小林新吾さん(昭和4年生まれ、一ノ宮地区在住) 

181 ~ 183

勤労奉仕

 生まれは一ノ宮村北長太でしてね。当時ここら辺は、田が二毛作、畑は鍬で起こして野菜作ったりしてました。私の家は農家で、長男が戦死してるから次男が後を継いだんです。ところが、私は三男で、小学校を卒業したら神戸中学(旧制)に行きたかったんだけど、家の都合で農業を継ぐことになったんです。

 農家っていったって食べ物は少なかったね。米とか野菜は作ってましたけど、供出が厳しくて、作っても飯米を残すだけで全部取られちゃう。1人当たり3俵しか残せやんだ。あの頃は麦の多い黒いご飯やった。米がありそうでないのが農家。ようけ上手に作るとこは収穫が多いで、3俵当てでも3俵半当る時もあるわな。でも、私のところは代用食ばっかでした。汁団子っていうて、汁に小麦粉を握って落としたのもようけ食べましたよ。米ばっか食べられへんだもん。でも、一時腹さえ膨れりゃ夜は寝とるだけやでええんさ。朝に腹がグーって鳴っとる時もあったな。昔はようけ蚕を飼っとったけど、食料増産でみんな畑にした。蚕なんか食べれやんでいらんもん。絹なんて贅沢さ。昭和17年、18年、19年とだんだん苦しくなってきたでな。

 私が通った小学校は一ノ宮東国民学校やった。昔は1つの村に学校は1つだけやったけど、ここ(一ノ宮)だけは2つ、東と西があったの。小学校の時は、勤労奉仕によう行ったね。学科よりそういう事の方が多かったな。夏休みなんかやと大変やった。8月の1日から31日までのうち半分くらいが勤労奉仕になってました。

 長太旭町の3丁目のところに、白子海軍航空隊の送信用の60から70メートルの鉄塔が3機建ってました。そこからいろいろ無線を受信したり送信したりするんです。そこは空き地がようけあってさ、芝とか植えてあるところを草刈したり開墾したりすんの。要するに、畑にしてサツマイモとか食料を作るのさ。作ったのは作った人のもんやけど、海軍も食べるわな。別にそんなもので売買するとかはなかったですよ。そこにも常時交代で兵隊がおって、敷地に4軒か5軒住宅がありました。世帯持ちの人がおったんやろね。私は勤労奉仕に行ってた時に兵隊さんに手旗信号を教えてもろた。運動会とかがあると、離れた人に子供同士が手旗信号で話したりしとったな。

 ここらでも高角砲っていって、砲台が2本ありました。長太新町の3丁目、4丁目辺りですね。松が何本もあって、ちょっと小高い山になっとるところにあったんさ。B29が来て空襲警報が出ると、それでポコーンと撃つけどさ、飛行機がずーっと行ってから撃つんやで当らんわな。そんな程度ですよ。そこにも勤労奉仕に行きました。普段は入れやんけども勤労奉仕やでってことで中まで入ってさ。昭和17年か18年頃やったな。そこにはさ、常に兵隊さんが駐屯して昼夜交代で勤務しとって、夜だけ泊りに来るのさな。箕田の海岸の方には、それとは別に探照灯があって、飛行機を照らすの。探照灯で照らされた飛行機に向かって高角砲を撃つのやけど、あっちは1万何メートルあるんやで当らんはなぁ。実際に撃ってるところも見ましたけどね。ドーンドーンって撃っとる音が聞こえてきましたよ。いっぺんどこやらには1機落ちたって言うて、アメリカの兵隊を捕虜にして扱いが悪かったって言うけど、これはデマかもわかりません。

 それから、当時は満蒙義勇軍とか兵隊ではないけど、それの手先のようなところに行けって学校から言うてくんの。私はさ、親からハンコ盗んで願書出したけど返ってきたな。なんでかって言うと、私は農業要員として家におって田んぼを耕作せなあかんだでさ。とにかく食料をようけ作って出せってことさ。


戦中の思い出

〔鈴鹿市の誕生〕

 市が誕生した時は、ちょうど関西方面へ修学旅行に行ってました。戦時中にその時1回だけね、行ったの。吉野の方へ行ってたんだと思うんです。だから、どう変わったかは分からないけど、名前が鈴鹿市で新しい市ができるってことは早よから聞いてました。ここらはそれまでは河芸郡一ノ宮村北長太って言ってたのが北長太町になったの。それを子供ながらに実感しました。旅行中にハガキを出すのに北長太町っていきなり書くのか、一ノ宮町北長太って書くのかそれがわからんかったんだから。

〔疎開〕

 私の父親の兄が名古屋の方で住まいしとったん。それが空襲で焼け出されてね、こちらに疎開しとったな。百姓する納屋におったの。昭和17年頃ですな。ここにおる時は、風呂がないで入りに来させたったり、野菜あげたり、米を融通したりしとった。そういう話はさ、うちの母親と大人同士の話で、私らは細かいことはタッチはしなかったんだけどね。 

 名古屋の人らって百姓なんてしたことないからさ、昔は農家って言うと麦や米は天日で乾かすわな。そのムシロもようたたまんの。私らは小さい頃からたたんだりしてましたから、軽いものやったら片付けるわ。だから、名古屋の人らは坊ちゃん育ちっていうか、百姓しとっても手伝いにはならんわな。

 叔父も商売しとったらしいけど、大してよう儲けやんと焼け出されて行くところがないで、生まれたところに戻ってきたんやろな。そういう都会からの疎開者ってここら辺でも多かったですよ。

〔兄の出征〕

 うちの兄が昭和16年に久居の連隊に入隊しまして、私はその見送りと面会に2回久居まで行きました。それまでは、兄は師範学校を卒業して、四日市の第二尋常小学校っていって今の浜田小学校ですね、そこに先生に入ったんやけど、あくる年の1月10日に新兵で入営したわけや。そやけど、6月かその頃に兄が肺炎を患って陸軍病院に入院しました。私もさ、医者にはかからんかったけど肺炎になったことがあって、その時にさ、母がババカエルを捕ってきて、股からヒュッと開くと皮剥けるやろ、そのカエルの正体を煎じるわけや。その湯を飲むと、早よ直るっていうてそんな治療をしました。だから、兄の時も同じようにカエルを煎じて持ってったの。そんなん人には見せれないから、母親と体で囲って飲ませた。


終戦

 あの時は、私らまだラジオはよう買わんだで、玉音放送も聞いたことない。世間の噂で戦争に負けたってことを聞いた。最初は本当やろかって思ったけどね。終戦になってすぐは、無線の妨害かな、銀の紙がチラチラって落ちてきたの。ソ連が撒いたって話やけどね。15日をすぎたら日本の飛行機は全然飛ばなくなったね。

 情報もここらは田舎やで遅いわな。私の兄が戦死したんがさ、昭和19年の8月やったん。ビルマのインパール作戦でさ。それが、その通知がきたのが20年8月の戦後やに。紙切れだけが来て遺骨もない。津の海岸にあった役所に、もう一人の兄といっしょに貰いに行ったけどさ、箱にキンキラ砂っていって川べりにキラキラ光る砂がありますな、それと兄の名前が書かれた紙が入っとっただけ。遺品も何にもないの。戦争に行った人らは、そうやってようけ死んでますわな。未だにさ、なんでそんなことまでせなあかんだんかって思います。


昭和35年頃 カタクチイワシ(ひしこ)の干し場の風景(鈴鹿市)

[杉山亜有美]