家業の牛乳屋を営んだ
私は白子で生まれまして、家が牛乳屋やってたんです。その時分は牛乳屋っていうたらこの辺ではうちと寺家と玉垣の3軒しかなかったです。牛乳屋っていうても牛を飼って自分の家で乳を搾って、消毒もして、各家に配って売るんですよ。だから、その牛を遊ばす広場みたいなところがあって、小学校時代はそこを耕して食糧確保の補助にしとった覚えがあるんです。戦争末期の頃は商売っていうても、もうね、人間の食べもんないし、牛にも食べもんないですから、牛も乳が出なくなってだんだん商売も小さくなっていきますわな。
私を含めてうちには子供がたくさんおったんで、牛乳配達は子供が朝学校へ行く前にやってましたね。稲生まで売りに行ってましたから、子供では全部配り切れませんので、もちろん配ってくれる人を雇ってもいましたよ。
その後、父が亡くなって私が牛乳屋を継いだんです。私は次男坊でしたんで初めは跡を継ぐなんて全然考えてなかって、その当時は戦争一色の時ですから、飛行機乗りに憧れてました。それでも母親が小学校の5年生ぐらいの時に亡くなってますんで、父親の手ひとつですやろ。ですから、もうこれは上の学校へ行って飛行機乗りになるのは無理だと自分でわかってたんです。それで、電気関係が好きでしたもんで津工業学校へ行って、卒業してから出征していた兄が戦死したもんで、自分の思とったこととはまた変わって牛乳屋を継いだわけです。
牛を家のすぐ横で飼うとって、多い時は12,3頭いたでしょうね。でも、私がやった時にはもう少なかったですね。戦後になってくるとこんな街中で牛は飼っとれませんもんで、昭和29年頃に牛乳屋は辞めてしもたんですけど、どっちみち続いとったとしても、ここではやっておれなかったと思います。まあ、でも、辞めた一番の理由っていうのは、敗戦になってね、アメリカさんがきて衛生面でうるさくなったことですね。配る牛乳はビンに入れてボイラーで煮沸消毒しとったんですけど、それが低温殺菌になりましてね。そうするといろいろな機械が要る、大型冷蔵庫も要るでね。結局それらに追いつかんで辞めてしまったんですわ。
航空隊の兵隊さんとの交流
うちは商売しとったから、兵隊さんを下宿させるってことはなかったんですけど、隣が古い農家の家で空き家でしたんや。そこが早よから鈴鹿海軍航空隊の下宿先になってたんです。下宿先っていっても土日くらいしか来てなかったと思います。まぁ、いうたら息抜きの場所ですな。多い時は10人くらいおったんじゃないかな。今の鈴鹿市勤労青少年ホームってとこが当時は海軍航空隊の酒保になっとって、兵隊さんは食事はそこでとったんですね。それで、うちが下宿先の近くで女の子がようけおったんで、よう遊びに来とったんです。まあ、時代によっても違いますけど、だいたい5,6人は家に出入りしとったかな。遊びに来てた兵隊さんに私もよく魚釣りに連れてってもらいましたし、おふくろも田舎育ちで人が良いんか、家でご飯を食べさしたり、親父も酒が好きですもんで、その人ら集めて毎晩酒呑んどったりしましたね。そんなんで、みんな家族みたいにしてましたよ。それで、(家族が)一番気に入った2,3人が家に泊ってったんです。その内の1人がうちの姉と一緒になってます。私はこの人に戦時中もようしてもらいましてね。海軍記念日に航空隊の中を案内してくれて飛行機に触らせてくれたり、説明してくれたりしてね。その当時は毎日飛行機が飛んどるでさ、洗脳されて、ますます飛行機乗りに憧れましたよ。
私が白子小学校の校庭で遊んどった時のことですけど、どっかから帰ってきた輸送機が上空に飛んできたんです。それが突然変な音してきて「あれ?音が変やぞ!?落ちるぞ!」って言うて見てたんです。輸送機に乗っとった兵隊さんも飛行場には辿りつけないのがわかったんでしょうね、そのまま街中に落ちるわけにはいけないってことでくるっと回って海の方へ向いて落ちてきましてね。後でその輸送機に乗っとった兵隊さんはみんな死亡したと聞いたけど、その中によう家に遊びに来とったんが含まれとったんです。航空隊の司令官の従兵さんでおとなしい人でね、非常に悲しい思いをしたのを覚えてます。
戦時中の思い出
小学校の頃、駅前道路を拡張して飛行機の滑走路にする計画があったんです。各家から1人その作業に出なあかんので、小学生ながら作業を手伝いに行ったのを覚えてます。家が商売してますやろ、ですから親父がそんなん行けないってことで代わりに行っとったんです。今は駅前の道は広いけど、拡張する前は今の半分もなかったですね。あの時分の家は間口が狭ても奥に長いつくりになってました。駅前の隅っこに映画館もあったし旅館もあったくらいですから。道の南側の建物を駅に近い方から一軒一軒みんなで綱曳いて壊して、リヤカーかなんかで運んでました。でも、途中で規模を縮小したのかな、映画館は残ってましたよ。壊した家の一族はその時分は鈴鹿以外のところに移ったんでしょうね。
襲撃を受けた話ですけど、私は学校から電車で帰ってきてましてね、空襲警報が発令されて電車が停まってしまったんです。その時は、確か白塚辺りで空襲警報が発令されて、待っとってもしゃあないでって事で友達と5,6人で線路を歩いて帰ってきとったんですわ。豊津上野の近くまで来たら、戦闘機が旋回してやってきたんです。「おいおい、狙われとるぞ」って言うてたらバリバリって音がしたんです。「おい、弾飛んできたか」って言うて、その時ちょうど黒い貨物車が1つ荷物降ろすのに豊津上野の駅に停めてあったんで、そこにみんなで逃げ込んだんです。戦闘機が低空で飛んできますやろ、そしたらバリバリバリバリって音がしたんです。物凄い怖い思いをしましたよ。その時にね、弾が飛んできたかは確認してないんで、もしかしたら空砲で撃っとったんか知らんね。戦闘機も本当は鈴鹿の航空隊を狙って来とったんだと思うんです。あの頃は終戦間際で対抗するような飛行機も飛ばへんし、高射砲なんてもんは撃っても当らない。ですんで、あっちは面白半分で撃ってきたんとちがうかな。
航空隊を機銃掃射しに戦闘機が海の方から潜入してくると、ちょうどね、家の辺りで低空飛行になるんですよ。ほいと、メガネかけた敵の兵隊さんの顔が見えるくらいの高さで飛んでく。ほいで、ダーっと飛行場に突っ込んでってバリバリバリって掃射を始めるんですよ。航空隊も練習場でしょ、実際に戦える飛行機なんてあらしませんもんね。高射砲陣地もあちこちにあって、夜B29が来るとサーチライトを照らして撃っとんのを見たことあるけどね、それも最初のうちだけ。終戦近くになってくるとやられ放題。その頃には「おい、こんなんではもうあかんぞ」っていう思いがちょっとはありましたね。
終戦
玉音放送は、ちょうど学校もなくて家におりましたんで「大事な放送があるでみんなラジオの前に集まれ」って親父に言われて聞いたのを覚えてますね。当時はね、放送なんて聞いても雑音ばっかりでしょ、だから聞いてもようわからんままでしたよ。終戦を知った時は、親父はやっぱし大事にしとった息子をとられたって残念な気持ちやったんとちがいますやろか。私は14,5歳でしたから、悔しいや嬉しいじゃなしになんかホッとしたっていうかね。その後はどうなるか想像もつかんだけど、あれだけ空襲受けとったのがなくなってやっと死の恐怖がなくなるって思いがありましたよ。それでも、自分もあと1年戦争が続いとれば志願できましたからね、あわよくば自分も志願しようという思いもありました。若い頃でしたから悲しいとか嬉しいとか一言では表現できない、志願できずに悔しい、でも現実を見ればホッとした、そんな色んな気持ちが入り混じってましたね。
戦後になって嬉しかったことは映画をよく見られたことですね。中座と白栄座っていう映画館がありました。中座は、今は英語の塾になってますね。そこが戦時中からずっとやってました。戦時中でもたまに見に行ってましたし、兵隊さんが休みにきた時にも見に行ってました。映画やったり、芝居やったり、歌手が来たり。戦中戦後は娯楽っていうたら映画でしたね、人気もあったし。芝居とかは戦後になって慰問で来るようになったんかなぁ。戦中は直に航空隊や戦地に慰問に行ってますやろ、だから映画館には芝居とか歌手とかは来ませんでしたね。
戦時中はもちろん日本映画でしたけど、戦後は洋画もかかるようになって、しょっちゅう見に行きました。かぶれってわけじゃないですけど、戦後でしたし、やっぱし日本の映画より洋画の方に憧れてしまいましてね。それと、戦中にも洋風のカフェっていうのが江島に1軒だけですけどありましてね。女給さんが何人もおって、うちの兄貴らも戦争に行く前によくお酒飲みに行って、遊びに来てた兵隊さんと意気投合したと言ってました。