学徒動員
私は神戸中学の2年生の時ですけど、昭和18年の4月から終戦まで、三菱の整備工場に学徒動員に行ったんです。白子の家から毎日ずーっと歩いて通ってました。三菱の工場が愛知県にあったんですけど、そこで造った飛行機が鈴鹿まで試験飛行をしながら飛んでくるんです。その試験飛行で不具合な箇所を三菱の整備工場で整備して、隣接している海軍の空輸部隊に引き渡すんです。それから海軍に納入して、世界(戦地)のあちこちに飛んでいったんですね。
〔作業内容〕
私は整備工場では零戦の整備をしてました。我々、学生が5,6人と三菱の人が3,4人で班を作りましてね、割り当てられた戦闘機の不具合を修理したわけです。試験飛行で操縦してみるとエンジンから煙がでるとか、ブレーキの効きが悪いとかはよくありましたよ。最初の頃は戦闘機の風防を磨いたりですね、それくらいしかできないんです。最初の頃はそんなことばっかりで、ほかには地上運転をする時には、プロペラを回すから飛行機が浮かんように、重しになったりね。もちろん括ってあるんですけど、プロペラが全開しますと機体の後ろが上がったりしますからね。昔はスイッチ1つでかかりませんからね、プロペラを回すんですよ。急にボッっとエンジンかかってね、あれは怖いですよ。工場は8時に始まるんですけど、歩きですから家は7時には出ないといけなかったです。8時に工場に着いてからはまず朝礼やな。我々はね、120人くらい同級生おったんですけど、塩浜のほうに半分くらい行ったから60人くらいの学徒動員でした。朝礼が終わってからは、最初の頃は午前中に学科があってね、三菱の技師がきて戦闘機の教育受けたんです。午後からは実習みたいにして、自分達でスパナとか工具を作ったり、工員さんの手伝いしたりね。それが、3か月くらい続きました。それからは、三菱の工員さんと1つのチームを作って、割り当てられた飛行機のメンテナンスをしたわけです。夕方の5時頃までやな。終戦まで2年くらいおりましたから、エンジンの修理もある程度のことはやるようになりました。エンジンがこうだとか、ブレーキがこういう仕掛けしてるとか、ある程度飛行機のこともわかっとかないといかんわけですよ。
〔飛行機の増減状況〕
私達が来た頃(18年4月頃)は飛行機はようけありましたよ。ずらーっと並んでましたからね、盛観でしたよ。零戦ばかりではなくて雷電もあって、他にも機種はたくさんありました。昭和19年の12月には東南海地震で名古屋がやられて、20年の3月頃からは愛知の三菱が空襲で燃えたでしょ。そういう被害があって愛知では飛行機が造れませんから、それからは暇でしたよ。ほとんど飛行機が来ないもんだから、落ちた飛行機を持ってきて、つなぎ合わせて1つの飛行機を造ったりしてました。まあしかし、そんなものはようけありませんからね。なんやかんや防空壕を堀りに行ったりしてたと思います。遊んではなかったですから。沖縄戦が始まった頃は我々も遅くまで仕事させられたんですよ。とにかく飛行機がないもんだから、全国から飛行機が集まってきました。ここから海軍へ持っていくんですからね。その頃は飛行機がないですから、練習偵察機に爆弾だけつけて。特攻隊で持ってったんじゃないですか。
〔嬉しかったこと〕
嬉しかったのは、零戦が名古屋の上空でB29を落として来たんですよ。その零戦に学徒号って書いてあってね、B29を落すと桜のマークつけてるんですわ。鈴鹿で整備したものかしらんけど、とにかく桜のマーク付けた零戦が帰って来たってのが嬉しかったんです。「たぶんここへ来たってことは、我々で整備したんじゃないか」って言ってたんですけど。そんな記憶があります。
空襲
〔警報が出た時〕
警戒警報が鳴ってくると逃げないかんじゃないですか。いざとなると人間より飛行機が大事ですから飛行機押して逃げるんです。10人くらいで掩体壕まで押していくんです。舗装されてない道は雨降ったらどろどろでね、後ろの車輪は小さくて走らんもんですから、尾翼を海軍の兵隊さんの腰に乗せて浮かせて行かないと進まないんです。後ろの方は海軍の元気な人が押して、我々は前の車輪を持って押してましたね。子供ですもん、重いものは持てませんから。完成した飛行機で、飛べるようなものは空中退避で逃げましたよ。危ないで。まだ何も機関銃をつけてない飛行機でも、飛べるものはとにかく空中退避で逃げるんです。修理中で飛べない飛行機は掩体壕へ押して逃げるわけ。それで飛行場には木で作った飛行機が置いてあって、偽装用ですね。空襲が来ると、これで仕事せんでいいわって、子供ですから喜んだんです。警戒警報終わるまで自分達の防空壕で休んでました。
〔機銃掃射の体験〕
基地で上からバリバリって機銃掃射をやられたことがあるんです。木で作った囮(おとり)へめがけて来たんです。我々は基地の端っこで逃げてますやん。その逃げてる横をバリバリってやられたんです。びっくりした。雲の中からいきなり飛行機が飛んできたんです。
家におるときもね、機銃掃射はようけありましたよ。私は防空壕の中から見とるんですけどね、鈴鹿基地のとこへ降りてきて撃って、上がってくる所がちょうど私の家のあたりでしてね。アメリカ兵が飛行機から下を見とるわけですよ、たまたまですけど顔が見えとった。あの頃はアメリカの航空母艦がその辺へ来とったわけですからね、それから飛んでくるんですね。
日曜下宿
私のお袋はね、白子地区の国防婦人会の会長をしとったんですよ。そういう関係で日曜下宿してたんですわ。航空基地があるでしょ、それで兵隊さんが日曜日に来て、家族も来て一緒に飯を食うとかしてました。あと、家の離れには家族を持った海軍の人が下宿してましたよ。そういう人もおったんです。その人は海軍のベテランのパイロットで優秀な人でしたね。
終戦後
玉音放送を聞いた時は悔しい思いでした。負けると思わないですもん。小さい時から、日本は負けたことあらへんって聞いてますやん。だから腹が立ちました。我々はそんなひどくやられたところを見てませんからね、必ず勝つんだと思ってました。小さい子供ですから負けるなんてこと教えられへんし。そんな思いですよ。
終戦後は次の日から学校へ戻りました。大学受けに行こうと思って予備校に行ったの。神中には22年までおって、あと1年は津中学(予備校)に行ったんです。津中は戦災で燃えましたから、久居の連隊の跡にあったんですよ。私は23年3月に卒業したんです。卒業してから25年までの3年間は家で手伝いしとったんです。仕事もないですし、私は怪我をしとったもんで進学も諦めてね。
昭和25年からは、自衛官だったんです。25年に朝鮮戦争が始まって、その時に警察予備隊ってのが出来たんですけど、その時にたまたま仕事がなかったんで。戦争中に士官学校受けてね、終戦の前の10月には入校する予定だったもんですから、怖いもの知らずで、軍隊のほうがいいのかなと思って受けたんです。そういうわけで、25年からは鈴鹿へ住んでなくて、九州から北海道って全国周って、最後は明野で終わったんです。昭和55年に鈴鹿へ帰って来たんです。