女性(昭和5年生まれ、一ノ宮地区在住) 

225 ~ 227

 高岡山の麓、北高岡に生まれました。高岡山一帯は遺跡、神戸城の出城で知られています。山の麓を関西線と平行して伊勢街道が通っていました。街道沿いの20戸余りの集落が北高岡、その前方に鈴鹿川が流れ、高岡橋を渡ると南高岡です。

 山あり川あり鉄道、主要道路と当時としてはにぎやかな里でした。山ではワラビ採り、キノコ狩りをし、椎の実を拾い、野原や堤防ではツクシを採りました。また、鈴鹿川では橋の上から大人が投網でアユを漁っていました。狭い範囲で自然の恵みいっぱいのところでした。


小学校時代の戦争

 昭和12年一ノ宮小学校に入学、その年の7月支那事変が勃発しました。1年生の国語の本で「ススメ、ススメ、ヘイタイサン」と習いました。この頃から軍歌が盛んに歌われるようになりましたが、特に生活の中で戦争を感じる特別な出来事はなかったように思います。しかし、学業以外で行わなければならない作業が次第に出始めました。

〔田植休〕

 6月は田植月。この時期農家の子供は学校が休みとなり家の手伝いを、非農家の子供は学校に出て自習をしました。ズル休みをする子がいても特に咎められませんでした。

〔飼葉(カイバ)作り〕

 野原や堤防でチガヤを刈り、干草にして校庭に持ち寄りました。軍馬に食べさせるべく戦地に送るとのことでした。どうしたら馬がおいしく食べてくれるのかと子供心にあれこれ苦労した頃を思い出しました。農家の子は牛の飼葉を各家庭で作るのできれいな草色をしており、私の作った干草は色が悪かったように思います。

〔楮刈り〕

 和紙の原料になる楮を湿地地帯で探して刈取り学校に集めて皮を剥ぎ干しました。戦争で紙が少なくなったのでしょうか。本当に紙が出来たのでしょうか。

〔出征兵士の見送りと出迎え〕

 河原田駅まで全校生徒で見送りました。出征される方を先頭に行列をつくり、自作の日の丸の小旗を振って、その後駅近くの広場に整列して列車に向かって思い切り旗を振りました。旗は一回使うと破れて使えなくなりました。見送るこの広場を私達はセロハンと呼んでおりました。セロハン工場が建つ予定で造成され戦争で更地のままになって今だに建っておりません。一度出征される赤十字の看護婦さんをお見送りした事がありました。紺の制服ではなく真っ白いドレスに白い帽子のレッドクロスが子供心に興味深く印象的でした。

 次第に英霊をお迎えするようになりました。お迎えする生徒の胸には自作の儀礼章が付けられました。英霊を先頭にその後につき、祭壇が設けられた校庭に向かいました。同級生の父上や近所のおじさんも英霊となって帰還されました。

〔軍用列車の見送り〕

 地域に関係なく夜間兵隊さんばかり乗車された列車を河原田駅のホームに見送る事がありました。私は婦人会の母の後について2回ほど見送りました。子供は2人だけで目立ったのでしょうか。汽車の中からお菓子を差し出されましたが恥ずかしくて母の影にかくれました。結局大人に促されて頂きました。あの兵隊さんは戦地に向かわれたのかもしれないと思いました。

〔大東亜戦争〕

 昭和16年12月8日太平洋戦争が勃発しました。小学校5年の時でした。一人の同級生が「今度は負ける」と言った言葉に周囲を見回した事を覚えています。


女学校時代

〔汽車通学生〕

 昭和18年から5年間、汽車通学生として河原田駅から亀山まで通いました。太平洋戦争真っ直中の列車の混雑は大変なものでした。鈴鹿に海軍工廠が出来、四日市方面から加佐登駅に向かう従業員の方々が特にデッキ周辺に鈴生りでした。河原田駅から乗る学生10人ほどは列車中央あたりの窓へホームから押し上げられ、列車の中から引き上げられてやっと乗れる状態の時がありました。当時、亀山の警察署長が富田方面から通勤されており随分助けていただきました。この方とはお亡くなりになられるまで長いお付き合いがありました。京都に旅行したり、ハマグリ狩りにお誘いいただいたり、俳句のご指導をいただいたりしました。困難の中でのお付き合いはいつまでも心に残るものです。

 食糧難に伴う混乱もありました。加佐登駅周辺はおいしいサツマイモ産地で関西方面からの買い出しの人々でごった返しておりました。私達の乗ってきた列車から工廠の従業員の方々が下車されると代わりにリュックを背負った人々が乗り込まれました。やっと乗れたとホッとした間もなく亀山駅で食料取締りにあい没収される姿は哀れでした。

 これらの混雑を避けて学生は一時汽車通学禁止の時期がありました。私は親戚の家で一週間下宿させていただきました。

〔学徒動員と勤労奉仕〕

 上級生はすでに学徒動員で千代崎の三菱工場に全寮で出かけられていました。私のクラスの半数も同じ工場に動員になり、学校内はひっそりしておりました。残留組は運動場を耕してイモを作ったり、白子の海軍航空隊、川崎の陸軍航空隊、石薬師の陸軍気象連隊の滑走路の草刈りに行きました。頭の上を低空飛行で飛行機が降りる時も特別こわいと思いませんでした。勤労奉仕のない時は勉強をしておりましたので動員の人との不公平を申し訳なく思いました。

〔学校給食〕

 学校給食のはしりでしょうか、お弁当を各自持参し、おみそ汁だけいただきました。自分達で作ったサツマイモと各自稲田で捕ったイナゴを持参し、干したものが粉にして入っておりました。佃煮として食べる地域もあるようですが、それには1日何も食べさせないで糞を出し切りカルシウムだけの状態にして使用するようですが、みそ汁の中には糞がいっぱいでした。それでもみんな残さずいただきました。

〔空襲〕

 私の周辺は直接爆弾の被害を受けることはありませんでしたが、夜、家から四日市に投下される焼夷弾を見た時は、まるでナイアガラの滝の花火を見ているようでした。また、学校の休みの時、高岡山南斜面にある畑で母の手伝いをしていた時、真南の飛行場に爆弾を投下する様子をはっきりと見ました。その後、敵機が頭の真上を通過して四日市方面に飛び去るまで生きた心地がしませんでした。亀山駅近く参宮線のトンネル入口で艦載機に銃撃された子供を背負った乗客の話も哀れでした。

〔終戦〕

 私達の学校は三重女子師範と隣接しており、すでに師範は学校工場となり被服廠の仕事をしておりました。私達残留組は明日から隣の学校工場に動員されることになり、その知らせを今か今かと運動場で待っておりました。仕事の内容や場所にも何の不安もありませんでした。始まらない朝礼を不審に思っている時、「ガガガ…」の音とともに玉音放送が聞こえてきました。とうとう学徒動員を経験することはありませんでした。

 一転敗戦国の学校生活が始まりました。学校では教科書の塗りつぶしから始まりました。特に黒塗り箇所の多かったのは社会だったと思います。英語の時間が急増し、文法もはっきりしないまま暗記しました。その頃、学校の帰り道一人鉄道線路に沿って歩いているとアメリカの軍人ばかりの一列車が通過しチョコレートを投げてくれました。今で思えばやさしさ、親切心からの行為だったのでしょうが、まだその頃は疑心暗鬼とプライドが拾う事をさせませんでした。

〔就活〕

 卒業の近づいたある日、日本赤十字の紺の制服を着た綺麗な看護師さんが来校され、みんなの前で赤十字精神、看護学校の3年間の生活のことなど写真を交えて勧誘されました。以前出征された赤十字の白衣の看護婦さんの姿やナイチンゲールのことなどが重なり入学することにしました。日本赤十字の看護学生として終戦から約3年経過しておりましたが、今まで以上に食糧や物資の不足は増し、家庭のありがたさを身にしみて感じました。特別な教育の場でもあり活気もあり、大変であっただけ得難いものを身に付けたような気がします。

〔就職〕

 卒業してすぐ鈴鹿赤十字病院に就職しました。家に近いところでもあり、かつて先輩や同級生が学徒動員で苦労した軍廠工場跡であったことなどから不思議と因縁を感じました。また、赤十字の救護活動の一つとして鈴鹿市役所の要請で戦死なさった方々の遺児の東京旅行に付き添いました。その遺児の中に近所の以前英霊としてお迎えしたおじさんの小学生の息子さんがいらっしゃって驚きました。きっとお父上のお顔もわからないままではと。やっと戦争が終わった気がしました。

[※杉山亜有美の原稿をもとにご本人が表現を改めた]