航空隊での運動会
小学校の低学年から5年生くらいまででしたかね、海軍記念日に運動会があってよく行ったんです。兵隊さんも参加するし、私らの代表者も参加して。みんなが出ませんけどね、よく走る人とかが選抜で出てたんです。私はまだ小さい時ですから、どこの人が出てたかは確かにはわかりませんけど、栄小学校からもみな団体で歩いて行きましたもんね。広い所で運動会しました。戦時中でね、終戦間近になったらもうそれどこじゃありませんので運動会も何もないですけど。
兵隊との交流
陸軍の将校さんがみえた覚えがありますわ。藁の人形なんかで居合い切りしてみえましたね。私らはちょっと覗き見しに行って。怖いっていうよりも、兵隊さんっていくつも年上の人に思えて、国のために尽くして下さる人やと思てますもんで、そんな怖いやらなんやらっていう感情は全然持ってませんね。刀で人形切ってました。今やったら大変ですに。でも昔は普通やったんとちゃいますか。こちら(栄)は予科練さんやで、今から思えば、まだかわいらしい、高等学校へ入るか入らんかくらいの方ですけど。その当時は立派な兵隊さんって思ってましたけどね。予科練の人達も栄の小学校に住んでて、お風呂がないもんですからね、私の実家にも毎晩、お風呂入りに4,5人みえましたわ。この村でお風呂に入れてあげよっていう有志の家だけでしょうけども。鈴鹿の航空隊からは将校さんも、予備学生さんですかね、短刀下げて帽子かぶって。そういう方もみえました。決まって日曜日になると、その予備学生さんが航空隊からみえます。私の家にもそういう人が来てみえて、おばあさんが可愛がっていました。私はもう小学生の高学年でしたけど、弟なんかはまだ、ぶーぶーって言ってる頃でしたので、抱いてもらって膝の上で遊んだりしてましたけどね。食べるものもない時なので、わたしらはもう我慢、我慢でしたけど、祖母は何でも兵隊さんのためにってしてましたわ。
出征兵士の見送り
みんながね、小学校の低学年から高学年まで全部が日の丸のこんな紙の手旗をいつも机の中へ入れとるんですわ。それ持って「今から出征兵士送るのに磯山の駅まで行きますよ」って、先生に引率されて行くんですわ。全部が並んで「勝ってくるぞと勇ましく」って歌ったことは忘れませんけどな、そうやってして磯山の駅まで行きましたもん。稗田の人が出征するにしても栄村の村長さんから、婦人会から、在郷軍人っていうんですか、そういう人達も何から何まで、どんなに忙しくっても出て行きましたに。村長さんが「お国のために出て行くんやから、みんな元気に送り出してやってくれ」って。もう1週間に3,4人ずつは送りましたに。村長さん達も心から嬉しいと思って送り出さんだとは思いますわ。もう戦局はわかってますね。負けるやなんやっていうのは思いませんでしたけど。夏休みの宿題は日本軍が占領した島へ日の丸をつけて、そして勝った島の名前を書いていくとかそういうような宿題ばっかりでした。そやけど、なんかおかしいなぁ、おかしいなぁぐらいは感じてましたもんな。
叔父の出征と戦死
ご飯食べてましたらな、叔父が「えらいことや、きた、とうとう」って入って来ました。そしたら「えっ」っておばあさんも父親もびっくりして箸落しましたに。叔父が召集されて行ってからは、軍隊がどこにおるってそんなの秘密ですけど、うまいことツテを辿って祖母や父や叔母は面会に行って。おはぎの好きな叔父やったもんで、おはぎ食べさせてきたわって叔母が言ってました。それが最後でした。
叔父の戦死の知らせが届いた時は、多分私は学校に行ってて、家にはいなかったと思います。父親はね、自分もいつ召集令状がくるかわかりませんし、学校へ訓導で行ってましたから、そんなとこは見せませんでしたけど、祖母がね。私は祖母の隣の部屋で妹と寝てましたんやけど、夜になると泣き声が聞こえるんですわ。それは覚えてます。「なんで死んだん?」って。涙なんて見せたら国賊でしたもんな。
もう終戦になって、10年以上経った頃でないと本心は聞けませんでしたけどね。叔母が家の畑に仕事しに来てて、その時に聞いたんです。「おばさん、どんな気持ちでおじさん送った」って言ったらな、「もう何でもいいで、何にしがみついてでも帰ってきて」って叔父に言ったって。立派に死んで来いなんて、そんなん嘘です。「でも人の前ではニコニコ笑ろてお国のためですわ、って言わんなりませんけども」って言ってね。叔母も涙こぼしてました。終戦になって、私がここへ嫁いでからですから、しばらくしてからですけどね。こんなこと戦時中に憲兵に知れたら大変なことですもんね。ニコニコ笑ろて「お国のためで、名誉なことですわ」って言うて。おばあさんも毎晩、夜になると泣いてましたけど。私が今、自分の息子がそういう風にして出てったら、どんなんやろと思いますもんな。
戦後も苦労はあったと思いますに。叔父が戦死した時、叔母は27歳。27歳から1人の子供頼りにずっときてましたんやで。叔母も農家で。この村はみんな農家でしたんやわ。全部二毛作で夏も冬も。男手がないですから、仕事も苦労してたと思いますよ。私の実家から母親も父親もおじいさんも、全部含めて叔母の家の仕事を先にせんことには、自分とこの田んぼにかかれません。叔母さんの家を片付けてきて、それから自分のとこをする。もうそれが当たり前みたいでしたに。それくらい大事にな、みんな助けてましたんやろ。
予備学生の出征
急にきますんやってね、命令は。私の実家の方に、予備学生の方が3人来てたんですわ。そしたらね、1人の方がね。1番体格のいい人が突然来なくなったんです。おばあちゃんが「あの子どうしたん」って聞いたら、「昨日突然に飛び立って行きましたわ」って。特攻隊でしょうね。もう1人の人が「僕もいつ出るかわからんけども、上空で旋回して翼を振ったら僕やと思って」って。それから2,3日、おばあさんは空ばっかり眺めてましたもんな。叔父さんが行った後ですから、自分の息子と重ねとったんやと思いますよ。
食について
食料はね、農業しとるおかげで。今みたいに贅沢な生活はできませんけども、食べるものくらいはね、自給自足で食べてたんやと思いますよ。お弁当は白いご飯を詰めてもらって。私は2年くらい津の学校へ通ってたんですわ。ドレスメーカーへ。その時にお弁当は白いご飯を詰めてもらって。おかずは梅干しとか卵焼きとかちょっとしたもんなんです。そこに医者のお嬢さんやらいましてね、ご飯は麦飯なんです。おかずはカマボコやら海老なんやらいろんなもの入ってて。交換して食べるんですわ。