女性(昭和4年生まれ、牧田地区在住)

184 ~ 186

 私は生まれて6か月で母親と別れとんの。父親は2か月で死んどるんです。そやで、お父さんもお母さんも顔は知らん。親戚に引き取られて育ててもらったの。


女子挺身隊として働く

 私は、尋常小学校を卒業してしばらく家で百姓を手伝っとったんやけど、昭和19年の6月くらいに挺身隊に入ろうと思って志願したの。この辺りで挺身隊に行ったのは私ぐらいかな。願書出してね、昭和19年の11月23日に挺身隊に行きました。その時、私はまだ数えの15歳やった。昭和20年の8月に終戦だから、8か月ばかり鈴鹿の海軍工廠へ行っとったんです。海軍工廠にはよそからようけ人が来てましたよ。九州から来とる子もおれば、滋賀県から来とる子もおる。二見から来た子もおったかな。何千人もの人が挺身隊として働いとった。

 工廠では平野の寮に入ってましたよ。1部屋6人ぐらいが入ってさ。私らのおった寮は2階になっとったね。集団生活はきつかったに。朝6時に朝礼があってさ、それから廊下を磨いて、顔洗ってご飯食べて、7時くらいに寮を出て8時には工廠に行かなあかんだ。私らは裏門から入ったから山道を通って通勤したの。工廠に行ってからは、私らは弾のケース、薬莢やな、それを作っとったの。100人くらいが各班に分かれて作業してさ。昼勤と夜勤に分かれるわけ。昼勤は8時からで夜勤は16時に寮を出てって工場でご飯を食べて17時から作業しとった。なんか知らんけどお金も貰ったに。私らは日給1円くらいやったかな。なにせ1円札は見たことあっても、10円札なんて見たことなかったのよ。それと、道伯のサーキットの傍が火薬工場やったわけ。あの辺りは山やったやろ。その下に防空壕を掘ってそこが工場になっとって、女の子がようけ働いとった。火薬が爆発して死んだ子もおったけど、そんなんはみんな秘密やった。

 昔はな、敬礼の仕方が悪いとパーンと張られたんやに。1人が悪いと連帯責任ってことで班の子がみんな張られた。女は手で張られるけど、男は編上靴で張られたの。私らの班にも長島から5人入って来たの。芸者さんやわ。だから、何にも知らんと草履を履いてかんざし挿して行くで、いつも平野の守衛所で怒られた。モンペ履いて靴履いてピシッとして行けばいいのにな。それで30分くらい説教を聞かされていつも作業が遅れるの。その分だけ仕事せなあかんやんか。

 工廠では、稲生小学校の4年生以上の子が勤労奉仕で学校が終わってから工場に来とったわ。本当に子供でね。何するかっていったら弾運び。3人くらいがさ、箱に入った弾を吊って運ぶの。銅やで重いわさ。それでも16時くらいから来て20時くらいまで働いて帰っとったに。あんなん見たら可愛そうやなって思ったね。それだけはよう忘れやんわ。

 工廠でのご飯は芋飯ばっか。おいしくなんかないよ。それも15分で食べろって言うんや、そんなん15分じゃ食べれやんよ。夜食は残飯でつくったおじやだったと思うんさ。風呂桶みたいなんに入れて持ってきて、それを工場で働いとるみんなで食べたの。茶碗1杯も食べたら十分やった。


算所の爆弾

 算所には爆弾が落ちたでしょ。昭和20年の7月24日の昼前やて。算所で30人くらい死んどるの。後で聞いただけやけどな、昔の旭ダウがあったところの道を隔てたところに海軍工廠の病院があったんや。そこに爆弾で負傷した人を連れ込んだらしいわ。

 私はその時、海軍工廠で夜勤やったわ。今の本田の所に正門があるやろ。そこの近くに私らが働いとった第四弾莢の工場があったんやわ。私は夜勤が明けたから、次の日の昼に家に戻ってきたの。そしたら宮さんの川のところで「お前のとこ、爆弾が落ちてお母さんも娘も子供も死んだに」って言うとるやんか。私の知り合いの子も徴用で海軍工廠へ行とって道伯の寮から戻って来とったわ。その子は「お父さん、お母さん、お姉さん、弟の4人死んどるぞ」って言われて、宮さんの前で腰が抜けて動けやんだの。

 父親(義父)も母親(義母)も牛連れて畑に行っとってね。牛を連れて帰ってきた時にちょうど宮さんのところで爆弾が落ちたんやて。それで牛がびっくりして走ってってしもて、父親は伏せとったけどもバッと飛び起きて牛を捕まえに行ったって。爆風で土が飛んで来るやん、そこには石も交っとるわさ、父親は帰ってきた時には石の跡だらけの傷まるけの顔しとった。そこら中が腫れてさ。母親は子供が家におったから一足先に家に帰ってきたんやて。それで玄関に上がりかまちに腰かけて子供に乳を飲ませとった。そしたら、そのそばに爆弾が落ちてきたの。爆弾の破片が飛んできて、3つの子の顔を掻きむしったから歯が2本見えてるだけで顔がなかったって言うんさ。母親も左胸のところから破片が入って突き抜けてった。破片も舞うでさ、突き抜けた所はでっかい穴になっとった。その突き抜けた破片が戸を3枚破って畳へ「くの字」に刺さったの。その刺さっとるところは帰ってきた時に私も見たわ。蔵の2階にも母親が持ってきた箪笥や布団が入っとったんやけど、その箪笥には穴が開いとるし布団はボロボロで散々やった。そんなんですよ。

 爆弾が落ちた後も、家に大きな穴が開いたから雨の日には傘さしてご飯も食べたんですよ。そんなすぐには直らんでな。それに45発も爆弾が落ちたっていうて、そこら中に大きな穴が開いとるし、田んぼも破片がいっぱい入いっとるでさ、2年くらいは危なくて米もできやんだって。あの頃は食べ物がないから小学校3年生くらいの子が10人くらいで爆弾の破片を拾って、それを売ったお金で物を買うとったんやに。


爆弾が落ちた後の生活

 爆弾が落ちて家に帰って来た後は、よう工廠に戻っていけなかった。「もうこのままおるわ」って言うてね。母親が死んどるやんか。従兄っていっても兄弟みたいに育っとるから、上の子は小学校2年生か3年生くらい、次の子が1年生、一番下の子は学校にも行ってなかった。そんな子がおるのに飯を炊いたり世話する人もおらんでしょ。あの時分には米なんかあらへん。イモを焚いて食べるか、ちょぼっとの米をみんなで食べるかだった。家は農家やったけど米作っとってもな、供出で取られるの。隠してるかも知れないからって畳まで剥がしていくんやに。そんなん隠しようがないやんか。配給もないし、田んぼは爆弾落ちてあかんし、何にも食べる物はない。畑でもキュウリやカボチャを作っとってもそろそろ採りに行こかって言うて行くと、みんな盗まれとってないの。何作っても盗まれるであかんわな。

 昔はイモを薄く切って干してせんべいみたいにして食べたんさ。それをボキボキと割ってご飯の中に入れて食べてたの。ご飯が真っ黒になって、イモにご飯粒がぷつぷつっと付いとるだけ。配給もね、ちょっと貰うだけやった。砂糖も塩も醤油もない時代やでね。砂糖の代わりにサッカリンとかズルチンっていうのがあったけど、あんなんはやらしいの。砂糖の味なんか全然しやへん。

 あの時分は風呂にも入れやんの。夏だったら水で体拭いたりしよったけどな。暑い時は盥(たらい)へ水を溜めといて行水やわ。石鹸もないんやに。配給で来る石鹸なんてまっ黒で泡も立たないし汚れも落ちない。本当にみじめやった。


戦後の暮らし

 玉音放送は聞かんだけど、町内で戦争が終わったって触れて回るでしょ。それで戦争が終わったってわかったの。もしかしたら、終戦になった次の日に終戦になったってことを知ったのかもしれんな。終戦を知っても何にも思わなかったな。それこそ、あぁ終わったんやなぐらいなもんさ。アメリカ兵に何かされるって噂もなかったし不安もなかった。ただ、爆弾を落としてったアメリカ兵やで、そんなんがいるところに子供がウロウロしとるなって怒られはしたな。私らまだ子供扱いやったで。

 私が家を出たのは、数えで18歳の時だった。中勢病院の食堂へ入ったの。そこには板長はおらんかったから厳しくなかった。その後に亀山の弁当屋へ10年くらい行ってから昭和35年くらいに四日市のヘルスセンターへ入ったの。そこは料理屋みたいなところ、今の温泉やでな、お客さんもいっぱい来るでさ、大阪で修行してきたきっつい板長がおったの。口答えなんかちょっともできん。なんか言ったら出刃包丁が飛んでくるんやでさ。そんなところでも、私は何にも言わんと仕事してきたんやで。それくらい厳しかった。板長でも昔の厳しい人が入っとるやろ。終戦後でも、挺身隊の頃とはまた違うしごかれ方で私らはずっとやってきたんよ。

[杉山亜有美]

昭和45年 ひのな漬の様子(鈴鹿市)