小学生の頃の思い出
私の生まれは亀山市小下(こみざ)町ってところなんです。小学校は亀山の附属小学校に通いまして、5,6年生の時に運動場を畑にしてサツマイモを作ったのを覚えています。それを蒸してみんなでずいぶん食べましたな。イモの蔓や、葉を乾かしてそれを粉末にして食べたりもしました。昭和17,18年頃には必ずやってましたな。要するに食べ物がなくなってきたらこうやって工夫して食べていきなさいよっていう教育だったんだと、今思います。
勤労奉仕として出征兵士の家へ稲刈りの手伝いにも行きました。その家は馬を飼うてたの。馬で荷車を引っ張るんですね。昼休みにそこの人が、あんたら馬に乗るかって聞いてくれてね、私が馬に乗ったの。でもその時ね、私が「ハイッ」って言ったら馬が走ってしまったんですよ。えらいことしてしもたって思ったね。私のお祖父さんはね、近衛兵やったんです。だから、小さい頃はその近衛兵の話も聞いててね。お祖父さんは足が短かったから、馬の胴を両足で十分しめられないのでよく落馬したって事も聞いてたし、こうやってしたら馬は止まるんだよって馬の止め方も聞いてた。だから、たずなを引き「ドウッ」ってやってみたら馬が止まったんですよ。お祖父さんの話が役立ったなって思って。1キロくらい行ったところでしたね。それから引き返してったら農家のお爺さんが「あんた、よう帰ってきたな。もうどうなるか心配しとったんや」って言われましたよ。
中学校時代の思い出
中学校は亀山高等学校の前身にあたるところでね。中学1年生の時は平穏無事でしたが、2年生になった時に掩体作りをさせられました。旧久間田小学校に泊って、それから椿一宮まで毎日歩いて行ったんですよ。その時のご飯は婦人会の人が作ってくれたのかな。久間田小学校も私達が3部屋ぐらい使ってましたから、勉強もできなかったでしょうね。
どんな仕事をしたかっていうと、近くの畑から土を運んできて木の棒を使って2人で担いで、掩体壕のところまで運んだら、その土をぶちまけて盛っておく、それを繰り返したわけ。3メートルくらいの土の塀を作るんですよ。重労働ですわ。あれは大変やったなぁ。今だったらブルドーザーで数日で作るのを、生徒100人くらいで3か月かかって作るんですよ。京都師団の将校が監督になって、「怠けとったらあかんやんか」って言うて見張ってました。それでも、大変だから3か月したら違う学校と代ってさ。中学校2年生の子がやるんだもん、そんなすぐにはできませんよ。私らは半分もよう作らんだんとちがうかな。
その後、今度は学徒動員になって海軍工廠に行きました。今の道伯のところに寮があって、そこで研修を受けました。工廠には3か月研修で行って、それから学校に旋盤を運んで、作業自体は学校でやったんですよ。直径13ミリの弾を作とったんです。1日に箱いっぱいになるまで作らなあかんから、70個から80個ぐらい作っとったんじゃないかな。それも検査に受からんと作り直しですわ。朝の7時から夜の7時まで働いて、夜勤になると逆に夜の7時から朝の7時まででした。2交代制だったの。
玉音放送は工場化した学校で聞かされたの。そりゃ私達にはなんて言うてるかわからないから、先生が説明するの。終戦を知った時は、私はそれまで軍人になるために勉強してましたから、軍人にならんのやったら何になればいいんだって思いました。その時にね、前に親父から学校の先生は戦争に行かんでいいぞって話を聞いてて、それでパッと切り替えて、よし学校の先生になるぞって思って、中学校を卒業してから師範学校、三重大学に進んで先生になったんです。
就職に携わる
私は昭和28年から市内のある中学校に配属になりました。そこでは就職にも携わって、卒業生を旭ダウや大東紡に就職させて喜んでもらいました。近い所で良かったやないかって言うてね。その中学は200人卒業するんですが、その内の高等学校への進学率は当時は35パーセントぐらいでした。あとはみんな就職ですわ。あの頃は会社が説明しに来るの。中学校3年生の担任になると職業安定所に呼ばれて、どこどこが募集してますよって言われるんです。学校に帰ってきて旭ダウは何人、大東紡は何人募集してますって校長に言うと、そしたら保護者会せぇって事になって希望を募るんです。あの頃は今と違ってみんなどこかには就職できたんですよ。金の卵っていわれた時代ですね。高学歴志向もなかったですし、高い金払って高等学校に行かんでも中学校卒業したら就職できるっていう安心もありましたから。鈴鹿市内の会社に入る子が多かったですが、三菱油化とか四日市のコンビナート、富田の紡績工場にも入りました。本田技研ができたら、本田技研の下請け工場にはようけ入りました。本田の本社に入るのもおりましたけどね。
当時、ある塗装会社に見学に行ったんです。塗装業ですから、シンナーの臭いがプーンとしますわ。だから、そこに就職が決まった子に「行くのは良いけどシンナーの臭いに肺がやられるぞ」って話をしたんです。そしたら、その子が「そこに行ったら肺が悪るなるって学校の先生に言われた」って親に言ったみたいでね、親がびっくりして「うちの子は行きたいって言うてるのに、先生がそんなこと言うてきた」って私に言わんと校長に言うたんですよ。それで私は校長に呼ばれてね、「小林君、そんなこと言うな」って言われまして。私は「それでもそんなん行ったら肺が悪るなりますやんか」って言うたんです。そしたら校長が「他にはどこも入れんと、やっとそこに入れたんやから、親が落胆するようなことは言うたらいかん」って怒られましてな。先生はこんな怒られやないかんのかって情けなく思いました。本当は就職する子を見るっていうのは、そこまでせなあかんのやけどな。それからは何にも言えなくなりました。そのことで私もずいぶん悩みましたよ。