長嶋幸夫さん(昭和5年生まれ、白子地区在住)

219 ~ 221

軍人との交流

 私は江島で育ちました。母親は昭和19年に亡くなったんです。今ならすぐ治る病気やったんですが、戦争中でしたから薬はない、病院はない、医者はおらんでね。それまでは母親も元気でした。日曜日になると兵隊さんが外出するでしょ、親父が海軍の元職業軍人でしたので自宅を休憩所としてまして、母はお茶出しをしたりしてました。昭和18年くらいだったかな、母親が海軍びいきでしたのでご苦労さんってことでね。何もなかったけど、畳の上でゴロンと寝てたりしてましたよ。当時はそんな家が何軒かあったの。口コミであそこやったら行けるぞってことで海軍さんが遊びに来てね。だから、うちには5,6人から多い時には10人くらい遊びに来てました。古い家やったけど広かったからね。もちろん泊ってくことはないし、海軍さんに出せるご飯もなかったからお茶出すくらいでしたけど、ゆっくりできるのが嬉しかったみたいでね。昼から17時頃まで4時間ぐらいいました。私も海軍さんから戦争の話を聞いたりしましたよ。もちろん戦況の話はなかったですよ、訓練は大変とか、お国のために頑張ってるぞとか、お前も大きくなったら予科練に志願しろとかそんな話でしたけど、それを聞けるのが子供心にとても楽しみでした。それと、ある時に兵隊さんにお茶を出しに行ったら小さな果物の缶詰を1つくれてね、それが嬉しくて嬉しくて今でも忘れられませんね。なんてったって戦時中は食べ物が不足してましたから、私の家ではいつも芋粥ばっかりで、時にはサツマイモの蔓を煮ておかずにしていたくらいです。食べざかりの頃にそんなことでしたので常時空腹でした。それが一番辛かったです。

 うちの母親は愛国婦人会の会員でしたから、出征兵士を白子まで小旗や提灯持って見送ったりしました。そうはいっても支那事変まででしたけどね。赤紙が来ると回覧版で回して婦人会の人、12,3人くらいが駅まで送ってくわけです。行ってきますって敬礼してね。そんな姿を見て、私も兵隊に憧れました。でも、太平洋戦争になったら見送りもだんだんなくなって、知らんうちに出て行ってましたけどね。

 兄貴が出征をした時は、1回ハガキが来たきりで、その後2,3年は何にもなしでしたから母親がえらい心配してました。死んどんのか生きとんのかわからんでしょ。母親はそれを案じて死んでいきました。兄貴は、結局、終戦後帰ってこれて良かったんですけど、痩せてヒョロヒョロの青瓢箪で帰ってきて、3か月くらいは仕事ができませんでした。食糧事情が悪かったんでしょうね。


中学校での生活

 昭和17年の4月から神戸中学に行ってました。その時は日本も勝った勝ったでえらいことでしたよ。口頭試問で「東条さんみたいな偉い人が総理大臣になって日本は幸福ですわ」って話をされました。でも、ミッドウェーで負けて日本も戦局が悪くなってったでしょ。1,2年生の時は勉強もしてましたけど、3年になりましたら動員になったんですね。私は三菱航空機製作所に行って零戦の整備をしたんです。零戦っていうたら初めはトップクラスの飛行機でしたけど、最後はグラマンにやられました。アメリカの戦闘機はゴムを巻いていたから一発当っても跳ね返すんですわ。向こうは飛行機より人命が大事だって考え方でしたけど、日本は人命よか物が大事だって考え方でしたからね。兵隊さんの中には銃剣やら鉄砲やらをなくして自殺した人がおりましたしね。帽子でもなくすとえらいことで、他人の盗んだりするんですよ。

 中学校では神中の帽子を被って、配属将校から教練を受けてました。私の時には陸軍中尉が3人来てましたね。教練の成績が悪いと上級学校には行けなかったんです。59点は赤点です。赤点になると落第ですから、教練が一番大事な教科でした。落第する者も5,6人いましたよ。病気は絶対駄目でしたね。教練自体も大変でした。重たい鉄砲を持たないかんもんで、私みたいに力の強いものだったらよかったけど体の小さいもんはつらかったでしょうね。匍匐前進なんかがあるとドンゴロスの服がすぐ破れて、うちの母親が「また破ったんか」って言って当て布をしてくれました。昔の服は雑巾みたいなもので、みんなそこら中に当て布がされてたんです。

 戦後、兵隊から帰ってきて勉強してる者もおれば辞めてく者もおりました。だってね、兵隊に行って高い位貰ってても中学校に帰ってきたら扱いは私らと同じですから。それに、もう酒やタバコもやってるでしょ。そんな人らはあほらしいって言って来ませんわな。もちろん、また勉強したいってことで帰って来た者もおりましたよ。私が中学2年生、16歳の時ですね、その時には兵隊から帰ってきた20代や30代の同級生もおったんですから。途中で兵隊に行ったら卒業証書は貰えやんでしょ。

 まぁ、勉強するったって大してできませんでしたけどね。戦時中は学徒動員でしたし、戦後になっても黒塗り教科書でこれは教えたらいかんばっかり。おまけに体育館・生徒館は旋盤が置いてあって工場となっていて、校庭はサツマイモ畑になってるしでね。


学徒動員

 中学校3,4年生の時には学徒動員で三菱航空機製作所に行きました。私はまだ恵まれた方で、ドラム缶工場に行くやつもおりましたからね。同学年150人が3つに分かれてましたから、三菱の製作所には50人くらいが動員になって、その中からまた数人が1つの班になって工員の下に付いて働くんです。私らの作業は、戦闘機(零戦)を軍に渡す手前の、一番最後の整備でした。初めの一週間ぐらいは整備の基礎を教えてもらって、初めて聞く話や道具にわくわくしましたね。整備自体はエンジンかけておかしくなってないかとか、油が足らんだら差したりとかして点検した後に各地区の航空隊に渡すんです。戦闘機からエンジンをはずしたりするとね、小さな部品で手を切って切り傷が出来たり、ガソリンとオイルの臭い匂いがついてとれなかったですね。そうやって整備した戦闘機は、1機では行かんけど、5,6機くらい集まると九州の方へ飛んでくんです。私もそれを「あぁ、整備した飛行機が飛んでったな、敵機のグラマンをやっつけて下さい」って思って見てたのを覚えてます。

 でもね、私が入ったのは負け戦の時で、昭和20年の6月頃には整備する戦闘機もほとんどなかったですよ。班には工員が4人くらいと私ら学生が4人くらいいて、初めのうちは工員にあれ持ってこい、これ持ってこいって言われて働いておったんですが、6月から8月の頃は、班長に「することないから、お前ら遊んでこい」って言われてね。何のための動員かわかりゃしませんね。そしてグラマンが来ると飛行場の裏の山にみんなが逃げたんです。当時、零戦を改良した烈風っていう試作機の戦闘機1機があって、これが大量生産できれば勝てるって言われてたんですけど、それがグラマンの機銃掃射にやられたんです。三菱がどえらい力入れてた戦闘機で、確かに性能は良かったんですが、それもやられたらあきませんわな。その時は滑走路で整備してて、私らもいい戦闘機やなって見に行ってましてね、そこをやられたもんですから、奇跡的にも難を逃れて良かったです。そうでなければ今頃はここにいませんからね。

 ただ、この1年5か月学校の方はどうなるやらお先真っ暗で、勉強する意欲は疲れ果てて全くなく家に帰ると貪る様に眠りました。冬は寒風吹きっさらしの中を、夏は焼けつくようなジュラル反射の中を、ただ勝つためにと無我夢中で頑張りました。


戦後の思い出

 玉音放送は自宅で家族と一緒に聞きました。でも、ラジオがジージーいってるだけでなんて言ってるかわかりませんでした。その後、戦争に負けたって事がわかっても「そんなばかなことはない」って信じられませんでした。もうがっくりきてね、何のために頑張ってきたのかわかりませんね。中学校の頃は、神の国は負けるわけないっていう頭でカチカチでしたからしばらくは信じませんでしたけど、B 29、グラマンなど敵の飛行機が飛ばなくなってやっと負けたんだって思いましたね。親父は元軍人でしたから、負けるってことがわかってたのか何にも言いませんでした。これから日本はどうなるんやろなって言ったぐらいだったかな。

 戦後にね、大切にしていた零戦を4,5機ずつ集めてアメリカが爆破しているのも目撃しました。終戦間際でも大事にしとった戦闘機がまだ40機ぐらい掩体壕に隠してあったからね。最後の決戦に使うからって大事にしてたのを引きずり出してドカーンドカーンって爆破してるんです。私らが一生懸命整備したのをそうやって爆破してるのを見たら涙が出てきてね。あれはもったいなかったな。アメリカは要らんのかなって思いましたけど、もっと優秀なんがあるんだからそんなもん要りませんわな。

 戦後は飛行場が民間にただかそれに近いぐらいの金額で払い下げになりました。格納庫の前、NTTの南側全部でした。土地なんて当時は貰ってもしょうがなかったから農業する人ぐらいしか貰わなかったけど、あの時にようけ貰った人は良かったでしょうね。

 親父は戦後に市役所、白子出張所に行って、私はすぐに検察庁に入りました。事務官でしたけど、終いには検事の権限ももらいました。交通事故、交通違反とか簡単な窃盗とかしか扱いませんでしたけどね。

[杉山亜有美]