奉仕作業
私は鈴鹿市の生まれで、昭和20年の4月に白子小学校の高等2年を卒業しました。いつからってのは、はっきり覚えてないけど、学徒動員で他の人は全部、塩浜の燃料廠へ行ったんです。私は家の百姓手伝わんならんっていうことで、学徒動員へ行かんと学校に残れたのです。それで学校に残って勉強するかっていうと、勉強って何もしません。まあ言うたら学校の小使いみたいなことをした。運動場からサツマイモ採ってきたりとか。その時は味噌汁を学校で作ってました。今の給食と一緒やわね。大きな釜が3つくらいあって大人の人が来てみえたわ。どういう人やったのか私らは知らないが、その人らに言われる通りに、「大根洗って来い」って言われたら、洗ってきてって、その人らに言われることをしてました。そんな大きな釜で味噌汁作るのは、子供やで危ないで、ようせんので、すると、その人らが手桶に大きな杓で味噌汁を入れてくれるん。それを男の子と女の子でその手桶を吊って、1年生からずーっとそれを配ったの。男の子と「もっと上へあげて」とかって、よう喧嘩した覚えが有ります。(学徒動員に行った)他の人は、卒業式の日でも、鉢巻きして。私らは後ろの方でしゅんとしとった覚えがあります。そのくらい引け目を感じてました。
工場での攻撃
学校卒業して、20年の4月から働きに行きました。家におったら徴用が来るから白子の安田屋さんっていう普通のお家に。工場ではないけど大きな家で、納屋みたいなところがあって、そこに何台か機械があってネジを作ってました。10人くらいはおったやろかね。本当に戦争の真っ最中やったわ。その頃は、艦載機が飛んで来て、それで空襲警報が鳴ったら、即、防空壕へ入れって言われてました。ある日、警報が鳴ったので、防空壕に入ったの。そしたら1人ちょっと、遅い人がみえた。私らが「早よ来ないかん」って言っても、その人がなかなか来やへんだの。そしたら、艦載機から見えたの。その子が撃たれやんと、その子が通ってきたお風呂へ弾が入ったわ。バリーンってすごい大きな音がしてました。その後、警報が解除になって、みんなが防空壕から出てきたら、弾がお風呂場の中に落ちてました。破裂したら怖いので、「そばへ寄ったらいかん」って言って遠いとこから眺めた覚えがある。みんながその人を怒った。みんなに叱られとったな、その人。誰も死なんだで良かったけど。
飛行機の移動
戦争中に白子の航空隊から、磯山の所まで道が出来たの。自動車がいっぱい来て、砂利をザアっと撒いて道が出来たの。その時出来た道が今の国道23号線。田んぼに砂利を撒いただけ。そんで、あれが出来てから、夜中に「わっしょい、わっしょい」って声が聞こえるの。そしたら、お父さんが、「今晩はまたようけ、磯山の浜へ飛行機を移しとる」って。その飛行機っていうのが、私らは赤とんぼって言ったけどな、それを引っ張ってきてて。磯山には松がいっぱい生えていて、松で隠したんやろな。「飛行機引っ張ってっとる。又明日は空襲がある」って言ったら本当に空襲がありました。B29が高い所に飛行機雲を作って飛んでました。昼中に、私は磯山の浜へ行ったことあるけどな、そんな飛行機なんて何も見えへん。全部、松の枝がかけてありました。
特攻隊
戦争中に特攻隊に行く人が私の家に来ました。九州で1晩泊って発ってくんだって。おばあさんが「何か食べたいものがあったら作ったろか」て言うたら「赤飯が食べたい」て言って。4,5人来たの。「発って行くってどうなんの」っておばあさんが聞いたら、「特攻隊っていうんや、船に弾を落すんではあかんもんで、飛行機で突っ込んでくんやわ」って、おばあさんに説明しとるん。そしたら「ほんならお前、死ぬやないか」っておばあさんが言って。そんなの死ぬに決まっとるわさ。そんなの生きては帰って来れへん。そしたらおばあさんがな、涙をぽろぽろ零しながら赤飯炊いて。ご飯食べさせて、その人らは帰っていきました。
それでそんなこともあったなっていう頃に、「京都から来ました」って。息子が特攻隊で亡くなって、息子から来た手紙に、この家のおばあさんに赤飯炊いて食べさせてもらって嬉しかったって書いてあったと、親がお礼に来られました。そんな時代やったな。
靖国神社
お父さんの弟が戦死したの。それで戦死したのが白子で2人目やった。その葬式は町葬っていって白子町が葬式してくれたの。すごい立派な葬式で、それでその年にお父さんと、おばあさんが靖国神社へ参らせてもらったの。私のとこの家と、もう1軒、戦死した家と2軒だけ。その時に金鵄勲章っていう勲章を貰ってきたの。ほかにその時の皇后陛下が書いた詩の色紙やら、尾崎咢堂さんの「忠」って書いた色紙やら、ようけ貰ってきた。それを宝やで、大事にしとかないかんって仏さんの引き出しに入れてあったんやけど、終戦になった時に、「こんなものがあると敵が来たときに皆殺しに遭うとあかんで。みんな燃やさないかん」って、全部燃やしたん。あとからどんだけ、お父さんが悔やんだ事か。そんな殺されるやなんてこと何にもなかったね。船からアメリカ兵が上がって来て、ここらは海に近いからすぐに来るって言って、顔に墨塗って屋根裏へ上がっとらないかんって、そんな噂が流れたわ。金鵄(きんし)勲章も燃やしてしもたん。何も残っとらん。白子で初めて靖国神社へ連れてってもらったので、厚いアルバムが2冊も3冊もあったの。そんで、ええ鉄兜も貰って来たの。それもお父さんが、ハンマーで割ってさ。なんも残っとらへん。お父さんがどんなに嘆いたか。私らはそんなに感じとらんけど。明日にでもアメリカ兵が上がって来るかと思って、燃やすしか仕方ないと思ったって。もったいない事をしたと悔やんでおりました。