航空工業に通う
生まれは名古屋市の東区豆園町ってところなんです。昭和19年まではそこにいたんですが、名古屋の強制疎開っていうのがありまして、白子が母の在所でしたので、白子に来て母の借家があった築地町に家族で住んでました。ですが、当時、私は名古屋の航空工業へ通学してましたので、家は白子に引っ越したんですけど、白子から通うわけにはいきませんでしたので1人で寮に入りました。
あの頃は、小学校の次に尋常高等科っていうのが2年ありまして、その尋常高等科で国民の知らなきゃならないような教育を終わらせるっていうのが国の方針だったんです。航空工業っていうのは、尋常高等科を卒業した後に3年間行って飛行機を作ることを学ばせる学校でした。航空工業には設計科、機関科、機体科っていうのがありまして、私は機体科に入って航空力学を学んだんです。しかし、昭和18年から動員になったもんですから、1年間勉強しただけで、その後は名古屋の三菱発動機に全員学徒動員に行きました。
終戦になる2,3か月前に三菱の工場が爆撃を受けまして、仕事ができなくなったんです。それでもまだ動員はかかってるもんですから、壊れた工場の整備をやらされたんです。そうなると(仕事はないので)寮も住んどるわけにはいかんから出てくれってことで、白子の家に帰ってきたんです。工場の整備の仕事は、時間に厳しくなかったもんですから白子から名古屋まで通ったわけです。
海軍との交流
ここには鈴鹿海軍航空隊(鈴空)っていうのと三重航空隊(三重空)っていうのがあったんです。鈴空は練習航空隊なんです。だから若い人、せいぜい30代前半までの人が多いわけです。三重空は実践航空隊で、鈴空で練習してパイロットとして一人前になりますと三重空とか他の航空隊に行くわけですね。
白子に引っ越してきた時に、鈴鹿海軍航空隊の隊員が「ここで休ませてくれんか」って言いに来たんです。母は軍人さんを大事にしとったので「良いよ」って言ったんです。航空隊は全員ハンモックで寝てたから、畳の上でゴロ寝するのが非常に気持ちがいいと言ってました。あの頃は海軍さんもずいぶん色んな家に遊びに来てましたよ。私の従兄弟も稲荷町に住んでましたけど、そこにも遊びに来てました。それで、初めは1人が遊びに来てたんですけど、そのうち2人友達を連れて来てね、3人があの頃は「上陸、上陸」って言って来てたんです。海軍だからね、船から陸に上るのを上陸って言いますね、だから航空隊の中では外に出て一般家庭の家に遊びに行くのを「上陸」って言ったんですね。海軍さんもお前はいつ上陸せよとか決まっててね。3人が一緒に遊びに来ることはほとんどなくて1人で遊びに来ることが多かったですね。3人のうちの1人は横浜が在所でしたけど、横浜の市役所に勤めとって、いわゆる軍人に引き抜かれて航空隊に来てました。他にも厚木市で親父さんが土建屋をやってて、その息子で徴兵されて航空隊に来とったんもおります。海軍さんは僕より5つくらい上で若い方だったんですけど、1人は酒保(しゅほ)、いわゆる販売所にいる人だったんですね。酒保にはタバコとかお菓子とか色んなものがようけありましたんで、僕の所に来てた酒(しゅ)保(ほ)の人はよくタバコを持って来てくれてたり、砂糖が手に入ると持ってきてくれてそれで母がぼた餅作ったりしてました。そういうのが軍人さんは楽しかったみたいです。
遊びに来るとご飯も一緒に食べたりしましたよ。今は埋め立てちゃってないけど、この近くに池があったんですわ。そこでウナギが獲れたもんで「おっきなウナギが獲れたわ」って言うて海軍さんの1人が持ってきてくれて、ものすごく料理の上手い人がウナギをサーって捌いて蒲焼を作ってくれたこともありました。
他にも、御座ヶ池の近くに鈴鹿海軍航空隊の豚舎があってね。そこに酒保で働いてた人と豚のえさやりなんかも行きました。普段は海軍の人が世話をしてるんでしょうけど、そこに「いっぺん遊びに行こか」って言って連れていってもらったんです。まぁ散歩みたいなもんですね。あの時は誰でも自由にえさやりに行けたんです。といっても豚舎の近くに火葬場があったんで一般の人は誰もそんなとこに行かなかったですし、豚を盗んでいくなんてこともなかったですけどね。えさは航空隊で出た残飯をやってたんです。豚も10頭20頭ってもんじゃなかったですから、量も多かったと思います。
海軍兵舎と200トンの救難艇
白子港には海軍兵舎が建っていてね、岸壁に200トンと呼んでいた救難艇が繋留されてました。その200トンの救難艇は飛行機が海に落ちた時に、その飛行機を引き揚げに行く船なんですよ。だから、後ろにクレーンがあって飛行機が落ちたって言うとそのクレーンで引き揚げてましたね。普通の漁船が出ていく時にはポンポンポンって音なのに200トンが出ていくとボンッボンッボンッって音がするんですよ。だから「200トンが出てくわ」って言うてました。当時の白子港の中では一番大きな船でしたから、200トンの船が桟橋に着いたら他の船は着かんのですわ。
併設された海軍兵舎には入ったことはないんでわからんのですけど、航空隊の乗組員の人が泊まる宿舎になってたんでしょうね。平屋でしたけど、だいぶ縦長の建物でしたね。終戦後はその救難艇も兵舎もなくなりました。
終戦になると、海軍さんもやりたいことやってました。例えば200トンの繋留していた岸壁からボートを出して、ちょっと土手の方へ行ってね。手榴弾をポッと投げますとボコォと水煙が舞って魚が浮いてくるんですよ。それを拾ってましたね。僕らは「あぁ好きなことやっとるわ」なんて言ってたんです。そんなことがあったのは引き揚げてくまでの間2,3か月のことでした。
終戦
昭和20年に、名古屋の中学校5年生の各7名ずつ選抜せよってことになって、航空工業からは僕を含め7名が選抜されて8月13日から20日までの1週間「軍事訓練強化」の名目で名古屋市立広路小学校に集められたんです。そこでは団体行動の練習をやらされましたね。全部で200名ぐらいの生徒がいたと思うんですけど。それが広路小学校の教室にゴロ寝させられて、昼間は訓練を受けさせられるんです。それでね、8月15日の昼に生徒が校庭に集められてね、陸軍将校の訓練隊長から玉音放送を聞くようにと言われて放送を聞いたんです。だけども、玉音放送って天皇独特のわかりにくい言葉遣いだし、変な抑揚をつけるんで、私には戦争が終わることくらいしかわからなかったですね。
これで戦争も終わるんかなって思ったんですけど、直後にね、訓練隊長が壇上に立って「日本陸軍は絶対に降伏はしない。死ぬ事があっても負ける事はない。今後戦況は厳しくなるので午後は防空壕増設。明日からは訓練強化」とそう言ったんですよ。日本政府の一部の者がアメリカとそういう話を結んだのかもしれないけど、軍隊は絶対に戦争をやめんとね。その頃はアメリカに絶対に負けんって人がまだおったわけですよ。でもね、夕刻になって、再度生徒が校庭に集められて「残念だが訓練隊の解散命令が出た。今夜は無礼講とし、明朝解散式を行なう」とそうなったんです。
その夜は、生徒が男女の別もなく校庭を歩き回ってね、すれ違うごとに手を叩きあったんです。その時に自然と「貴様と俺は同期の桜。同じ広路の庭に咲く…」と歌いながら、誰もが涙を流していました。私もね、なんていうのかな、悲しみでもなく喜びでもなく、ただ涙がこぼれてきたっていう状況だったんです。その時に訓練隊長が言った「死ぬ事はあっても負ける事はない」って言葉を思い出したんですよね。大和魂ってなんのことやろと思いますよね。広辞苑を引くと「勇ましくて潔いこと」って書いてあるんです。でもそれってどんなもんだってわからないわけですよ。それに対して、その時にね、訓練隊長が「日本陸軍は絶対に降伏はしない。死ぬ事があっても負ける事はない」って言った。「死ぬまでは絶対に負けない」それが大和魂だと私は思ったんです。
戦中・戦後の楽しみ
戦中も戦後も楽しみは正月と祭でしたよ。名古屋にいた時はまだ子供でしたから、正月は凧揚げとか駒まわし、すごろく、竹馬をして遊びました。他にも僕は百人一首が好きでね、すぐ近くの同級生の女の子とよく百人一首をやってた。
祭っていうのは、名古屋の時はほとんどなかったですけど、白子に来てからは久留真神社の春祭りと秋祭に行きましたね。秋祭は、ここら辺では「つきあい祭」っていって、駅前の勝速日神社の本祭りの付き合いで祭をやりよったの。春祭は本祭だったんで、獅子が舞って、神輿が出て、というような祭をやりよったんです。僕らはその時若い衆として、本祭りの時にはおっきな幟を立てたり、獅子まわしの笛や太鼓なんかをやりました。若い衆が祭の中心になってたんですね。
昔はね、尋常高等科を終えると若い衆に入りました。まぁ、結婚するまでぐらいは入ってたかな。築地町では7,8人が集まってました。祭のだいぶ前に「何時何日に幟旗あげるよ」とか話し合いをする場として若い衆宿があって、おっきな家が8畳1間くらいを若い衆に貸してくれたんです。そこの主人がお父さんになってくれて、変な話をしてると「おまえらそんなことやったらいかんぞ」って怒られましたね。僕らのことを見張とってくれたんです。
祭が終わると役員から若い衆に報奨金っていってお金貰ったんで「おい、これでちょっと飲もか」とか「今から映画見にいこか」とか言ってみんなで遊びに行きましたね。あの頃は娯楽といったら映画ぐらいしかなかったですから、1人10銭、15銭払って見に行ってね。榎本健一の映画をよく見ましたよ。あの頃のエノケンの映画はすごく人気でした。
この祭は今も続いてはいるんですけど、色んな人の意見が出てきて、昔とは変わってしまいましたね。若い衆宿も若い衆の数が少なくなったから終戦後5,6年でなくなったかな。