非農家の苦労
とにかく戦争はえらかったです。心身共に疲れました。家がな、非農家でしたやろ。それで、いじめに遭いました。非農家っていうのはな、戦時中はものすごい苦労しますの。食料もそうですしさ。私とこはお父さんもお母さんもおりましたけど、隣組やそんなん出て行ったことありません。非農家ってことで、年貢で食べてましたもんで、食べるものはもちろんありませんし。今もまだ蔵が1つ残ってますけど、あの蔵の天井までつく位に年貢が入りましたもんで。人の持ってきて下さるお米で暮らしを立ててましたやろ。その頃は何にも苦労知らずでしたんで、罰があたりましたんな。もう本当にな、罰が当たったなあと私は思いましたけど、その時は気がつきませんだ。戦争が終わってから気がつきました。
その頃は、加佐登の方から2日にいっぺんくらい通ってな、男衆が来てましたでな。男衆っていうと下男ですね。男衆さんが便所の汲み取りもしてくれるし、草も引いてくれるし、掃除もしてくれる。何でもしてくれました。その間ご飯食べさせますね。それはもう食事はついてますしな、男衆部屋がありまして帰りが遅くなると寝て行きますしな。そんなことでな、戦争が激しくなると全然そんなことができなくなりますやろ。その人も戦争にとられそうになったり。軍属で出かけるとかな。戦争に負ける前はもう来てくれませんでしたな。
終戦前は百姓でも共同の田植えでした。それで男の人がみんな兵隊に行きましたやろ。それで女と子供ばっかりになったもんで、共同でな。組の人が手伝いに行って、仲間で田植するのんですの。男がおらんからってことで、元気のええお母さん達が柱になってみんなしますやろ。人手がないと、よその在所から女の人を田植えに雇いましてな。それでみなさん仲間でしました。それにもよう出ませんでだでな。農家でない家は本当に苦労しました。そんなんでしたんやに。
直にはまともに言われやんけども、やっぱり態度でな、態度で差別がはっきりわかります。物でもな、何でも差別をつけられましたわ。肥料でもそう。私ら畑やりたいなぁと思っても、貰えません。肥料も農家に配給がいきましたで。偉いさんが決めますに。偉いさんのとこにばっかり物がなんやか入ってな。役得。あの差別された時はよう忘れません。
もう本当に差別ってえらいもんやなあと思いますわ。今、息子の家が建っとる所はな、昔は共同浴場でしたん。百姓の人がな、みんな入りにおいなしたん。家の敷地に建てて、共同浴場やで私らも入りたかったんですさ。戦時中や戦後な。戦時中はやっぱり百姓の人ばっかやと入れません。たまに行くと白い目でみられますしな。それでよう行きませんだ。
それで終戦になって初めて、親と行って。共同浴場で入ると楽ですやろ。家のお風呂は薪やそんなもん買いに行かんならんで。お風呂でも差別の続きですのやわ。人がいろいろ言うてな。それを親が聞いてます。子供にはな、あんまり言いなさらんだけどな。百姓さん達は大きな顔してお風呂入ってな。「米はどんだけ出して」「いくら入って」って。そういうことをしゃべりなさるんやな。そんなん聞いてきよったですな。私は娘心にあんなん聞かされてお風呂行くのやなぁって。そんなんでしたんやに。この共同浴場が壊れるくらいまで差別はありましたな。百姓の人同士がしゃべりますでな、差別はもう抜けませんだな。家にお風呂作って、やっとやれやれと思いますけど。本当に差別は酷かったです。供出をせんっていうのは、こういう百姓の在所へおると1番効きますな。
戦時中の食事
〔地主の食事〕
始めの頃は年貢も入ってきましたんやに。せやけど戦争が酷なってきましたらな、軍隊が持っていきますの。百姓には供出で割り当てがありますやろ。その供出で出してしまうもんで、年貢出さへんの。それで地主は困りました。どこでもそうやと思う。有無を言わさず軍隊が取ってくで。それを出さんだら憲兵が来ますやろ。それで年貢どころやない。
私らの食事は内緒で売ってもうてな。「頼むよ」って心安いところへ行ってさ。仕舞いには物々交換になってきましてな、母の縮緬の着物やそんなのを持って行って、お米に換えて。それで何にもない時はカボチャばっかりやサツマイモばっかり食べて。畑は取られませんだんやわ。戦時中からそのままでしたからな。そこへカボチャの苗貰ってきて置いときますとな、いっぱいできますやろ。酷なってくるとな、親戚がうどん屋してましたで、無理言ってメリケン粉分けてもらいましてな。それで団子作って、カボチャの汁の中へ入れたりしてました。
〔配給所〕
母の実家がな、配給所をしてましたんやわ。それで良かったの。お味噌に醤油にお砂糖に塩やったかな。母がそこへ行って貰って来てな。本当は貰えやんのやけど、おばあさんが「かわいそうや」って言って、「少しぐらいなら」ってくれよった。汁しても何でも味付けて食べられました。あの頃は量り売りやでどうしても少し残りますやろ。配給は切符と入れ物を持って行って、それへ入れてもらう。せやから樽の中へ残りますやん。それを少し貰ってきてな。そんなことは聞こえたら怒られるで、その時は内緒ですわな。
昔からその商売をしておった家がそういう権利を大体取りなしたわけやな。私の母の親元が、昔やっぱりタバコや切符を売ったり、郵便物を扱ってましたんやわ。戦争が酷なってくる前からいろんなことしてました。「醤油やお砂糖も売ってあげよう。こんな山の在所で買いに行くのもえらいで」ってことで始めたのが元なんですわ。そしたら、戦争中に物がないようになってきて、「売り物もないしどうしよう」って言っとったら配給所してくれって言ってきてな。そういう関係で調味料は助かりましたな。
戦時中の学校生活
〔勤労奉仕〕
私は昔の河芸高女でした。あの学校からずーっと、もう磯山の方の海岸の土手の下が学校の畑でした。開墾しましたんやね。他の学年も行きますしさ、女学生が大体1日おきかな、歩いて通うの。本当にえらかったです。そんで炎天で草取り。サツマイモ植えたりな。
〔学徒動員と空襲〕
昭和の19年頃からだんだん戦争が酷くなると、江戸橋の紡績工場があったところがな、零戦の翼を作る所になりましたやろ。その零戦の翼を作る工場へ行きました。せやけどな、怖かったですに。電車で行くのやけど、空襲のあった時のことはよう忘れませんわ。空襲でサイレンがなりますやろ。江戸橋から汽車の線が出てるそこにな、低空飛行でアメリカの戦闘機が来て、汽車が来たらそれをめがけて撃つの。私ら何を思って逃げたやろ。江戸橋の裏にある山は遠いですやろ。みんなが山まで走りましたに。ほんでな、これはもう艦載機が来とるとか言われたもんで「もう逃げよう」って言って、防空頭巾かぶって逃げて。そして山に着いたら間無しに飛行機が来て。線路に沿ってな、機銃掃射しましたわ。死になした人もあったって聞きましたけどな。あの時は怖かった。たったいっぺんその経験がありますの。その時は線路にな、大きなすり鉢みたいな穴が空きました。
兵隊さんの下宿
石薬師に部隊がありましたやろ。兵隊さんがいっぱいおいなした。私の母の親元へな、石薬師の兵隊さんが出入りしましてな、下宿してましたで。家は将校さんがな、しばらくでしたけど奥の座敷に泊ってみえました。1年半くらいはおいなしたと思います。何か持ってくると「あげよ」って言いましたけどな。朝早う行って夜遅く帰っておいなさりよった。大体は、部隊で食事して来てな、寝るだけに毎日帰ってみえました。それで沖縄戦のことは知ってました。当時はそんなはっきりと沖縄戦なんて言いませんに。「沖縄へな、アメリカが来たみたいやわ」って将校さんが親に言いなした。それで親が私に言いましたもんでな。これはえらいことになってきたって。上陸したってのはわかったみたいですな。そして終戦になりましたけどな、沖縄へアメリカ兵が上陸した時にもう止めといたらええのになぁと、つくづく思いました。でも、そんなこと言うたら憲兵に引っ張られて行きますやんか。憲兵、うろうろしてましたに。怖かったですに。憲兵は本当に怖かったです。それでな、そんなこと言うて聞こえてったらえらいことですやろ。せやでな、憲兵が近くにおる時はうかうか外に出られやしませんでしたに。
終戦後の新円切り替えと農地解放
そうこうしとる内に田んぼや貯金はあきませんにってことになってきましてさ。預金封鎖になりまして、貯金がな、使えんようになりましたのでビタ一文なくなりました。その時、親が仕事してませんだやろ。年貢だけで食べてな。新円切り替えでお札が変わって、新しい札が出てきました。いくら家のタンスやどこやかにお金が入れてあっても、もう使えませんの。交換してもらえますけど、その通りにはくれません。やっぱり何割って少なくなってます。それでな、もうあきませんな。
もう年貢は入ってきませんやろ。農地解放で5町あった田もみんな人に渡りましたやろ。田んぼはもう、ちりぢりばらばらに小作の人がええ田んぼをみんな持っていきまして。水のかからん田んぼだけ農地委員が私らの家の分に残してくれました。自分のとこは、ええ田んぼばっかり取りなした。それが今はな、買い上げになって住宅が建ってますやんか。みんなそうですに。私の在地の土地はな、農地委員がええようにしました。「おい、こんなけ残ったぞ」って言ってな、地券の書類置いてな。1反から8俵も9俵もとれる田を、みんな取っていきました。ここらへんの田はよろしいでな。それで、水のかからん田が残ってさ。それからがえらいこと。百姓するのに、もう人手はありませんし。今はもう6反あるかないかくらいでした。