女性(昭和4年生まれ、神戸地区在住)

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父の仕事

 私は神戸生まれですけど、主人の都合で昭和30年に一度名古屋に移転しまして、昭和48年に今の家に帰ってきました。

 私の父は農機具を作っておりまして、その関係で父は出征しなかったんです。でっかい工場の工場長にならんかって言われたこともあったんやけど、職人気質でしたので人に使われるのが嫌って言うてずっと自営業でやってました。それもだんだん商売がうまくいかんようになって、最後は辞めてしまいましたけどね。私達も鉋屑を掃除したりと手伝いをせなあかんだもんで「勉強なんかせんでいい」って言われましたね。夜にね、勉強してると、「もう電気消して寝ろ」って言われるんですよ。だから勉強なんかせんと弟妹を背負って子守したり手伝いしたりしてました。

 食べ物はね、配給でお芋ばっかりでしたよ。農機具を扱とったもんで、それと交換でちょっと米をいただくこともあったんですけど、父が曲がったことは嫌いでね、有り合わせのものでみなさんと一緒のものを食べてました。お芋、麦、短麺の混ざったご飯で、もうお腹が空いてね。ただ、海が近かったですから海産物が食べれたんで、なんとか栄養源は補われとったかね。父も力仕事をせなあかんもんで、時にはカニをいっぱい買ってきて釜でゆでたのを1人1つずつ貰うとそれがおいしくてね。スイカでも10個くらいをいっぺんに買ってきて井戸に吊して毎日食べてました。父は甘い物が好きだったんでしょうね。家の前に和菓子屋さんがあったんですけど、いつもお饅頭を買ってきては10個くらい食べるんですよ。でも、お饅頭も作れなくなってしまって、しょうがなく父は配給のお砂糖をご飯にかけて食べてました。

 洋服もおしゃれとは無縁で、母親の着物をほどいてモンペ作って着てるのがみんなの服装でした。私の家も姉妹は多かったんですけど、働いていたのは私と上の姉ぐらいでしたから服なんか買うこともなくて、みんな有り合わせの物を着てました。


小学校、女学校時代の思い出

 神戸小学校の2年生くらいの時に支那事変が始まって、その影響で出征兵士のお宅に田植えのお手伝いに行ったりしました。お手伝いに行っても私らなんて足にヒルがくっついて大騒ぎ。子供でしたから戦時中だという認識もあまりなかったんでしょうね、みんながキャアキャア言いながら手伝ってね。ただ真面目に先生の言う通りに行動してたんです。子供やったでね、戦争も日本が負けるなんて少しも思ってないから、いつか神風が吹いて日本が勝つんだと本気で思ってました。ラジオから流れてくる情報も日本が勝ち進んでいるってことばかりで、それを聞いて喜んでね。本当は劣勢だったんでしょ。

 小学校を卒業してから神戸実科女学校に入学しました。学校は小学校と同じ敷地内の教室で2年生の中頃まで学生として学び、動員されました後も時々制服を着て学生に戻り戦時下の訓練や指導を受けました。西条の学校に移ったのはいつ頃か記憶が確かではありませんが、警報が出ると学校に行った事や四日市方面のB29による空襲を目撃した事は覚えています。

 空襲が起こると学校を守りに行ったんですよ。学校に爆弾が落とされたらあかんで神戸に在住しとるものは守りに行くってことになっておって、そう言われると私ら行かなあかんのかなって気になって行ったんですよ。来てない人もおったでしょうね。バケツに水を汲んで消火の準備したりしてました。でも、そんなんじゃ間に合わないですよね。その時にね、四日市の空襲も見ました。友達と校庭にいて、その時は怖さも忘れてB29から落とされる焼夷弾が花火のように一面に広がっているのを見て、綺麗だなって見とれてたんですよね。私らは空襲の恐ろしさも知らんから高みの見物でしたんですよ。でも、後で多くの人が亡くなったって聞いて、次は私達の番だと恐ろしく感じました。

 女学校1年生の時は勉強できたと思うんですけどね、2年生の時、昭和19年くらいかな、その頃には学徒動員で三菱の工場へ行きましたね。高田中学校の男子生徒も動員されていたように思います。私達の学校は、学徒動員には1クラスで行ったから、お友達と一緒に工場に通いましてね。電車で柳の駅まで行って、そこから歩いて行くんです。隊列を組んで行きました。工場では、私達と同じ学校を先に卒業した先輩が教えてくれて、部品を作ったんですよね。それまでは口聞いたことなかったけど、工場で一緒になったから話すようになって先輩だってわかったんですよね。私は特攻機雷電とかA6の製作部門の電気班になって、飛行機の消火装置部品を作るために端子のハンダ付けや電気ドリルで穴開け作業をしました。電線を剥いてね、そうすると針金が出てきますわな、それを2つに割ってねじって、その先に丸い端子を引っかけて、装置にハンダ付けして消火装置を作るんですよ。作業場は数棟もあって、それぞれが作業場に移って作業したように思います。作った装置が試験で合格すると、実際の飛行機に取り付けに行ったりもしましたし、完成した特攻機を指導員と一緒に整備工場まで押していった記憶もあります。それでも、終戦近くは空襲で防空壕に入ってばっかりだったんです。機銃掃射も受けたように思いますよ。飛行機が急降下でピューって降りてきてね。防空壕に入るまでに地面に伏せて何とか助かったんですけど、怖かったですね。どれぐらい被害があったとかはわかりません。私達も幼かったですから、そういうことには無頓着で助かっていればよし、ただ命令に従っているだけでしたでね。

 戦時中に南海地震があったでしょ、私は機体がおいてあるところにおったんですけど、機体がダダダダっと端へ寄ってったんですよ。それで「あれっ!?」って思ったの。そしたら「地震やで外へ出よ!」って言われて。その時には立って歩けないから這って出て行ったの。外に出たら建物がグラグラ揺れとるからびっくりしてね。鈍感だったから怖いとは思わなかったけど、壊れやんかしらって不安になりました。地震で建物は壊れなかったけどね、それでも戦時中は大きな被害があったってことは内緒だから、そのことは伏せられとったみたい。


鈴鹿市の誕生

 昭和17年に鈴鹿市ができた時は、河芸郡の神戸町から鈴鹿市神戸町に名前が変わりましたから、なんか都会の人になった気持ちになって嬉しかったように思います。まだ子供やったからね。ただ、名前は変わっても町並みはそのままでしたし、それで生活が変わるってことは特になかったですよね。


敗戦と戦後の暮らし

 工場で聞きました。お昼に集まるようにって言われて聞いたら玉音放送やったんです。みなさんシーンとして聞いてみえたんです。当時は、天皇陛下のお言葉を直に聞くっていうのがもったいないことだったんです。私達は立って放送を聞いてね、がっかりすると同時に「あぁ、これで空襲はなくなるで嬉しいなぁ」って思ったの。だってね、毎晩警戒警報が鳴ると光が漏れやんように電球を黒い布で覆って、ガラスは爆風で割れないように紙張ったんですよね。みんなそうやってしてたんですよね。

 終戦の後がまた大変でね、アメリカは鬼畜って言ってたから上陸して野蛮なことされたらどうしようと思ってね。実際はすごく紳士的でそんなことはなかったんですけどね。進駐軍を実際に見たこともあります。ジープに乗って「HEY!」って言ってましたね。あんな陽気な人やったんやって思いました。

 学校はね、私はわずか半年行っただけで卒業になりました。そやけども、早速英語を取り入れた授業がありました。英語っていってもローマ字を書く程度でしたけどね。でも、そのおかげで今ちょっとだけ英語が読めるんですよね。学校を卒業して1年ぐらいブラブラしてから百五銀行に入りました。私がなかなか就職しないもんだから、父が「行け」って言って行くことになったんです。一番初めに行った部署が出納係やったの。お金数えてね。昔のお金の質は悪かったんか知らんけど、古いお札を数えてると埃が出るんですよね。納税の時期になると凄い量のお金を数えるんですよ。大変でした。働き出してからはお給料が貰えるようになったから、洋画を見に四日市とか名古屋に行ったの。当時洋画ってすごく人気で、そういう雰囲気にすごく憧れとったの。神戸にも劇場はあったんですけど、そこでかかるのも待てずに四日市、名古屋に行きましたね。昔は神戸の劇場も芝居小屋で、三重銀行の辺りにあったんですよ。常盤劇場とかいう名前じゃなかったかな。そうやって映画を見に行くのが戦後の娯楽だったの。

 当時は就職なんて結婚するまでの腰掛け程度でしたもんで、百五銀行には5年くらいしか行きませんでした。その後は結婚して名古屋の方へ行ってしまいました。名古屋と鈴鹿で暮らしはやっぱり違いましたね。名古屋の方にはさ、洗濯機もあれば掃除機もあったですよね。うちの主人は「手ですればいい」ってなかなか買ってはくれなかったんですけどね。それから、こちら(鈴鹿)の方はまだ下水道が完備されてなかったけども名古屋の方は水洗でしたものね。鈴鹿に帰って来た時は蚊がすごくてびっくりしました。

 戦時中のことを思えば、今はお金さえ出せばなんでも買えますもんで平和になったなぁって思います。

[杉山亜有美]