわ。観客もおるしすごい人数やった。


家に爆弾直撃

 柳は23発くらい爆弾落ちとるよ。柳では俺とこともう1軒、直撃弾くらっとる。そこは1人死んどるわ。ほとんどの爆弾は田んぼや畑へ落ちとるが、わしとこは運悪くやられてしまったんだわ。終戦の年の6月でな。終戦の2か月前にやられてまったわ。そら、怖かったで。よく生き残ったと思うな。爆心から15メートルくらいのとこにおったんだよ。爆弾はね、落ちるとバーンと広がるんだわ。俺はこの(破片が飛び広がっていく)下におったんで助かったんやわ。親父は、俺よりも30メートルくらい遠い所におったけど、頭を怪我してさ。死にはしやんだけど、昔の玉垣の役場に救護所が出来とって、そこへ担ぎ込んだ。わしは手にちょっと傷したぐらいのもんや。家の仏壇を直撃されてしまった。木端微塵だね。  

 その日は、たまたま日曜日やったと思うんやわ。学徒動員で行っとった楠の工場の工員だとか、中学校の同級生だとか4,5人でわしの家に遊びに来とったんだわ。そして、イモ食って縁側でしゃべっとったら、俺の親父が「おい、飛行機が鈴鹿の航空隊へ落ちていくぞ。見に来やんか」って外から叫んだので、わしらは見に出たの。出た途端に、どかんっと爆発したんだわ。咄嗟に田んぼの中へ飛び込んだわ。その頃は6月で、田植えの水が張ってあるわ。目と耳を指で押さえて、その中へバーンと飛び込んだの。それで助かった。それから30分は砂埃で何も見えんかったで。おっかあと妹は、防空壕の中におって助かった。怪我もなんもしなかったしね。6人家族やったけど、みんな命は助かったな。

 その後、先祖の供養をしないかんもんで、仏さんの部品を歩いて拾いよったけど、少ししかあらへん。位牌やなんかも拾って集めやなあかんって、家族中で探したけど何もあらへん。まだ焼夷弾じゃなかったでさ、ものによってはまともに残っとるものもあったけど。わしとこはね、母屋の前に牛小屋があって、そっちの方に新屋があって。そっちの方は壊れてはおったけど、住めるくらいにかろうじで助かったんやわ。そこには大阪と名古屋から疎開で老夫婦が2世帯おったの。爆弾で家をやられたもんで、老夫婦さんに「悪いけど、こんなことになったもんで出てもらいたい」って言ってさ、出てもらってそこに住んだんですわ。

 わしとこは農家で割合大きな家やったもんで、裏の方は残った。だけど、もう使い物にならへんで。その時は石薬師の陸軍の兵隊さんが来てくれて全部壊してくれた。隊長が30人ばかり連れて来て、その隊長の命令で全部片付けをやってくれた。爆発で傾いた家を引っ張って、壊れた残骸の撤去してな。直径が15メートルくらいで深さは2,3メートルくらいの穴が空いたけどな、その片付けまではしてくれへん。兄貴が兵隊から帰ってぼつぼつ3年くらいかかって家の片付けしたわ。石薬師の兵隊さんはな、日曜日になると短剣下げて、農家へよう遊びに来よって、わしとこにもよう来たわ。家にあるイモ食わしたりしてよ、兵隊さんをもてなしたもんだわ。

 柳の集落はね、百姓で家が密集しとらへんもんで、割合被害が少なかったわな。あれがもっと密集しとるような集落やったらもっとひどかったやろな。柳は田んぼにも落ちたで農家は苦労したやろな。苗代もやられて。わしとこも百姓やけども、爆弾落ちてから1年はすいとん食わされたな。苦しかったわ。

 わしとこへ爆弾が落ちた日なんかはB29がこっち行き、あっち行きしとって。普通なら編隊組むんやけど、その日に限ってはそんなんやったな。それで、その内の1機が爆弾落していったんだわ。えらいもんやわ、落された方は。楠に高射砲の陣地があって、地上から撃っておった。B29に向けて当たらへんけど撃つもんでさ。わしらの集落なんか軍需工場もなけりゃ、何にもあらへんがなあ。そのくせに落したってことは、向こうさんも怖いもんでさ、早いとこ爆弾落して逃げてけってもんやろな。


朝鮮人への差別

 当時は牛小屋を改造して朝鮮の夫婦がおったよ。その頃はまだ、朝鮮、朝鮮って言ってちょっとバカにしたようなとこがあってさ、その人らはかわいそうな生活しとったな。牛小屋だよ。牛の糞がくっついたような所を掃除して住んどったんだもん。口には出さないけどね、心の中では朝鮮人のことを卑下したようなことをみな思っとったん。わしらの小学生の時に朝鮮の人が1人転入してきたわ。やっぱり若干差別的なことがあったなあ。心の中では朝鮮、朝鮮って、その頃のわしらですらそう思ったでな。自分達が制圧した地域の民族だっていう優越感があったんかな。その人も半年か1年くらいで転校してったけどな。しかし今思うとその朝鮮の人は明るくていい性格の人だったように思う。


玉音放送

 そりゃやっぱりよ、わしは17,8歳やったけど、戦争は絶対日本が勝つという信念でやっとったんやわ、仕事でもなんでも。ところが負けてしまったもんで、騙されたんやって感じで腹が立ったんやな。戦争は勝つという教育受けとったもん、わしら。絶対勝つって信じ込まされとって、それを信じとったわ。B29が毎晩、毎晩飛んで来た時は本当に怖かったし、いつ俺とこへ落ちてくるかってずっと考えとったわな、戦々恐々としとったわ。それが戦争に負けたらぱっと来なくなったでな。負けて攻撃がなくなって安心した一方で、これから日本はどうなるんやろっていう心配もあったしね。


戦後、航空隊跡

 その時はね、玉垣村に警防団っていう組織が出来とったんです。わしらも若造なりに警防団へ引っ張られて、戦争に負けてから、かり出されて航空隊の監視に行っとったわ。その頃は鈴鹿の航空隊も荒野原みたいなもんで、中のものは全部盗まれちゃって、荒れ放題でさ。そやけど、警防団で監視に行きよったな。電球のソケットまで盗られてしまって。もう目ぼしい物は1つもない。とっくに全部盗られちまった。何にもその頃はなかったもんでな、今ならあんなもん盗って来やへんわ。

 終戦になってさ、玉垣村の第二農業倉庫には航空隊の携帯食料がいっぱい入っとったんやで。缶詰だとかそんなもんがいっぱい入っとったの。兵隊さんが時々来て、持って行ってたらしい。終戦になったら、周りの百姓達が兵隊さんの服着てな、食料盗みに来よったよ。倉庫には、ええもんようけ入っとったぞ。缶詰で、温めたらすぐ食えるような赤飯だとかな、携帯食料ってやつやな。兵隊さんは早よ逃げてったんか知らんけど、ほとんど取りに来やんだで。そこの倉庫に食料があることはみんな知っとるもんでよ、大勢来て持っていきよったわ。今だったらえらい犯罪だわ。俺の2つくらい上のやつがさ、兵隊にも行きもせんといてよ、海軍の服装を借りて来てな、いかにも俺は海軍の兵隊さんだって顔して盗みに来るからいかんわ。どさくさまぎれ。そういう奴もおったで。

[小川真依]

戦後の海軍航空隊 荒れ果てた格納庫が見える(鈴鹿市)