女性(昭和4年生まれ、庄内地区在住) 

205 ~ 208

実家は地主

 実家もここ(嫁ぎ先)と同じ上野の在所で主人とは、はとこ同士の結婚です。父が応召になったので母達が私を近い所におきたいって言うのでね。兄らおりましたけど私は1人娘でしたので。そうやって近くへ置いてもらったで良かったけどなあ。私の実家は地主でな、大きな蔵があるんですわ。そこへ小作人の方が荷車で米俵を引いておいなさるのは私も覚えあります。


勤労奉仕

 鈴鹿高等女学校の2年生の時に、北伊勢飛行場の草刈りにも何度かちょこちょこと行きましたけど、もう続けて1週間も行ったこともなかったですな。2年生やで、まだようしませんしな。今の中学2年生くらいですでな。先生もみんなついて全員で行きました。飛行場には飛行機もずーっと並んでありましたでな、飛行機にも乗せてもらったり。作業中に見せてもらっただけですけど、飛行機なんて見たことなかったですやろ。2,3人ずつ交代に中を見学させてもらいました。兵隊さんはようけみえんだな。他には動員で行くまでは神辺村ってとこが亀山の西にありましてな、そこへ麦踏みに行ってな。田んぼらの手伝いにも行きました。


学徒動員

 鈴鹿高等女学校の3年生の時に四日市の三菱工場へ行って寮生活してました。三滝川を挟んで向こうに工場があって、こちらに寮がありましたんさ。女学校は入学の時100人くらいで入ったんですけど、戦時中は大阪やらから100人くらい疎開してみえて、2クラスやったのが4クラスになりました。その子達も一緒に寮生活してましたに。3年生になった途端に動員に行って1年間くらいおりましたな。四日市の空襲で寮も工場も焼けたもんで、家に帰りました。それからは残務整理っていうか片付けのために、加佐登から通ってました。

 軍需工場ですので兵隊さん管理ですやろ。食事もあんまり貰えませんし、日曜日に家に帰るとおにぎり貰ってくるんですけど、工場に持ってって戸棚に入れといてもみんな没収されたりなぁ。部屋に鍵もついてませんし。寮の食事も大根飯とかソラマメの飯とか、本当に戦時中の食事でしてさ。日曜日は汽車で加佐登駅まで来て家に帰って来ましたな。家は百姓してませんし、食料不足でしたやろ。カボチャのぜんざいとかな。それでも腹いっぱい食べて、喜んで帰りましたわ。それも母が難儀して手に入れてきて作ってくれたそうですわ。


父親の出征

 昭和の17,8年やったと思いますけどな。私がお風呂焚いとったら出張所から召集令状を持ってみえまして、私が受け取りました。昔の庄内役場の方で、その方は助役さんやったと思います。父も「ああ、来たか」って言っただけでさ。お父さんは37歳でしたでな。召集令状はピンクの葉書みたいでした。「召集令状」って書いてあるのは私もよう覚えあるけど、他には何が書いてあったか。(召集令状が)来たら「こんなとこよう行かんわ」とは一言も言いませんでしたな、お父さんも。「誰が行くか」ってことを今やったら言いますけどなぁ。そんなこと絶対言いませんでしたな。母も「家におって」とも言わんだし。もうやっぱり義務みたいなもんでしたんやろなぁ。「何にも言うたらいかん、憲兵がどこにおるかわからんで」って母に言われましたな。令状来てからは4日くらいでしたな、役場やそこらへ挨拶回りしたり、仕事の整理に行ったりして日が経ってしまって、出征していきましたなあ。あっという間でしたなぁ。

 召集令状が来た時はもう父は市役所へ行ってた頃だと思います。加佐登の役場から市の方へ転勤になりましてさ、農林水産課長になって喜んでましたの。喜んで喜んで、服拵えてさ。そしたら召集になりましてな。市役所に行ってたのも束の間でしたな、すぐ応召になってな。出征の時は家の門先で村の人が送ってくださるし、庄内の役場へ行って庄内の人にも送ってもらって。私らは行かんかったけども親戚の人は亀山駅まで送ったみたいです。もうお父さんの行く頃は小学校もそんなに旗振って送りに行ったりはしませんでしたな。支那事変の頃はありましたけどな。大東亜戦争になってからは厳しかったでか、もうなかったな。

 父の戦死の通知は2回くらいきましたに。村中でお葬式してもらって、そしたらまたきまして。またお葬式するわけにもいかんしなぁ。子供の頃やったけどおかしいなぁと思いました。戦争で混乱しとったんかなぁと思いますな。厳格なお父さんでしたけどな。あの時はそんなに、記憶にないですわ。死ぬとも思わんし、外地に行くとも予想もしてなかったですしさ。兵隊に行くのでみんなに万歳万歳で送ってもらっとるし。だんだんさみしさは、年重ねてきましたらなぁ。父は昔から兵隊さんで身を立てようと思うぐらいの人でさ、若い時から現役で帰って来た時も将校になってきましてさ。久居農林あがって兵隊の上の学校へ行ってまして。兵隊さんが1番良い時代でしたので、兵隊で身を立てようと思ってたみたいですな。その後加佐登の役場へ入りましてさ、軍とは無関係でおりましたけど。


兵隊さんとの交流

 戦時中は兵隊さんが時々、家にも遊びに来てみえてさ。日曜日にはサイクリングに行ったりさ、親しくさせてもうとったけどさ。終戦と同時に帰りなして。岐阜の方でした。陸軍の方ではありましたけど、どこの部隊の方かってのは知りませんわ。詳しく聞きもしませんだしさ。無関心やったんやな、子供やったし。

 その方が、山の方に穴掘って何か埋めてみえたんやけど、何を埋めてみえたんかは知りません。見せてもうたことないし。多分爆弾やろね。終戦後、掘り出して持ってかはったですでな。隠してましたんやろな。せやけど、終戦後なんやか出して持って行かはったってことは聞きましたけどさ。


終戦後の生活

 玉音放送は家のラジオで聞いたような覚えがありますけどな。終ったことを聞いてホッとしました。「お父さんもこれで帰ってくるわ」って思ってなぁ。終戦後やもんなぁ、戦死の知らせがあったのは。みんな帰って来るのを待ってましたんやけどな。

〔洋裁で身を立てる〕

 卒業後、1番始めは裁縫習って、それから佐久間の洋裁学校へ1年。師範科までいきましたかなぁ。お花や洋裁を習いに亀山へ通ってました。お母さん1人やったけども十分にさせてもらいましてさ。お父さんがおらんでもなぁ、母が頑張って十分してもらったって思って、母に感謝ですわ。

 もうそれからは家で洋裁して近所まわしの子供の仕立て物してました。それで自分のお金にして洋服買ったり、洋裁習いに行く月謝にしたりしてました。今の7,80歳近い人のハーフコートやら男の人のカッターやらそんなん。もう一生懸命仕立て物しました。お父さんがいないので自給自足ですな。もう夜通し洋裁しとる時もありました。旅行やなんやっていうと子供らはみんな持ってきますやろ。ハーフコートってのが流行った時期でな。ようけ近所まわしの人のをやらせてもらいました。結婚してからは自分の子供の服作ったり、子育てに専念してました。

〔農地解放で百姓を始める〕

 農地解放で田んぼ持てるだけ持って百姓始めまして、他は安く買い上げになりましたけどな。ここへ来てからですな、サツマイモを私が作ったのは。実家では米ばっかり、畑は作ってませんだでなあ。ここには昭和26年の春、来ましてな。自分の家では白米って作ってなかったもんでさ、ここへ来て白米のおいしさがわかりました。ここのおじいさんが百姓してみえて、来てすぐから白米よばれましたやろ。ここへ来て白米のおいしさが一遍にわかりました。

〔戦後の発展について〕

 ここらではあんまり変化ってのはなかったですなぁ。でもここらの人も、ようけ本田の従業員に行きなしたで。私らよりちょっと若い方はみんな、本田の下請け工場とかそこらに行きなしたわな。働く場が出来ましたわな。ここらは平田のような経済力はないけども、道路も良くなったしな。戦時中のことを思えば幸せな日送りですわな。


遺骨収集団

 兄が昭和49年に遺族青年部で1か月間、ジャカルタの方に行きましたんやけどな。厚生省に母が一生懸命お願いして、どういう風かしらんけど、それに選んでいただいたみたいです。私らは兄を見送ったけど、厚生省の寄り合いやらなんやらあって、羽田から発ってくのに3晩くらい。兄のお嫁さんと2人で行ってさ、九段会館で3晩くらいおりましたな。私らも九段会館から出られやへんしさ。あの頃はまだ成田空港がなかったですからな、羽田から発って行きました。それで送って帰ってきましたけどな。母は自分が行きたいくらいやで一生懸命になりましたな。「私が行くのや」ってさ。みんなで抑えて兄が行きましたけど。母は「お父さんとこへ私が行く」って言って聞きませんだ。会いに行きたかったんですな。父に召集令状が来た時、母はまだ仕事から帰って来てませんでしたと思います。その夜帰ってきて、私と兄とおばあさんと。お父さんも令状来たので帰ってきてましたんかな、勤めてましたでな。お父さんがおいでんってことは子供ながらに辛かったですわ。我慢しとって何にも言えませんしな。お母さんもそれでも強かったですな。お金に困ろうともえらいとかそういうことは絶対言いませんでした。「召集になるし、先生を辞めてこの家を守りなさい」ってお父さんが言ったもんで、勤めてた学校もすぐ辞めて。そして父は2か月くらい福井の連隊へおりました。それでそこへついて行って、宿とって。朝3時頃にお父さんが発って行って、それを見送って帰って来ました。父は将校でしたんで外泊ができたんですな、毎日。一遍家族でも行きましたけどな。


記念式典

 武道館の終戦記念日に行ったんもさ、津の方と一緒になって鈴鹿市から2人行きましたんやわ。平成11年8月15日です。遺族会でな。鈴鹿市の遺族会に私もずっと入ってな、ここらの世話方もしてましたもんでな。なかなかそれがなあ、当たらしませんのやわ。やっと当って、母も喜んでさ。もう母は行ける歳やないし、私が行きましたけどさ。なかなかあそこは厳しいですに。12時にやりますやろ、朝の9時に武道館入って、ずーっと警備の人が2,3メートルおきに立ってますやろ。9時に入って12時の式典までずーっと座ってます。厳重ですな。天皇陛下もみんなおみえになるしさ。それは厳しかったですに。日本中から来てますよ。 

[小川真依]

昭和30年頃の市役所(鈴鹿市)