伊藤孝さん(昭和6年生まれ、玉垣地区在住)

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神戸中学での日々

 私は神戸の生まれで、男7人女1人の四男坊でした。親父はこの地方では珍しい水車を作る大工でした。この仕事はしょっちゅうあるわけではないので、生業として当時ミカン水という飲料水の製造販売を主としてお茶店をやったり、また満州(中国の東北部)から仕入れた落花生を炒って卸したりしていました。

 戦時中は私が通っていた神戸中学にも陸軍の青年将校が配属されていて軍事訓練をしておりました。1週間に1,2回ですが、時間割の中に教練という教科がありまして、軍隊さながらの射撃や列隊行進など厳しく教わりました。学校には職員室とは別に生徒監室という部屋がありまして、その将校と体育の先生が詰めていて監視していましたね。生徒にとって教官や先生は神様みたいなもんでしたから、言われたことは絶対服従って感じでしたね。態度が悪いとその部屋に引きずり込まれて竹刀で叩かれたり、足蹴されたりしました。ひとりでも何かしでかすと連帯責任ってことで全員ビンタされたり、雪が降りしきる中、教室の犬走りのところに2時間も3時間も座らされたりしましたね。足がしびれて立てなかったことを覚えています。学校への通学も運動靴はほとんど手に入らず、地下足袋を履いていければよい方で、私は家で藁草履を作って履いていきました。学校へ着けばそれを脱いでみんな裸足だったんです。冬なんかひどい霜焼けになりました。戦時中で物はなく、辛抱しなければなりませんでした。


町葬

 神戸小学校の校庭で町葬が行われました。戦争で亡くなった軍人の霊(みたま)を町内全体でお迎えするということです。戦時中初めて戦死された杉村大尉のご遺体が帰ってきました。小学校の低学年でした。今語る人はほとんどおりませんが、とにかくその時は初めての経験で強烈な印象として残っております。しかし、その後はあまり記憶がありませんので町葬は自然に行われなくなっていったように思います。


兄の出征

 国鉄に勤めていた長兄が久居の陸軍33連隊に召集されました。しばらくして幹部候補生として豊橋の陸軍予備士官学校に転属しました。当時は軍隊に入るってことは一家にとっても本人にとっても名誉なことでした。やがて自分も行くんだなあと思いました。家の玄関には丸太で急造りした門に紅白の布が巻かれて「出征兵士の家」っていう木札が貼られました。

 いよいよ出征という時には隣組に回覧板が回りまして何時何分の電車で行くというのが知らされて町内の国防婦人会をはじめ、大勢の人が神戸駅(今の鈴鹿市駅)まで見送りに来てくれました。町内会長が音頭をとり、みんな旗振って電車の姿が見えなくなるまで「万歳万歳」って歓呼の声を張り上げてね。感激しました。

 当時は国のために出征することは当然の義務で、なんでも「天皇陛下万歳」「欲しがりません、勝つまでは」とかみんなの気持ちは高揚してましたね。でも親は自分の跡取り息子を出すわけですから悲愴な思いはあったでしょうね。

 兄は鉄道隊の将校として中支(中国の中部)に派遣され、戦死することなく終戦から1年半で無事復員しました。家族の喜びは大変なものでした。


学徒動員

 私達は兵役にはかからなかったんですが、神戸中学2年生の12月から3年生の終戦まで平田の鈴鹿海軍工廠へ動員学徒として出向しました。全員寄宿舎に入りました。そこから毎日行き帰り隊列を組んで出勤していましたが、やがて家から通ってもええということになりましてね。私は親父の自転車を借りて通っていました。そうこうしているうちに学校に分工場が出来ました。今度は家から徒歩で通えるようになりました。年の暮れに大きな地震がありましたが、その時はまだ寄宿舎におりました。這這(ほうほう)の体で防空壕に逃げ込みました。後で聞いた話ですが、地震で防空壕に逃げては危ないと言われたことを覚えています。分工場に移ったのは年が明けてしばらくしてからでした。(分工場は武道場と講堂がすっかり床が外されて工場になっていました。)

 後先しましたが平田の工場には神戸中学の生徒ばかりじゃなくて石川県の小松高女から10数人、県内の松阪工業学校から1人、早稲田大学からも1人来てました。小松高女の生徒さんは私達より2年ばかり先輩のお姉さんのような存在でした。今でも名前や顔を覚えています。この時は楽しかったです。

 工場での作業は1班20人から30人で、そこに2,3人の学生が配置されていました。身の丈より高い旋盤やミーリングマシンというでかい切削機など金属を切削する機械との取っ組み合いでした。工場では班別の成績の棒グラフ表があり、どれだけ部品を作ったかとかね。毎月分が分かるようになっていて、私達は戦闘機の機関銃の部品を作っていました。班には徴用で来た係長がおっていろいろと指導してくれました。心やさしい兄のような人で、その人のためにも成績をあげようと一生懸命に働きました。結果としてよく表彰されました。だけど、作ったものは弾が出ないというのがよくありました。工場で作った機関銃は発射実験をするんです。そうすると、ババババッと出て止まるんです。もう、これは全部駄目ですね。「オシャカ」って言います。20パーセントから30パーセントが良い方で、残りはオシャカでしたね。工場で作ったものは頼りにならないなあって、戦争に間に合うのだろうかと思ったんです。それは学徒が作ったものだから駄目っていうんじゃなくて、工場全体の問題で、海軍工廠自体がうまいこと機能していないってことなんです。

 その頃は戦況も急迫し、本土への空襲も多くなりましたが、空襲警報が出ても電灯を消すことなくカーテンを閉めて敵機からの爆撃をかわす手立てを講じて頑張っていました。

 「日本は神国だ」と教育されていましたので、いずれは日本が勝つんだと思ってきました。にもかかわらず結局負けてしまいました。この先日本はどうなるのか予想のできない不安感みたいなものがありました。我が家には当時ラジオがなかったものですから天皇陛下の玉音は翌日の新聞や近所の人から聞きました。作業中に友達が「負けた」って言ってきて「もう仕事止めた、帰ろに」って言って誘いに来ました。物のない時期でしたから窓に貼ってあったカーテンを引きちぎって持ち帰る者もおりました。

 終戦になって学校に戻ったんですが、初めて教室に集まった時に教科書が支給されました。これは一体何だろうかと思いました。教科書は大きな一枚の新聞紙みたいなもので、線に沿って切り綴じて一冊の本に仕上げました。数学とか物理とかそんな教科やったかな。これからは灯火管制もなく勉強できるなんて夢のようでした。


海軍記念日

 白子には海軍航空隊がありました。年に1回5月に海軍記念日があり、隊内を見学することができました。戦後はわかもと製薬を経て電気通信学園が引き継ぎ、現在は鈴鹿医療科学大学薬学部のキャンパスが開学しています。

 海軍記念日には毎回見学に行きました。施設の見学はもとより飛行機の操縦席に入って実感することができました。このような見学会を通じて自分もそうなりたいと思いました。それで私も陸軍少年兵の試験を受けましたがどうも体が小さくて不合格でした。当時は中学校から陸軍士官学校とか海軍航空隊に行った者がおりました。


戦時中の食事情

 戦時中は米をはじめ配給制で食べ物がなかったです。海軍工廠の寄宿舎での食べ物はやはり充分でありませんでしたので腹が減りました。たまに家に帰った時に食べ物を持ってくるんです。農家の出身者はサツマイモとか持ってきましたけど自分は農家と違うもんで親が一生懸命作った大豆を炒って持たせてくれて、それが恰好のおやつでしたね。ばれないよう布団をかぶって食べました。

 今は鈴鹿市駅になっておりますが昔の伊勢神戸駅の近くに運送会社があって、たくさん食糧が積んであったんです。そこへ行くとそこら辺に破れた袋から豆がこぼれているわけです。夜になって人気がなくなった頃にそれをかき集めて拾い持ち帰っていました。一度見つかったことがありました。摘発されるかと心配しておりましたが、優しい人で見て見ぬ振りをしてくれました。行ったのは3~4回ですね。会ったことはなかったですが私らと同じことをしている人がおったようです。「野荒しにやられた」って言ってカボチャやサツマイモを勝手に掘って持ち帰る人もいました。まあ、そんなもん窃盗団とかじゃなくて子供達がひもじいもんでやるんで、頭にきましたがあまり追及もせずお互いさまということでした。

 食糧難対策として親父が家から4キロぐらい離れたところに畑を借りまして、木製の乳母車みたいなものを作ってくれて、それを弟と2人で「もっと力入れて押せ!」とか言いながら草取りや水やりに行ってましたね。親に言われてしぶしぶでしたけど食うためやでしゃあないなあといった感じでね。中学1,2年の頃でした。

 砂糖は貴重品でほとんど手に入らず、塩も不足してました。親父が千代崎の海岸まで自転車で行きまして、海水や海藻をとってきて塩分補給してましたね。梅干しの漬け汁などもおかゆに入れて、ピンク色のおかゆをすすっておりました。

 お米は依然として少なく、食べ物はサツマイモが主体で軸も葉も食べました。サツマイモはつぶしてジャガイモサラダみたいにして食べたり、それとフスマ(小麦の皮)をおかゆや団子に混ぜて食べました。友達の家が製粉所をやっていたのでそれを買ってきて混ぜ物として食べましたね。味は特にどうということはありませんでしたが、まあ腹の足しにはなりましたね。サツマイモは短冊に切って干し、粉にして水を加え団子にして蒸して食べました。団子は黒くなりましたが大変おいしかったです。

 他には中学に入ってしばらく勤労奉仕ということで農家の手伝いに行きました。2,3人が一軒の家に行って田んぼの草引きや桑の木の枝を切ったりしました。昼には純白の握り飯を出してもらいました。久しく食べていなかった何の混ざり物もない握り飯、「純綿のメシ」って叫んで大喜びしたのを覚えています。

 日本はついに負けてしまいました。終戦後早々とアメリカ軍から牛肉の缶詰とバターの缶詰が支給されました。敵国の贈り物とかそんなことは考えなかったです。何分にもひもじかったから。

「もう戦争はいや。何があってもやってはいけない。」素直にそう思いました。私の青春時代は飢えと灯火管制に翻弄された苦節の連続でした。

[※杉山亜有美の原稿をもとにご本人が表現を改めた]