吉田吉文さん(昭和4年生まれ、椿地区在住)

212 ~ 214

学校卒業後、志願兵に

 生まれは鈴鹿郡椿村ですな。家は農業です。昭和11年に椿尋常高等小学校に入学して6年生、高等1,2年と8年間通学、卒業したんやな。それですぐに志願兵で海軍航空隊の飛行予科練習生やな。1年半くらいやったか。航空隊で転々と変わりましてな。最初は山口県の防府海軍通信学校。卒業の時、6年生から高等2年まで受け持ちの先生に勧められた。「海軍飛行予科練習生に志願するか、満蒙開拓義勇軍、どっちか決めよ」って言われて。同級生でもう1人同じように海軍に志願しましてさ。もう戦死しました。


海軍へ志願

〔海軍通信学校へ〕

 海軍航空隊へ志願して、防府海軍通信学校でギュッと絞られましてな。厳しい訓練もありました。モールス信号、それから手旗、それからボート漕ぎのカッター、それから遠洋航海っていって、太平洋を泳ぐのな。30人くらいおったのかな、1班、2班って分かれて。6班あったかな。訓練の中で、1人のミスも全体の責任になる。「整列っ、股開けっ」って両手を挙げてさ、尻をバットで叩かれる。それから甲板掃除な。「よーい、始め」ってモップで甲板掃除。それから吊り床、ハンモックを吊るの、船やでな。兵舎があってな、吊れるようになっとる。それも遅いといかんしな。

 その時、中学校卒業の人もようけおるのに、私、何でか30人の中の班長に任ぜられまして。私は高等2年やろ、なのに私やらされてさ。それが面白い話がありましてな。食事の時に2人ずつ食事当番ってありましてな。ずっと食器に盛ってきますやろ、それで自分の場所は山盛りにしますのやわ。それで終わると「みな終りました」って言ってきて自分のとこへ座るやろ。そしたら私が「今からわしの言うこと聞け」って言ってな。「3つ場所を移動しなさい」って言ったの。そうやってな、上官から教えてもろたん。するともうしやへんで。

 通信学校やで、モールスと暗号を両方教えてもらって。それから受信して通信兵が持ってくるのを翻訳するの。翻訳して文章を書いて、上官とこに持ってくんですよ。それでな、翻訳する時にな、いい加減な受信して1字でも間違えとると、変な文章になりますね。「敵戦闘機何発見える」とかな。「何発」っておかしいなってなるでしょ。その番号のとこ見るとな、1字違いで「何機」になるんですよ。難儀しました。責任重大でしたよ。あと暗号書がありましてな、丸秘、極秘、1番大事なのが軍極秘って3つにわかれとる。その暗号書には文鎮が付いてます。もし軍艦が沈んだ時に浮かばずに海底に沈むように。浮いてきたら敵に解読されるで。

〔松島海軍航空隊で暗号兵として勤務〕

 そうこうしとる内に、「松島海軍航空隊へ転勤せい」って言われてな、転勤しました。当時15,6歳ですからな、案外一般の民家の人が親切にしてくれましたわ。松島海軍航空地でいろいろ実践しました。モールスで送ってきたやつを翻訳して上官のとこへ持ってくと。毎日それをしとったわけですな。夜になると外泊があるんです。3,4人ずつ一緒に普通の民家へ行ってな。泊りはできやんだけど、外泊って言ったな。大体行く家は決めてますもんでな。すると「よう来てくれた」って、ジャガイモの茹でたやつをな、出して食べさせてくれた。それがうまかったですわ。時間は決まっとるもんで、その時間までに兵舎に帰らないかん。

〔香取海軍航空隊へ転勤〕

 それから千葉県の香取海軍航空基地ってとこへも行って、いろいろ通信のやりとりをしてさ。そこでは、毛布を干す日があってな、その番しとったら、上から敵の飛行機が来てさな。急降下して射撃。端におった人は死にましたわ。私は大丈夫でしたけどな。危なかったです。戦争には行きませんだけど、敵機が来るっていうんやから大分終わりの方やわね。そしたら20年の始め頃かな、噂で「どうやら日本負けるみたいやぞ」っていう話を聞きましてな。それで、私は三重県の鈴鹿市の出身で近くに航空隊があるで、転勤させたろかなって上の者が思ったんと思いますわ。「吉田、お前、鈴鹿海軍航空隊へ転勤するで」って言って。千葉県や松島におったら第一線に出てかんならんかったかもしれませんな。それで鈴鹿の海軍航空隊へ来ました。大変厳しい軍隊生活。階級は海軍飛行兵長でした。国のために一生懸命頑張りました。楽しい事もたくさんありましたな。


鈴鹿航空隊へ

〔玉音放送〕

 鈴鹿海軍航空隊では、江島か玉垣かどっかに山があってな、防空壕へ入ったことがあります。その防空壕で天皇陛下の玉音放送聞きました。ラジオ持ってとったんやな。そしたらみんながもう、残念でさな。話しとった。「戦争に行って国に命を捧げた身やでかまわんけども、命を無駄にするなよ」って上の人が言ってくれました。「お前らは若いんやで」って。もうその時にはわかっとったんやな。玉音放送が終わった時に。防空壕から出てきて、負けたで敵も来やんって。そこでいろいろ雑談しましてな。考えようによっては命をさな、大切な命があるんやで、これからその分頑張ればいいわさ、って。軍歌を歌いたくりましてな、予科練の歌を。酒持ってきてましたわ。

〔アメリカ兵との交流〕

 航空隊にアメリカ兵おったな。1つトランプを貰うた。トランプなんて私ら見たことないでさな。神経衰弱やら、7並べやら教えてもらった。アメリカ兵は片言の日本語でしゃべってくれたよ。それからチョコレートやらタバコやら貰いました。「怖いぞ、アメリカ兵」って言われとったけど、何も怖くない。噂でな、「負けたらもう生きておれへん、みんな殺されるぞ」ってさな、そういう話を聞きましてさ。アメリカ兵に初めてあった時は業湧いたけどもしゃあないわな、仲良うせんとな。接してみたら、実際は怖い人間ではなかったしな。


戦後の生活

〔航空隊から家へ帰る〕

 終戦になってからもだいぶ航空隊におりましたわ、半年間か1年くらいおったかな。暗号書の処分とかしたかな。それで、いよいよ除隊っていうのか、家へ帰れっていう命令がでました。そしたら桑名の人間で私の戦友がおりましてな、「落下傘1つもろてこか」って言ってな。塀がありましたでな、「俺が落下傘を中から外へ出したるで、外でお前拾えよ」って言ってな。友達が5,6人おったかな、1つずつ貰っていきました。いっぱいあったわけです。

 そして落下傘担いで帰ってくる途中に梨畑がありまして。そこに友達と「梨を貰いに行こか」って行ったらな、「お前ら、兵隊さんやでな。ええぞ、貰ってきな」って言ってもらって、ようけもろて来ました。それで梨と落下傘を持って、家の方へ歩いて来たんやさ。そしたら、途中でな、父親の知り合いが「家帰るのに乗せてったるわ」って声かけてくれて、馬車へ乗せてくれました。もう亡くなられたけども、親父と連れやったんやな。馬が歩くのやで、遅いですけど、歩いて来るよりそりゃ楽ですわな。それで何年ぶりに家へ帰ってきたらさな、お袋が泣いて喜びましたわ。私を筆頭に兄弟8人おりますのやわ。その時、親父も兵隊で行ってますでな。お袋1人でしたんやわ。家も何にもないもんで、落下傘を米とか麦に換えてもろてな。私らを食わしてくれたんやな。落下傘はすごい大きいで。8畳よりもっとあるし、紐もあるでな。喜んで買うてくれはるって。落下傘は助かりました。

〔生計を立てる〕

 帰って来てからは難儀したんやに。しばらくは農業しました。元々農家ですけど更に荒れた土地を開墾して、土地を貰って。そこへサツマイモ作って食べた。肥料もないし、開墾したばっかりは土地も痩せとるで、大きなイモは採れませんわ。それでも食べる物がないので、イモの蔓の軸も食べた。籾の煎ったのとか、小麦の煎ったやつも。主にサツマイモでしたわ。私達はサツマイモで命を繋いできたわけや。それからサトイモも作りだしたな。それから一時、売るためにグラジオラスって花の球根を作りました。それから煙草の葉も作りました。それから私は土方にも行って、山に木伐りにも行った。それから、なんやらかんやらといろいろしました。金儲けせんとあかんで。ようけ兄弟おるし、お袋1人で親父はまだ帰ってこんでな。昭和25年に椿郵便局長さんに「お前、局へ来んか」って呼んでもらいましてな。郵便局へ入れてもらいました。それから21年間勤めてました。いろいろ事情もあって辞めたんですが、また隣の人が「道路公団来んか」って誘ってくれて。そこの料金所行って、百姓もしてました。それで生計を維持しとったんやんか。下の兄弟達は、あんまり農業をせんと勤めに行っとったでな。

[小川真依]