女性(昭和4年生まれ、白子地区在住)

192 ~ 194

学徒動員

 私は神戸の生まれで、鈴鹿市立高女に通ってました。昔は神戸小学校に併設されてたんですけど、当時、市の校区改正に伴って飯野小が別の地域に移転したため旧校舎が空き、そこへ市立高女が入ることになりました。私は終戦後の2学期と3学期を通学して卒業しました。女学校は4年で卒業ですけど、学徒動員は3年の時でしたね。その頃「三菱重工、重工」って言っとったけど、はっきりと社名はわからないままでしたな。千代崎に三菱が大きな工場建てて、雷電って私は覚えてますけどな、戦闘機を造っとって、そこに私らが学徒動員として入ったんです。神戸の駅から千代崎までは電車でみんな通って。女学校やもんで、加佐登とか遠くの人も来てますやろ、その人らは学徒動員になったら、岸岡山に三菱が建てた寮にみな入れられて寮生活ですわ。私らは、弁当持ちで家から通って行きましたな。


三菱航空機製作工場での仕事

 動員当初の1か月程は、クラス毎に広い工場の建物の中で、鋼鉄を挟むもの(回転バイス)ありますやろ。あの、鉄を鉄でこうガシッと固定して、それにノミを当ててハンマーでガンガンガンガン、ハンマー打ち。そんな基本的な作業の指導を受けて。いずれも指導者の工員さんの号令に合わせて姿勢なんかも厳しく指導されました。それからみんな、いろいろな所へ配属されて、私は何の部品か知りませんけど、始めは細い赤と青の電線に輪っかをつけるハンダ付けをしましたん。それから途中で方向舵かな、飛行機の翼の部品の枠がありまして、それに麻の布をパーンと張る作業をしたんです。虫ピンで。虫ピンが入るんやからその枠は金と違いますわな。竹か木ですな。長さは1間くらいばかりありましたかな、幅はこのくらい(約30センチメートル)の長い枠がありまして、虫ピンでピピピっとその麻の布を張っていって。今度はぎゅうっと伸ばしてパンパンになるようにまた伸ばすんですけど、それを接着剤でギュっと枠に貼るんですな。そやけど、私らみたいな女の子が引っ張っただけではパンパンなりませんわ。男の人があとでみんな直してました。そこへ塗料を塗るんですな。そんな仕事しましたけど、そこで終戦になりました。


航空隊

 三菱重工の端に、私ら「二空廠、二空廠」って言いましたけれども、飛行機の整備工場がありましたわ。そこへ、学生が飛行機の翼を押して持ってくんです。航空隊の反対側に、掩体壕って土手みたいのがありましたな。飛行機1台置く壕が、幅は広くてコの字型になって。高さはどうですやろ、その土手は1間余はありましたな。そこまで押していって飛行機を納めるんです。掩体壕っていったんですよ。私らともう1つ、高田中学の子達も来てまして、そこへ出来たての飛行機を一緒に押していったことがありますわ。私らは三菱の方へおりますけど、高田中学の子はその整備工場の方におりまして。空襲になりますと工員さん達も学生もみんなで岸岡山の大きな防空壕の中へ入りました。高田中の子が飛行機の翼の下に隠れて機銃掃射でやられたって、死んだとかって聞きましたよ。

 終戦近くのある日の空襲で、私達のクラスはいつもの岸岡山へ避難せず千代崎、若松間を流れる金沢川の水門辺りへ避難しました。その時、B29の爆音と共にまるでトタン屋根に小石が降ったような音がして、現在の近鉄鈴鹿線の柳駅方向に黒い土埃が高く上がったのを見ました。生まれて初めての経験で、今も私の瞼に焼き付いて消えません。


東南海地震

 たまたま部品を納めに桑名に行っとった時に起きましたな。7,8人やったと思うんですけど、男の先生の引率で学生が小さな部品を持って行った時です。電車で桑名の駅からまっすぐ東向いてくと、今の桑名のお城の方ですね。あっこらへんですわ。工場へ着いてその部品を納めたんで、また先生と一緒にこっち向いて帰ろうとして、もうそこが駅ってところで地震が来たんです。もう私らその時は、こうやって(両目と耳を手で覆って)伏せるくせがついてて。あの頃はもう爆弾かと思ってな、地震っていうのは頭になかった。もう道で遭うたら、こう伏せよってな。で、道の真ん中でみんな伏せをしたんですわ。ほんで私も伏せして、周りを見たら向こう側の2階建ての家がこうやって(グラグラ)してますね。用水もザバーン、ザバーンって揺れてて。伏せしとらんでもいい、これ地震やってわかりましたな。ほんで駅行ったら電車が不通でしたので、また三菱へ戻って。12月でしょ、寒いですやろ、どうやって寝たか覚えないですけど、ガラーンとしたところで寝かせてもらってね。その翌日、桑名の駅から塩浜まで電車で行って、塩浜から先があきませんで、電車道歩いたり、乗ったりして家へ帰ってきました。(石原産業の煙突は)行く時は電車の窓から高い煙突やなぁって思って見てて、帰りにはもう折れてあらへん。真ん中くらいから折れてましたな。その時は、家に帰ってったら母親が慌てて。私が帰って来るまで、親はどんな思いで待っとったんか。一晩帰らんのですもん。


海軍航空隊の下宿

 その頃は神戸か白子が繁華街ですわな。海軍さんが遊びに出るのは神戸か白子で、私は神戸ですから白子のこと知りませんけど、白子もようけあったようです。部屋が空いとるところは2人かそこら下宿っていうて。海軍さんはそこから、鈴鹿海軍まで自転車で通うんです。私が3年生くらいですかな。2名かそれくらい、私の家も預かったと思うんですけどな。家で賄いする家もあったらしいですけど、私の母親は海軍さんに食べてもらうなんて、そんな経験ありませんもんでな、賄いを取っとったみたいですな。それで、私がここ(白子)へ嫁ぎましたら、ここの母親が同じ様な事言ってました。白子もそういうことあったわけですな。鈴鹿海軍航空隊の人としては白子とか神戸は、もともと赤線って言ったんですかな。遊郭っていうの、そんなところが目当てで来たいうて聞きましたな。


兄出征の時の様子

 あの頃は町内で見送りましたやろ、表のところで雛壇みたいに並んで向こうから写真撮影するんですわ。私の兄は昭和18年に出征しましたな。兄は普通の商社マンでして、上海におりました。上海から3か月前に帰って来まして、家で3か月のんびり生活したけど、呉海兵団へ現役で行かんならんかった。それが8月10日でした。その朝、おばあさんがおらんもんで、みんなが「どこ行った、どこ行った」って探しました。私が裏の方へずーっと探しに行ったら、おばあさんが裏の畑のところに立ってまして。私は女兄弟が多くて、兄は男1人ですわ。だからおばあさんにしてはもう、な。兄が家出てくのがもう、辛かったんやな。その時私はまだ女学校で、そんなには思いませんでしたけど。兄は帰ってくるものやと思ってましたしな。それで呉海兵団入ってすぐに、希望かそんなこと分かりませんけど通信兵になったんです。手旗とか、「ツートン」っていったかな、電信のことをしてたみたいです。それで「扶桑」って戦艦に乗ってレイテ湾に行って。「扶桑」に乗った人は誰も戻って来てませんやろ。1番激戦地だったようで。だから最後はわかりません。たぶん家で想像するのに、手旗とか通信兵は甲板におったんじゃないかって言ってました。兄は水泳できたんですけど、火の海ですでな。いくら水泳できても泳ぎきっては戻れんわな。兄も覚悟して行ったんか知らんけど、行ってしばらくしておばあさんが仏壇開けたら、爪と髪の毛が切って入れてあったのを見つけて。その時代はそうですわな、お骨も無しの葬式でしたでな。兄が22歳の時でした。

[小川真依]

昭和25年頃 三菱重工の社宅跡付近(鈴鹿市)