実家での生活
私は寺に生まれました。あの頃は小学校へ各自、お弁当を持って行きましたが、みんな白いご飯(白米)が食べられなかった頃でした。私は幸いにして檀家の方々のおかげで食べ物にもあまり困らずに過ごす事ができました。お米とかお魚とかいろいろありがたかったです。
学徒動員の時は工場のご飯だけではお腹が空きますので、家からおにぎりを持って行って、お部屋の友達とみんなで食べたりしました。この辺は半農半漁で漁師の人が多く、海に行く人は信仰が厚いというか、寺を大事にしてくれました。やっぱり漁に出る人は「板一枚下は地獄や」と言われますが信心も厚く、大事にしてもらったのですね。
駅の様子
ベンチってなかったと思います。みんなホームで体操座りが普通でした。動員で工場へ行くのに諏訪駅で乗り換えて中河原まで行くのですが、その時もホームに立っている人は誰もいなくて、みんな座っていました。立っている元気が無かったのかと思います。
駅には駅員さんはいなかったのです。駅のすぐ前の家の人が切符を売っておりました。電車も人の乗降が少ないので、車掌さんに「○○駅で降ります」と伝えておかないと、ホームに誰も乗る人がいないと通過してしまいます。あまり電車に乗る人も少なかったようです。
女学生時代の学徒動員
〔東洋紡績三重製絨工場での学徒動員〕
私は四日市高等女学校の5年制に昭和17年4月に入学し、22年3月に卒業しました。1学年に5年制1クラスと、4年制4クラスがあり、1クラスは50人編成でした。4年制の人は2年生の途中から学徒動員として工場に働きに行きました。東洋紡績三重製絨工場では朝5時から14時までと14時から23時までの2交代でしたので、各自が家から通うことは不可能で、工場内の寄宿舎で生活をしながら働きました。朝5時から14時まで工場で働いてくると、14時から夕方まで寄宿舎に学校から先生がそれぞれにみえて勉強しました。疲れているのでよく居眠りをしましたが…。2交代制なので、14時からの人は午前中に授業がありました。朝5時からの早番と14時からの遅番は1週間毎に交代しました。交代の折、1週間に一度各自の家に帰してもらいました。その時は1人でも寄宿舎に戻って来ない人がいると、その部屋の人だけは次の時に家に帰してもらえないのです。寮の一部屋は7,8人です。みんな喜んで寮生活をしている人はいなかったと思います。お国のためと思って行っておりましたが、でもやっぱりつらかったですね。
仕事は軍用の毛布を作ったり、軍服の布なんかを作ったりしてました。背の順で3班に分けられました。チーズ巻き(糸を巻き替える作業)の班、オーストラリアから来た羊毛を分ける班、機を織って布(反物)にする班の3班です。チーズ巻きでは、工場内がすごい埃で、マスクをしているのですが、肌とマスクの間には綿埃りが積りました。羊毛を分ける班では、大きいムカデに刺された人も出たりしました。
〔ストライキ〕
ストライキという言葉は当時知らなかったのですけど、今思うとストライキもしました。私達は繊維の工場でしたので、「私達も軍需工場へやって下さい」ということで、先生方を寄宿舎の一部屋に閉じ込めてしまって。結局は先生方でもどうしようもないということで、先生から「もう、明日も早いのだから寝なさい」ってことだけ言われて。罰とかいうことは何も無かったのですが。先生は「この仕事も兵隊さんの役に立つ」と言われるのですが、私達はもっと武器をつくったりとかそういう所で働きたかったのです。その頃の教育というか日本は勝つと信じて思っておりました。一生懸命やってましたが、結局は敗戦になってしまいました。
〔避難〕
もう終りの頃は戦争が激しくなってきて、四日市の焼夷弾の空襲なんかすごくて本当に怖かったです。すぐそこへ爆弾が落ちますし。私達は働いて疲れていますので、もう防空頭巾をかぶって靴を履いて布団の中で寝ていました。いつでも避難できるように。そんなことが終戦前には続いていました。寮にいる時は、警戒警報が出て空襲になると先生がみんなに「山の方へ逃げなさい」って言われるのです。それでも私達は「先生、死んでもいいからここで寝てたい」って。もう寝る事しか楽しみがないのです。先生は大事の子を預かってますので、「そんなとこにおってもらってはあかん」って言われて、結局は逃げるのですが。半分寝ながら田舎道を走りましても、照明弾がパーっと飛行機から落されると、みんな反射的にぱっと伏せるのです。そういう時は伏せるという訓練はしていたので、反射的にみんな伏せました。避難する先は森のある方向なのですが、その辺りにはお墓しかないのです。でもお墓も何も怖くなくて、とにかく眠たいのでお墓を枕にして寝ていました。
〔寮生活〕
動員で行ったのは3年生の半ばからでした。今の中学3年生ってもっと大人っぽいと思うのですが、私達は寮の部屋へ帰ってくるとままごとをしていました。工場で羊毛など落ちているのを少し拾ってくるのです。それで、お寿司みたいに作ったりして。ほんとに幼かったと思います。これぐらいしか遊ぶことがなかったような気がします。お部屋の友達とちょっとの間だけ遊び、あとは授業を受けて寝るだけでした。
〔玉音放送〕
天皇陛下のお言葉の内容が聞き取れなくて、わからなかったです。私はちょうど交代の時で、自宅に帰っていた時だったのです。大事な放送があるということで、家族と一緒にラジオの前に座って放送を聞いたのですが。
とにかく工場へ帰らないといけないので、友達と2人で塩浜駅まで行ったところ、この先は電車が動かないとのことです。とにかく工場まで帰らないといけないので、歩いて行きました。途中、カネボウの工場が燃えていたのですけれど、それには気付かずに「なんか落ちてくるね」と友達と2人で話しながら歩いていました。随分行ってから、ふと振り返ったら工場の塀の中がすごく燃えているのです。「私ら、あそこ通ってきたの?」と、びっくりしました。
私達は終戦になってもまだ働いていました。玉音放送のあとも、何も不思議に思わずに。工場長さんも本当に敗戦を知らなかったらしくて。乙班の人は工場で放送を聞いたのですが、その後に工場長さんの訓示があって、「みなさん、もっと頑張りましょう」というような内容だったようです。それからしばらくして、「日本負けたんて」ということで、終戦を知りました。
戦後の学校
その頃は、上の学校を受けようと思うと、女学校は4年制ですから、4年生で受験できます。私は当時は薬剤師になりたかったので、4年生で受けて、もし受からなかったら浪人しなければなりませんので、それで5年制へ行ったのですが、4年生の途中で敗戦となり、学校の制度も変わってしまいました。4年制へ入っていた人も、5年制へ行きたい人は5年制へ行けましたし、5年制へ入っていた人でも、4年で卒業できたのです。
私は5年で卒業したのですが、女学校の校舎も焼けてしまったので、各自家で机を作って、軍需工場の寮の一部屋で座って授業を受けました。そのあとは地区によって分けられ、小学校の一部を借りたりしました。何か本当に勉強ってあまりできなかったように思います。5年を卒業しても、新制の大学に行こうと思うとあと1年足りないのです。6・3・3制になりましたので。
四日市高等女学校に1年間の特設科が出来るということだったのです。新制の大学に行こうとした人は特設科に行こうと思っていたのですが、4月になってから三重県には特設科が認められなかったことが知らされました。5年生の担任の先生から、名古屋に特設科が認められた学校が7月から募集するので、受けてみなさいと言われて名古屋の学校まで通うことになりましたが、結局は名古屋まで毎日通うのに途中で健康を害してしまい、止めてしまいました。そして、また何年か後に改めて名古屋の専門学校を卒業して教職につき、30年間勤めました。