男性(昭和6年生まれ、石薬師地区在住)

244 ~ 245

戦中の生活

 生まれは神戸ですけど、小学校6年生から石薬師に。親がここで開拓しとったもんで。今の家はね、私のおじいさんが新屋分けっていうかな、ここへ土地を買うてもらいましたんやな。それを開拓して。

 学校から家に帰ってきたら畑を手伝わないかん。機械がないもんで、親が待ってましたな。家は田んぼがなくて畑ばっかりでね。サツマイモがほとんど主体です。兵隊さんに強制的にどんなけって供出もせんならんでな。安い値段で国が買い取るわけやな。その検査も、検査員さんがおってさ、イモの等級とか調べる。俵みたいなのに入れて、道端へ積んでさな、検査員さんが調べてましたな。


家に疎開者

 一時期は30人くらい、身内やけど名古屋の焼け出されとかで来てました。その人らにはバラックみたいなものを、庭に建てたったりしましたな。その頃はどこも一緒やけど、米の配給なんてほとんどありませんでさな、サツマイモに味噌ね。そんなもんで食べて。でも麦が獲れましたでな。米はですな、実家内で8人でしたけど、配給やで1日4合あっただけです。4合の中へサツマイモと味噌を入れて。それで母親がですな、30人の食事を準備して。それはかわいそうやった、ようやってくれたなと思って。終戦後、ちょっと安定した頃にはみんな帰って行きましたな。


残飯を貰う

 陸軍の部隊はね、食糧難の時でしたけど、ようけ残飯ができましたわ。家は豚を飼うてましたからね、そのエサにね、1週間に1,2回くらいはね、貰いに行って。それで、その肥料を畑にやるとかね。兵隊さんは優先的に米とか豆とか貰うよってな。何人みえたかは知らんけど、そんに大きな部隊ではなかったですけどね。ここの近所ですけど2軒か3軒の契約でね、契約というか代わる代わるで残飯を貰うことになってまして。私らは兵隊さんと仲良うなりましてさ、兵隊さんがようけ遊びに来たりしてさ、可愛がってもらいましたに。


空襲の思い出

 びっくりしたのが、艦載機がな、屋根すれすれにビュッと行ってな。ちょうど病院の方へ、一機で。機銃掃射をタンクに向けてな。そのタンクはもう破裂して。ほんとに屋根擦るくらいで、タンクも見えとんのやでさ。怖かったな。私らは空襲になると溝へ伏せてさ、子供くらいは狙わんだ。そんなことでした。ほんとに屋根を捲ってくかってくらい。空襲で四日市が焼けたのなんか、えらい音やった。バリバリって、広範囲が燃えるもんだから。四日市はすぐそこみたいに見えたし。ここは高い所やでな。


学校での思い出

 石薬師の尋常高等小学校で高等1年ぐらいの時にね、先生が胴周りのがたいを造ってくれてさ、天井を剥いでいってその胴周りへ貼るわけ。ハヤブサっていうのかな、あれの型やったらしいんやけどな。石薬師は1機、とか割り当てがあるわけやな。それを北伊勢飛行場に並べるのやな。並べたところは私らは見に行かんけどさ、牛車で飛行機を引っ張って出発したのは知ってますのやわ。胴は胴、羽は羽でバラバラでな。牛車やで、そんな大きな物は引いて行けんで。組み立ては向こうの兵隊さんの指示で組み立てたんやと思いますに。こんな小さい釘でな、天井屋根はな薄い、汚いもんやさ。それを上手いこと剥がして。もちろん運動場はみんなサツマイモやしさ、校舎は天井剥がすのでガラガラさ。飛ばす飛行機じゃなくて模擬を造ったんやけども、子供ながらにそんなもんに爆弾落しても、なんの効き目があるのかって思ったけどな。

〔竹槍の演習に選抜〕

 私は体が大きかったみたいですね、小さい時。それで選抜されてね、関へ竹槍の演習へ行きました。各校2名やったかな。学校あがったら何になるってことで、そりゃあ、あの時は憧れの予科練やわな。予科練習生。まあそういうことで。1期上は予科練へ行っとる人がおったでな。どっちみち、行かんならんっていう頭があったな。怖いのは知らんのやな、小さいしな。


玉音放送

 玉音放送は隣組でな、ラジオなんかは1軒か2軒かしか持っとらしませんでな。内容はわかりましたけど、情けなかったな、負けたのは。もう自分の気持ちは予科練志願するとかそんなのばっかり考えてましたからな。教育そのものがな。校長先生の朝の訓示でもな、軍国主義の一辺倒やった。まあ、教育っていうのは浸透するのかな。怖いもんやなあ。私らは若いけど、私らより4つも5つも上の人は腹が立ったと思うな。終戦になるまでは負けるなんて思わんし、ラジオでも「どこどこで連戦連勝」って報道ばっかりやったでな。支那事変の時は勝ち戦やったみたいやでな。私らでも3年生頃は南京陥落とかいって旗行列しよったな。


大阪、京都からの買出し

 ここらは畑作やでな。大阪方面から着物を持ってさな、「サツマイモと交換してくれ」って拝むようにして来るわけやな。ようけ石薬師やこの畑作地帯へはな、ヤミのサツマイモを買いに来よったな。大阪や京都はな、着物のいいのがあるでな。あんな時代は、田舎の者は着物なんてよう買うとらんで、自分の大事な着物と交換してくれってな。その人らは駅降りて、歩いて家まで来るんですわ。でも家は疎開の人もあるし、もう寝るとこあらへんのさ。せやで、その人は庭で筵ひいて泊っていきよった。その人らは加佐登駅やら井田川駅から電車に乗って帰るんやけど、イモなんかは統制品やで警察に没収されるわな。なんでも統制。カボチャまで統制品やった。みんな取られて泣いてな、その明くる日も来たりな。京都やあそこらの人はな、重たいもの持ったことない人やしな。かわいそうやったな。

[小川真依]