田中美喜夫さん(昭和4年生まれ、神戸地区在住)

187 ~ 188

予科練時代の思い出

 私は、昭和4年5月2日、和歌山県の橋本市で生まれました。15歳の時、和歌山工業学校から予科練へ、静岡の美保の松原にある清水航空隊へ配属されました。終戦後復学しました。40年前、板前として鈴鹿に来ました。

 予科練には甲種で合格しました。桜に錨の海軍です。訓練は練習機の水上飛行艇、下駄履きと言っていましたが、飛行訓練を行っていました。その練習機には後ろに班長が乗って指導されました。操縦稈を引いて機体が上に上げるのですが、うまくいかないと竹刀の短いものでよく殴られました。機体が上がらないと思ったら、波のために木のプロペラが折れてひどく怒られました。練習機は数が少なかったですから。一度、先輩の整備兵士に「乗せたろ」と言ったら、そんな油の漏れてくるもんは怖てよう乗らんと言ってましたわ。そのくらい飛行機はぼろかったです。負けるのは当り前ですわ。同期のものは全国から集まってきていて100人以上いると思います。和歌山の者で甲飛会の和歌山県人会をつくりましたが、ほとんどの人が亡くなって解散しました。和歌山会で25,6人いましたが、自分を入れて3人残っているだけです。

 予科練、特攻へ志願をした理由は、「学校から行く者手を挙げよ」という先生の声があったからです。三重県の香良洲で試験を受けました。試験は、裸になって身体測定や試験もありました。入隊する時は父親が大阪まで送ってくれました。橋本の紀見村の村長が南海電車を1両借りきってくれて、青年団が太鼓をたたいててくれて、橋本から難波まで送ってくれました。難波では、改札口まで兵隊が迎えに来ていましたが、親父が手を握ったまま離そうとせず、兵隊は「もう離したってくれ」と言っていました。

 特攻の給料は40円だったと思います。予科練から特攻隊に入った17歳の時に、恩賜の煙草をもらいました。特攻隊の鉢巻きは、日の丸に南無八幡大菩薩と書いた鉢巻きでした。藤枝から知覧へ行くんです。いつでも死ねるという教育をずっと受けていますから怖いということはなかったですね。藤枝では、まるすいといって、爆弾を舳先につけたべニア板の船を造っていました。特攻用の船ですね。そんなもんでは穴も空きませんね。そんなもんも造っていました。


終戦時の思い出

 終戦は藤枝で迎えました。17歳の時、藤枝の練兵場でラジオを聴きましたが雑音が入って何を言っているのかさっぱりわかりませんでした。当時は、ふんどしをトイレで外して見ると、皺の寄ったところにシラミの卵がたくさん付くくらい、シラミがいたので、その時も整列してから、前の人の頭のシラミをつぶしていて聞いていなかったように覚えています。

 2日後に敗戦を上官から聞かされました。敗戦を知った時は、辛いとかいうことはなかったです。やれやれという気持ちだったかな。終戦になったけれども、上官からは三八式歩兵銃と弾をもたされて、軍隊の医療品や米等の入った蔵の番をさせられました。NPと言いましたが、それをしていました。番をしていたら、上官は蔵から勝手に物資を持ち出して行ったので、自分達も持ち出して隠して家に送りましたが途中で盗まれて何も送れませんでした。

 その後、和歌山へ戻り、1か月くらいして再びNPとして命令を受け藤枝へ戻る事になったのですが、祖父が「なぜ負けたのに戻っていくのか」と泣いて怒っておりました。父親が大阪まで送ってくれました。地下鉄に乗る時に、陸軍の兵隊と出会ったのですが、階級が自分より下であったので自分に敬礼をしたので、父親は「お前えらなったんやなあ」と尻をつねって言ったのを覚えています。1日隊へ戻るのが遅れて殴られました。ひと月ちょっとの間、NPとして見回りをしていました。武装解除のために、飛行機を並べてエンジンを外し、百姓にあげました。30機くらいはあったと思います。解体した飛行機は、訓練用の水上飛行機です。アメリカ兵はいませんでした。

 昭和20年の10月頃には和歌山に戻りました。軍隊手帳をもって帰りました。米兵が上陸してくると女性は辱めを受けたりするので、女の人は丸坊主になっていました。青酸カリを役場から配られ、女性は自決するように渡されたということも聞きました。


復学後の思い出

 和歌山工業学校へ戻った時に、先生は田中と呼び捨てにせずに、君付けで呼びました。「田中君、すまんけど煙草を吸いたなったら後ろの出入り口に行って吸ってくれ、運動場で吸うてくれ」と言われました。実家が今のコンビニのような店をしていて煙草も酒も売ってましたから、友達も学校へ行く時に、「煙草あるか」って言うし、また親父も「おい、美喜、煙草もったか」と言ってました。煙草も1つやなくて5つ6つ持って行きました。吸いたくなると洗面所で吸っていました。学生服の下に7つボタンを着て、学生服のボタンはばすしてました。これを見せたら顔が利きますので、女の子にもてますのや。洗面所で巡査が、「君、君、学生やないか」というので7つボタンをみせたら、「失礼しました」と敬礼しました。巡査が謝ったよ。それくらい顔が利きましたわ。

[芳田厚]

田中さんが出征する際に贈られた日ノ丸