大阪から鈴鹿へ
私は大阪の生まれで、中学4年生で海軍予科練習生に入ったわけです。甲飛の14期でした。麓家は昔から海軍系なので、私も海軍兵学校に行くつもりだったんですが、12月生まれは5年生にならんと受けられないんですよ。もう1年待たないと海軍兵学校は受けられないから、そうすると戦争が終わってしまうといかんっていうことで、待ちきれなくて4年生で予科練に入ったんですよ。戦局も厳しくなってましたからね。私は大阪の呉服屋の子供なんですけど、三男坊ですから。「長男、次男は家を継ぐ。三男はお国のためにご奉公しろ」と子供の頃から教えられてきました。兄達は商業関係の学校へ行くわけですが、私は始めから軍隊へ行くつもりですから、中学校へ行くわけです。軍隊行くときに母親が私に頑張れという短歌を作って送り出されたんです。友達も言葉を贈ってくれて、こういう言葉に送られて予科練に行ったわけです。私が予科練に入ったのは昭和19年の7月です。予科練期間というのは6か月なんですよ。7月に入って12月で大方終わるんですが、それで次の年の1月早々に鈴鹿の第二航空基地に来て、その部隊の所属が1001空(雁部隊)に所属になったんです。
鈴鹿海軍航空基地で
普通は、予科練を卒業したら飛練といって飛行練習生になるんですけど、その時は飛行機が足らんかったんですね。飛行機がないから、操縦訓練に入るまでの期間は何か他のことしてました。その中では土方ばっかりしてた人なんかもおって「どかれん」だって言われたりね。私の配置された1001空は輸送機部隊ですので、ダグラスのDC3という大きな飛行機を持ってるわけですね。私は飛行機の操縦そのものは習える立場でなかったけれども、整備を勉強して整備の応援をしとったわけです。
当時の飛行機は今の飛行機とは違って冬の寒い時には、オイルを十分に温めて飛行機に積まないと、エンジンかからないんですよ。ところが空襲が多いもんですから、オイルを入れたままの飛行機を置いといて機銃掃射を受けたら飛行機が燃えてしまうんで、少しでも被害を少なくするために、飛行機が夜に訓練や仕事から帰ってきたら、オイルを抜くんですよ。それをドラム缶に詰めて、飛行機から離して隠しとくんです。私はそういう仕事が多かった。明くる日には、まだ暗い時間に起きて、今度はそのオイルを沸かすんです。それを飛行機に積んでプロペラをぐんぐん、ぐんぐん回すことによって飛行機のエンジンを温めてね。そうじゃないとエンジンがかからないんです。私は兵長ですけど、まだ16歳ですからそんなような仕事もしていて、そういうのが日課でした。飛行機の総数はわかりませんけど、自分達の分隊で扱ったのは2機とか3機くらいでしょうか。雁部隊は、その時はかなりの量の飛行機を持ってたんですよ。1021(鳩部隊)っていうのがあったんですけど、19年か20年の始めくらいに編隊組んで飛行機を輸送してたんでしょうが、敵にやられて、2機か3機になってしまったそうです。それで日本に帰ってきたそうなんです。その後は、鳩部隊は雁部隊と一緒におったんです。
空襲の記憶
私の記憶では基地の方は爆弾を体験したのは1回、後はほとんど機銃掃射だったと思います。掩体壕の近くに監視壕ってのがあるんですよ。私が監視壕にいる時ですけど、すぐそばにあった掩体壕の飛行機に爆弾が落とされたんですよ。すると爆発して爆風が来るわけですね、そしたら私の入っている板張りの監視小屋の板がダダダダダっとなるわけですよ。その後、「今にも弾がおちてくるか」って思ってたけど、全然弾が落ちてこないんですよ。おかしいなぁっと思って覗いたら、その横の掩体壕には雷電という飛行機が入ってたんですが、それを狙って来てたようです。夜に空襲があったら、どこへ来るかわからんので、とにかく夜中に起こされて飛行場へ行って、何があってもいいようにって待機してるわけです。実際には爆弾が落ちるのは、名古屋とか四日市が多かったけど。ほかには昼間にグラマンが低空で飛んできて、機銃掃射で掩体壕を狙ってきたりしたね。飛行場の隅々に掩体壕があって。いざとなったら掩体壕から出て飛び出せるようになってたんです。滑走路に並んでたら全部一緒にやられてしまいますからね。
鈴鹿から北海道へ
20年の7月頃には、鈴鹿では空襲が多くなって訓練ができないということで、北海道で訓練をすることに決まって部隊移動をしたわけです。私らは鈴鹿を出てね、まず石川県の小松へ行ったんです。小松に行って、1週間か10日間ほど滞在して、それから北海道の第三美幌に移りました。美幌には第一、第二、第三って3つ海軍の飛行場があったんです。そのうちの第三美幌基地へ行って、そこでダグラスに乗って、特攻訓練をしたんだ、と私は思ってるんです。その頃は聞かされてなかったけど、サイパンへ夜間に強行着陸をしてサイパンを奪回するんだ、という計画だったようです(嘘かまことかわかりませんが)。それで、我々は夜間着陸訓練を重視してたんです。そういう目的でやってたというのは、終戦直後に知りました。美幌で終戦を迎えたんですけどね、その夜敗戦ということで、みんなが酔っ払ってですな、負けて悔しいのやら「サイパンに行けんかった」って言って一晩中ヤケ酒飲んで。その時の話によると、9月1日頃に強行着陸してサイパンを取り返すという計画だったと。我々は「戦争は終わるのが15日早すぎた」と怒ったわけですよ。悔しかったわけです。空元気やけども、「もう15日待ってくれればサイパンを取り返したのに」とかね。酔っ払ってそういうこと言ってたんです。あの飛行機で何人乗れるっていうと、たった21人しか乗れないんですよ。10機持っていったところで大した数にはならないんですけど。だけど、まあそういう気持ちやろね。
終戦後
美幌で終戦になって、日本軍の飛行機は武装解除ということで、飛べなくなったから列車で函館へ行きました。そこで何日か、動くかわからん電車を待って。結局、長野の方を回って、それで原隊のある鈴鹿へ帰って来たんです。函館に行ったら、船がいつ出るかわからへんのをまた待って。それからやっと連絡船へ乗って青森へ行きました。そこで驚いたのは、青森は駅舎の屋根をちょっと残してあとは全部丸焼けでした。かわいそうなのが、子供達の食べるものが何もないわけですよ。我々軍隊はお米やらを持ってるわけです。それを駅で炊いたら、子供達がみんな欲しそうな顔してまして、とうとう自分は食べたか覚えてないくらい、子供達におにぎりにしてあげた覚えがあります。そうこうして鈴鹿へ戻って来たんです。
鈴鹿では部隊を解散しました。ところが終戦処理のためのミドリ十字の飛行機があり、それの運用に必要な人員ということで、私は飛行機と共に兵庫県の鳴尾という所に移ったんです。軍歴では9月1日に終わってるんですが、実際には10月の半ば頃まで鳴尾で勤務をしてました。鳴尾で働いている時には、そこの飛行場にも米軍が来てね、悔しかったというかね。日本の飛行機はエンジン周りでも油漏れがあって汚いんですよ、向こうの飛行機はきれいで、エンジンの部品1つ見てもピカピカ光っとる。エンジンが汚れたらシャーっとガソリンをぶっかけてね、きれいになるんですよ。我々はガソリンっていったら貴重だから命よりも大切なくらいで、汚れたところは手で拭いては、ガソリンの1滴も大事にしとったのに。悔しいと思いましたよ、こりゃ負けるはずやって思いました。
戦中の思い
生きるとか死ぬとかそういうことではなくて、「俺がいかなきゃ、誰が行くんだ」と、そういう思いでした。よく言うんですけど「俺が1発、弾を撃つ間に1秒間でも日本の国が守れるのならば、2発撃ったら2秒、3発撃ったら3秒守れる」って。国を守る人間がおって、初めて国が守れるわけでしょ。「弾1発だけ撃ったって」って言っても、それが100人おったら100発だしさ。それが国を守るってことですよね。特攻機も馬鹿みたいに死んでしまったと思うかも知れんけど、あれがなかったら、もっと早く日本が負けてたかも知らんし、もっと日本は占領されてたかも知らんですよね。特攻隊の人達も全部が全部、潔い気持ちじゃなかったとは思いますけど、それがなかったら九州も四国も敵の手に渡ってたかもしれない、そういうものの考え方もせんならんのかな、と思うわけです。戦争はせんですんだら1番いいんやけど「1発の弾も撃たんかったら戦争しません」って言ってくれるかっていうと、それはありえないと思うんですね。だから、僕らは1発の弾も撃たんかったら駄目なんだ、という気持ちで。自分が死ぬとか生きるとかっていうよりも、1発撃たんかったらその分早く日本は滅びるんですよ、というふうな気持ちでした。そんな気持ちにさせた国が悪いのか知らんけどね、僕はそうだと思ってますよ。