中川太郎さん(昭和5年生まれ、白子地区在住)

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航空隊の建設

 私は昭和5年に白子で生まれました。家業は風呂屋(銭湯)でした。私が生まれた翌年、昭和6年から父が始めたそうです。稼業は主に6つ上の姉が手伝っていました。

 航空隊が昭和13年に出来ましたでしょ。その建設に1000人位の土方の人がやってきて、それは賑やかでしたよ。航空隊が出来る前は、白子駅から向こう(西側)は、ずっと田んぼでしたに。雑木林を開拓してな、水原新田と言ってましたな。それをトロッコで土方の人が砂やらを運ぶんですよ。1200反の田んぼを潰したんですに。土方に来る人は東北の人と韓国の人が多かったようですな。水野組とか但馬組とか鴻池とかに雇われて、白子の空き家に入ってました。土方は1日に1円、女の人は芝張りに25銭貰えたそうです。当時の白子の町長は、後年、「もっと白子に近いところに航空隊を作る予定やったが、白子の反対が多くて、旭ヶ丘は当時3軒しか家がなかったから、あちらに行かれた」と言っておられました。

 海岸へ行く白子小学校の前の通りはね、海軍が出来るときに、強制的に広げられました。元は細い道でしたけど、海岸兵舎に行く道ですからね。大きな家がたくさんありましたのに、気の毒でしたに。白栄座は終戦3日前に「空襲があったら危ないに」と言って、みんなで引いて壊しました。観月堂さんやたみやさんもみな壊しました。あそこの道も広いですやろ。


航空隊員との思い出

 それで、航空隊が出来ると、兵隊さんが3000人と来はりました。うちには、九州の大分から来られた人が2人おられました。その日は夕方でな、到着したばかりのおふたりが「今日はもう暗いから泊めてくれ」と来られて、「どうぞ」と言ったらそれで2年間おられました。妹が産まれて、家が手狭になったので「あんたらどっか替わって下さらない?」と母が言って、他の家に替ってもらったようです。兵隊さんは白子の町にたくさん下宿を持っていましたに。

 お風呂には、航空隊の人達や町の人達合わせて1日に1000人と入られましたな。最後はすごい垢が浮いててね、掃除も大変でした。シラミにノミに蚊、最悪でしたよ。あの人が使ったカゴの次に入れるとシラミつくとかね、いろいろありましたな。石鹸はとられるので、みんなが頭に巻いて入ります。

 青龍寺さんにも兵隊さんがおいでなして、夜演習をされるんですよ。あるひどい嵐の晩に、「お風呂待っとってくれ」と言うんですよ。演習すると汗かくでね。それでも、あんまり遅いんで、父が青龍寺に様子を見に行ったら、ちょうど演習が終わったところだったそうです。そういうことはよくありましたな。

 空母赤城が伊勢湾に来たこともありまして、その兵隊さんがみんなお風呂に来ました。船の中は鉄ですやろ。暑くてみんな汗疹になっていてね、お風呂に入ってもらって、姉達がテンカフ塗ってあげたら、その後、横須賀からね、戦争中にこんなのあるのかって思ったんですけど、缶入りのお菓子が届いたこともありました。

 当時は物がないから、海の水を汲んで炊いて塩を作ったり、そんなしていろいろ作りましたけどな、お風呂の焚き物には困りましたな。うちは、航空隊の兵隊さんがお風呂に来られるから、航空隊で燃料を貰っていたんです。昭和17年頃からだったと思いますけど、航空隊の工作科に燃料を貰いに行ったりすると、兵隊さんがようけ包んでおいてくれて、「これを故郷に届けてくれよ。」と言うて、手紙やらを頼まれなした。断れませんでしょ。焚き物の間にそれを隠して、裏門の番人が怖かったけれど、持って帰って来てはようけ送ってあげました。

 その頃の食べ物は、ジャコに醤油をいれて、そこになんでもかんでもジャガイモでも沢庵でも何でも入れて食べました。百姓に頼んでも食べ物はなかなか分けてくれませんでしたが、魚は漁師の網引きを手伝うと分けてもらえました。それ以外は、着物を持って交換してもらってね、本当にタケノコ生活でしたに。西の山にイモを換えにいった帰りに、父が憲兵に捕まったことがありまして、普通はイモは取り上げられるんですけど、うちは風呂屋で航空隊出入の腕章があったので、その腕章見て「ご苦労さんです」って言ってもらったこともありました。

 楽しいこともありました。海軍記念日5月27日には、下宿の人なんかを兵隊さんが航空隊に招待してくれてね。飛行機の宙返りを見せてもらったり、ハンモックのたたみ方やらも見せてもらってね。ご馳走もしてもらいました。ぜんざいやら何やら美味しかったですよ。今の勤労青少年ホームはね、元は避病院やったんだけど、航空隊が出来てからは、兵隊さんが遊ぶ所になっててね。町には何にもなかったけど、そこに連れて行ってもらうと何でも売ってましたわ。

 兵隊さんは1週間に1回下宿に出てきます。兵隊さんは「娑婆にでる」って言ってましたわ。うどん食べたり、映画見たりね。白子中の商売屋はみんな儲かったようです。航空隊が来ることが決まって、幹部の方達は奥さん連れて移り住んで来られるっていうのでみんなようけ借家を建てたりもしてましたね。

 小学校の傍には、ようけ兵隊さんの下宿がありました。下士官の人達が蓄音機やらなんやらを近所の時計屋で買うてなぁ、下宿で聞いてるの。姉達は、帰りに寄らせてもらってな、道草して「愛染かつら」やなんやらよう聞かせてもらってましたわ。

 白子の女の人達は「白子の男に惚れるもんはおらん。鈴空の兵隊さんには惚れるけど。」ってよく言っていました。絹の白いマフラーなんか本当に格好良く思えましたに。実際に、航空隊の方と結婚された人も町内で何人かみえましたな。姉の仲の良い友人も航空隊員と結婚して、戦後はその人の地元について行かれましたわ。

 白子の海岸には、海岸兵舎ていうのがありまして、今の新紅屋橋の手前が兵舎の場所だったんですけれど、3人くらい交代で見張りの兵隊さんがおられました。巡視艇が伊勢湾をぐるっと回っておりましたな。とにかく白子の町は航空隊で賑わいましたよ。今でも懐かしく思い出します。


戦時下の生活

 南京陥落の時は7歳でした。みんなで集合して、万歳三唱してな、白子小学校から航空隊の正門までぬかるみの中を提灯行列したことを覚えています。

 その頃からですな、ボツボツと出征者が出たように思いますな。餞別は2円、おめでとうございますって持って行ったもんです。国防婦人会が前掛けして駅まで見送りに行きましたね。白子の駅に旗立ててな。航空隊の方は別ですに。町民の方の出征です。航空兵の方はようけお風呂にきてもらったけど、ようけ死んだわ。みんな死にましてんに。

 終戦の年は、尋常高等小学校の2年でした。今の中学2年生やな。学徒動員で楠の紡績工場で働かされていて、寮に入っていました。津の師範学校や神戸中学、河芸高女などからも動員にきていましたわ。6月18日の四日市空襲の時には、火柱が上がるのが見えましたに。四日市には親戚がおりまして、乳母車をひいて荷物を抱えて白子の実家にみんなで避難してきたそうです。7月24日の津の空襲の時には、南の空が明るくなっているのが楠の寮から見えました。朝日町の親戚の話ですが、朝日町からも空襲の光が見えたそうですに。私は楠の寮に入ってましたから、今晩はついに白子やろうかと思うと、実家のことが心配で仕方がありませんでしたわ。


終戦とその後の生活

 玉音放送は家で聞きました。天皇陛下がお生まれになった時に、野島屋さんからラジオを買いましてな。家にラジオがありました。前のお祖母さんがな、「なんか今日は重大ニュースがある言うて、聞かせてくれやん?」て、2階に上がってきました。朕がなんやらかんやらで、よくわからへんだ。でも、空襲がやんだんです。そんで、憲兵さんがお風呂にきますやろ、その憲兵が窯場にきてな、姉に向かって「西の山に逃げなあかん」て言うんね。「アメリカ兵が上がってきたら娘さんは怖いに」と言われたんですけど、私達は「西の山買うお金なんかない」言うて笑ってました。その日、見知らぬ韓国の男の人が遅がけで来てな、下駄ばきのまま女湯に入っていきましてん。戦勝国ですやろ。女の方が5,6人は入ってましたかね。出るに出られずに困っておったようです。それで、暫く経って出て行きましたけど、驚きました。

 終戦後は、学校に復帰しました。動員先の工場から帰ってきて学校に復帰するまでの間でしたが、家の手伝いで朝4時か5時頃に起きて、国道(現国道23号)を通って、神戸の龍光寺の前を過ぎて、平田の海軍工廠まで通いました。お風呂の燃料を分けてもらいに行ったんですわ。戦後は物資がなくてね、分けてもらえるならどこまででも行ったんです。海軍工廠では、爆弾を入れておく「鈴鹿海軍工廠」って書いてある木の箱を貰って来てね、それを壊して燃料にしました。戦争が終わったっていうのに、但馬や鴻池なんかが工廠の中で製材を作っててね、そんなんも貰って来ました。また、飛行機の輪(タイヤ)を航空廠で安く分けてもらってね、それで燃料を運ぶ荷車を作りました。飛行機の輪は小さいからちょうど良かったんですよ。でも、工廠から荷車をひいて帰ってくる時間はね、ちょうど学校の担任の先生が出勤するのに会うんです。それがとても恥ずかしかったね。

 航空隊の跡を開墾に行った人達もいましたな。開拓団になると、壱坪2円で貰えたんだそうです。開墾にいくと、航空隊で植えていた芋がもらえるでしょ。それだけでも羨ましかった。腹が減ってね、町の人みんなで航空隊が作っていた芋を取りに行ったこともあったんですが、威嚇で空砲を撃たれましたよ。

 昭和21年4月に、戦争が終わりまして初めて演芸会をしました。青年団が主催してね、海松館の芸者さんに踊りを教えてもらいましてね、姉達はみんな島田に結ってもらってね、勝速日神社と久留真神社で踊りました。中座を貸してもらって踊りをしたりね、みんなで演芸やりましたに。終戦の明くる年は、1度だけ龍源寺で盆踊りをしたこともありました。その時には、ようけの人が寄ってね、白子にこんなに人がおんねやなぁと思いました。

 戦争中は各家庭に燃料がないでしょ、だからみんな銭湯に入りに来ました。戦後の物がない時代もそうでした。それに、昔は家族の人数も多かったんで、銭湯の方が都合が良かったんやね。それも、だんだん世の中が良くなってきてね、家庭にお風呂を作るようになったんでやめましたな。

[代田美里]