樋口慶徳さん(昭和5年生まれ、稲生地区在住)

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父の教育

 私は青年期を稲生で過ごしました。父が海軍の軍人だったもんですから、厳しくしつけられました。たとえば、話をするときには必ず正座とか、弟なんかは叱られて蹴飛ばされたりしてましたね。殴る、蹴るで今では想像もつかないような教育でしたよ。まぁ、そうでないと戦争なんてできないんでしょうね。その時はつらいなぁと思ったんですけど、今はあの教育があったからつらいことがあっても乗り越えてこられたのかなと思ってます。

 戦後、父は復員してきましたけど、いわゆるレッドパージでね、働き口もなく文無しでした。それでも私を大学までやってくれたんだから大したもんですよ。


神戸中学校での日々

 昭和18年頃に神戸中学校に入学しました。でも、中学2年になってから学徒動員になって、鈴鹿海軍工廠で働きましたから、勉強なんてとてもできなかったですね。海軍工廠では機関銃の一番底の部品を作りました。1日中旋盤でね、今あんなことやらしたらヒィヒィ言わんならん。それも、昼働くんならええんやけど、3交代制でしたから夜中12時に稲生を出発して平田へ歩いて通勤したこともありました。当時は道も今みたいにきれいじゃなかったからうっそうとした森の中を歩いてってね。片道1時間かかってましたよ。夜勤の後に帰ってきて、疲れとるから家で昼寝しとると泥棒に米盗みに入られるんです。だから「(家にいるのに)何をしとるか」ってよう怒られました。

 海軍工廠では、私ら以外にも石川県の小松女学校の女学生や松阪工業学校の生徒なんかも来てました。私に教えてくれたんは松工の生徒だったんですから。もちろん工員として志願して働きに来てた方もおりました。無理やり連れてこられたりとか、働かんならんと思って来た人とか様々ですけどね。就職と同じなんですわ。徴用でも待遇は同じなんです。朝鮮から徴用で来とった人もおりましたね。朝鮮人だからって公に差別したら怒られました。朝鮮人ってちょっとでも言ったら「コラー、日本人である!」ってね。だから、植民地っていう考え方は全くなかったですね。朝鮮も日本なんですよ、日本人と同じ待遇であって、給料も食事も同じだし。イギリスが植民地を支配したようなやり方は日本はしなかったと思います。

 海軍工廠では、初めは寮生活できちっと規律を覚えさせて、それからある期間が過ぎたら通いになるんです。私も初めは寮に入りました。寮っていうのがいわゆる教育の場だったんですね。家から通うようになると、深夜に稲生から今のベルシティまで自転車で走るようなことですね。昔は今のように甘いもんじゃなかったですよ。でも、それもまだ優しいもんでね、私らね、中学校の時に軍事訓練の一環で、全校生徒が鉄砲持って夜行軍を行ったんです。神戸中学校から津の靖国神社までお参りに行って、また中学校に帰ってくるんですよ。ラッパ吹いてさ、背嚢へ10キロの物入れて隊列組んで歩くんです。背嚢(はいのう)へ砂袋を入れてるやつは、後ろからつっついてやると砂がチャッチャと出ていってね、帰りには軽くなりますわな。重りを入れたやつは帰るまで重かったって言うてましたね。夜中でみんな眠たいもんですから前の男の足だけ見てフラフラしながら歩くんです。それでも衛門のとこまで行ったらラッパ吹いてきちっとせなあかん。

 終戦間近になると戦車に対する肉弾攻撃の練習なんていうのもありました。夜中に一番前の丸い印を目当てに匍匐前進で這うて、爆雷を持って戦車に飛び込む練習や、棒の先に爆雷をつけて、それを戦車にぶつける練習をしたり、中学生の頃は毎日そんな練習ばっかりでしたよ。あの頃、沖縄がやられたでしょ。だから次はこちらの方にもアメリカ兵が来るかもしれんって言うのでね。


戦中の食事情

 私の家は農家でしたけど、供出は厳しかったですね。米が獲れて俵にしますわな。そうすると、どんだけ供出しなさいってのが決まってました。でもね、中にはこんだけでしか獲れませんでしたってごまかす不良農家もあるわけです。そういうことがあると警察が調べにいって、ごまかしがバレるとしょっぴいて派出所で絞ってましたね。

 私の家は、祖父母と私だけでしたから飯米はよかった(そんなにいらなかった)ですけど、やっぱり供出してしまうと食べるのはちょっときつかったですね。芋や麦の飯も食べましたよ。まぁ、そうはいってもやっぱり農家ですから、一般の家庭より食事情はよかったです。神戸の人や白子の人はあからさまには言わないけど、きつかったようですね。白米だけのご飯が食べられるようになるのは戦後だいぶ経ってからですね。

 戦後はアメリカが小麦粉をくれたんですね。それでパンを作って日本の子供の舌をパン用に変えていったんですよ。だからパン食の時代になって米はあまり食べなくなった。つまり、アメリカが日本人の食糧を握ってしまえと、そうすれば日本人を支配できるという戦略ですよ。それからシーズコントロールっていうて、アメリカのトウモロコシなんかは三倍体にするから、その種を蒔いても生えないですね。要するにアメリカが種を握ってしまってるわけですよ。


終戦になって

 今のドラマなんかでは終戦になってみんな喜んでたりするでしょ。本当はそんな喜んでる暇なんてなかったですね。気力もなかったですし。確かに負けて悔しいって思いはあったと思いますけど、それよりアメリカ兵に何されるかわからんって思いでしたね。だから、アメリカがあんなにも善政をするなんて想像しなかったですね。いわゆる勝戦国と敗戦国の関係は過去の歴史を見ると男は皆殺しとかひどいもんでしたからね。

〔農地解放、土地バブル〕

 昭和25年前後に農地解放がありましたね。この辺りの農地は小作農が耕してるところが多かったですから農地解放で安く払い下げられました。しかし、こちらからすればとられたという感じですね。私の家の農地もようけ持ってかれました。戦後は地主と小作の立場が逆転して当時の地主はあっちもこっちも潰れていったんですね。

 農地解放は共産主義の考え方ですね。中国がやったとの同じなんです。大地主を全部潰して小作に分けてしまったんですね。強制的にやりましたから、そこで色んなトラブルが起こるわけです。大地主が抱え込んだり、うまく分け合えなかったり。そうすると、人民裁判をしなさいという事になるんです。だから、今の農業委員会の権限がかなり大きかったです。つまり、彼らが所有権を決めることができるわけですよ。

 昭和30年くらいには鈴鹿でも人口が急増して住宅地も不足してましたから、土地バブルが発生して地価が急騰したんです。鈴鹿市は企業をたくさん誘致したでしょ。他県から人が入ってきて、その人達の住む場所として農地が宅地化していくんですね。そうすると、この辺りも土地バブルですわ。とんでもないくらい上がりましたよ。それでも、たくさんの人が高い土地を買って家を建てとるんです。土地を買う時に不動産屋を通しますから、そこらへんが大儲けしてます。

〔航空自衛隊に入る〕

 私は戦後、神戸中学を卒業してから今の三重大学に進んで、その後、軍人の募集があったので航空自衛隊に入りました。親が軍人だからあまり抵抗もなかったです。それからずっとパイロット、防衛(作戦)幕僚、防衛省で防衛力整備などの仕事をして、最後は戦略研究をする部門の長をやりました。階級は空将補(少将)でした。平成12年には勲4等旭日綬章を授与されました。

[杉山亜有美]

昭和30年代 米の出荷風景