浜口卓也さん(昭和6年生まれ、神戸地区在住)

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ヤミ米

 私の生まれは神戸で、家は建築業をしてましてね。大工さんですね。だから、戦時中は食べ物は少なかったんです。親戚から融通してもらったりもしてましたけど、年中ひもじい思いをしました。戦時中はお米が配給制でしたやろ。ですから、ヤミ米の調達が大変でした。ヤミ米って着物とか骨董品を近くの農家に持っていって、それと米とを取引することですけどね。闇の内に、まぁ夕方とか朝早くとか、そんなうちにするんです。あの頃はそんなんせな生きていけなかった。遠いとこは名古屋から知ってる人を頼って来てましたよ。農家も売ったるなんて言いませんよ。ヤミ米があります、なんて言えませんから内々でやるんです。供出する時に控めに報告して、余分に米をとって、ヤミ米として売るわけです。価格も配給より高くてね。配給ってのは統制値段ですけど、ヤミ米は自由販売ですから2倍も3倍もしましたね。またそれを警察が取り締まるわけですよ。買った方は見つかったら否応なしに没収です。駅ではみな検査です。リュックサックの上の方には違うもんが入っとるけど、下には米が入ってて、それが見つかると米だけ持ってかれるんです。「うちには子供がおって、食わさんならん」って言ってお母さんらが泣いて訴えても「ダメ!」って言って持ってかれてね。かわいそうでしたに。中には列車の中で情報が入ると米を田んぼの方へ放るんです。それで後で拾いにいく。そうやって早く情報を握ればいいけどね。私はヤミ米を買いに行ったことはないけども、お袋とか親父とかが苦労してやってました。うちは親戚が農家ばっかりやったで良かったけども、本当にツテのない人は相当つらかったと思いますね。


兵隊さんが寝泊まりに来た

 海軍航空隊が出来て、これも徴兵制度ですから若い者が2年、3年こちらに来て、除隊になって、またどっかに行くんですね。しかし、これが戦時に入ったからどんどん延長されていくわけね。そうすると、昔からおった古参兵が新しく入ってきた新兵と一緒に寮生活はかなわんやないかってことで、その吐け口として白子とか神戸とかの部屋の多い家に行ってね、「お前んとこ部屋が空いとるやないか」と言って4,5人ずつ割り当てて、5人やと1日2人とか3人とか決めて兵隊さんが泊りに来るんです。泊まりに来ると食事も出さんならんし、面倒も見やんならんかった。そのへんの金は親がどうしとったんか、私は子供やったからわからないけど、私は泊りに来た兵隊さんに遊んでもらえるんがすごく嬉しかったですね。当時は泳げなかったんですけど、海軍さん3人くらいに千代崎の海岸まで抱いて連れてかれてね、「泳げ!」って言って犬かきで泳がされました。初めは1メートル泳いで、そうすると2メートル、3メートルと距離を延ばして泳ぎを教えてもらった。他にも竹馬を作ってもらったりしたね。

 泊りに来る人ってのは士官級くらいの人だったかな。中間層ですね、25,6歳くらいでした。兵隊さんの中には細い丈夫な紐で靴下を編んだり、海軍旗を赤と白の布で作ったりしてる人もおりました。なんでそんなことしとるんやって聞くと船に乗ってても暇やでって言うんですね。そりゃ、新兵やったら看板の見張りとかそんなんせなあかんけど、上になってくるとすることないでしょ。そんなんが昭和12,3年頃でした。


海軍工廠で働いた

 神戸小学校を昭和17年に卒業して神戸中学校に入学しました。でも中学校って名前だけでね、勉強はほとんどしませんでした。1年生の終わりぐらいかな、戦況が著しく悪くなったってことでね、鈴鹿海軍工廠に学徒動員に行ったんです。道伯の郵便局のところに十字路がありますな。住吉の通りと平田から庄野三行線との交差点の所。そこに小さな山がありましてな、桑名の諸戸さんっていう財閥の土地やったの。そこを国が取り上げて大きな2階建ての寮を4棟くらいつくったんですわ。私らはみなそこに入寮ですな。12,3畳の部屋に8人ずつ入れられて生活したんです。寮の中には食堂もあって、自分らでそこに行ってご飯を盛って食べたもんです。ご飯を盛りに行くのも当番を決めてましてね、狡いやつやと自分とこによけ盛ろうと思ってご飯を押さえつけるわけ。それで終いには押さえつけ過ぎておしゃもが折れたり。そんなこともありましたね。当時はそれぐらいお腹が空いてたんですよ。寮生活では朝6時起床で8時になると寮から工場、今の本田技研のところですけど、そこまで行って航空機の二十五ミリ機関砲の部品をつくったんです。そこにどれくらいおったんですかな、そうこうしているうちに工場が神戸中学校に移ったんですね。当時は、現在の神戸高校のテニスコートの東側に大きな講堂がありまして、底を抜いてコンクリ(コンクリート)打って機械を置いて仕事したんです。

 仕事も休みってものがなくて月月火水木金金って歌わされてましたね。土日がないんです。しかも24時間勤務。昼勤12時間、夜勤12時間の2交替だったの。今の中学校1,2年生がそんなんできると思う?今ではそんなん考えられんでしょ。でもね、当時の僕らは1人前のつもりで仕事をしてました。まぁ、そうはいっても中学1,2年生でしたから周りから見ればまだまだ子供ですね。だから、一般の徴用で来た工員さんが工具を壊すと「おい、お前行って交換してきてくれ」って言うんですよ。工員が行くと物凄い怒られるんです。「お前はこの前も壊したやないか、何という仕事しとる!」とこう言われるわけです。しかし、私らが行くと中学生ですからね、「あぁ、お前か。気ぃ付けてやってな」って言って換えてくれるんです。

 そうやって私らが一生懸命に機関銃作ってもね、嘘か本当か知らんけど、まともな機関銃は出来やんだわけ。二十五ミリ機関砲の部品作って組み立てて、それを射撃場みたいな洞窟でちゃんと弾が出るか試し撃ちをする。泥を積んで、その上に機関銃を置いて隠れてヒモ引っ張って撃つんです。まともな機関銃じゃないとね、爆発するんだって。そうすると試し撃ちをする人は死んじゃうでしょ。だからそうやって隠れて試してました。ドンドンッて弾が出て撃てるなって確認した機関銃を航空隊に持ってって試し撃ちすると、空中戦だから遠心力がかかるでしょ、正直いって100挺のうち2挺しかものにならんだって聞いたことはありましたね。

 それから、今の本田神社に防空壕が掘ってあって、空襲になるとそこへ行って避難するんです。その時が私らにとっては休憩時間で嬉しかったですね。防空壕の中は水で濡れてましたから布バケツを持ってって、それを尻に敷いて座ってたんです。空襲警報が解除になって工場に戻ると何人かは戻ってこんのです。そこで寝込んでるわけ。「おい、呼んで来い!」って言われてよう呼びに行ってました。

 当時の勤務は厳しかったけど、やっぱり教育っていうのは恐ろしいもので、みんなが戦争に凝り固まっとった時代でした。勤務中に怪我したやつらもたくさんおったけど、それでもお国のためにってそうやって働くのが当たり前やと思ってましたから。


神戸中学校

 私らは5年制で中学に入ったんですわ。だんだん戦争が激しなってきたら、のんびりと勉強しとったらあかんってことで4年制に変わったんです。昭和19年の時には、4年制の卒業生と5年制の卒業生と2組の卒業生がおりましたな。だから、今のいじめじゃないけど、私らは大概やられましたな。いわゆる5年生がしごくんです、とろくさいやらなんやら理由をつけて下級生を殴るのよ。学校に工場が出来た時もようやられたわけさ。その点、私は井上さんっていう大学を狙とった人と班を組んどったから「休憩時間はちゃんと電気を消せよ」とか言うてくれたんです。そうじゃないと上級生の威張っとる奴が見回りに来て、電気が点いとるのを見たら召集ですわ。「お前ら戦時を何やと思とるか、電気を無駄使いしとる」って言われてペンッペンッペンッペンッってビンタです。他にも、ゲートルって足へぐるぐるっと巻く脚絆ですな、それを1年生の時には足に巻いて登校ですわ。でも、それがなかなか上手く巻けないんですな。落ってくると叱られるし、きつく巻くと痛い。昔は学校の門の横に奉安殿っていうのがあって、そこに天皇陛下の写真が飾ってあって、いつもお礼するわけです。そこの前に握り飯みたいなでっかい石が並んどって、叱られると罰としてゲートル巻いたまま座らされるんです。そんなとこに1時間も座っとると足がでこぼこになってね。

 昭和20年の8月15日に終戦を迎えますね。私は神戸中学校の校庭で玉音放送を聞いたんです。あの日は昼頃やったかな。大事な放送があるからって全校生徒が校庭に集められてラジオで聞かされたんです。でも聞いた時には訳がわからなかったですね。当時のラジオは今みたいに良いのじゃないからザ-ザ-って音が入るし、天皇のしゃべり方も独特でしたから。それに上級生は前の方に座ってますけど下級生は後ろの方ですやろ、そんなんいくら音大きいしたって聞えませんわな。なんとなく日本が負けたんだという事はわかって、その頃はまだ小さかったですから、やれやれやっと戦争が終わったかと思ったぐらいです。

 終戦後は中学校もまた5年制に戻ったんですな。私はその時3年生だったからあと1年で卒業だったのが、あと2年行かな卒業できなくなったんです。それで、来年卒業かって時期になったら6・3・3制ができて高等学校が出来たんです。だから私らは神戸高校の第一期卒業生なんです。昭和24年の2月に卒業でした。


終戦後の娯楽

 終戦直後からパチンコ屋が出来ました。パチンコ屋っていっても、普通の家や商売が廃業になった家のスペースが空いてるところにパチンコ台を10台か15台置いてやりましたんやに。「おいおい、あそこ行くと玉が10個、15個出てくるぞ」って言うてね。今のように玉がザ-っとは出てこない簡単なもんでしたよ。台に釘が打ってあって、コースを見定めてピーンピーンって自分で玉を打つんです。兄貴と2人で風呂屋に行くと風呂屋の隣がパチンコ屋やったんで「おい兄貴、ちょっと稼いでこか」って言ってやる。でも、全部取られてしもてね。家帰ってくるとお袋に「お前ら何しに風呂に行っとんのや」って怒られて、またお金もろて風呂に行くとか、そんなんした思い出があります。パチンコも昼間は子供がよけおってやってました。風呂代で遊べるくらいでしたから10銭くらいで遊んだんでしょうね。


企業誘致

 昭和26年から昭和63年までは市役所に勤めてました。戦後は復興で板ガラスが物凄い景気が良くてね。そこを狙っておったんですけど駄目でね。というのも昭和24年の卒業当時はレッドパージっていって共産主義を排除する考え方でしたから、会社が雇とてくれやんかったん。それで遊んどってもしょうないで「市役所入れ」って言われて入ったんです。

 いわゆる杉本市長の時代は、鈴鹿は完全な農村地域でしたから商業の土地に替えていかなあかんってことで、当時は紡績を誘致するのが第一の目的でした。今の医療科学技術大学が一番最初に紡績が来たところでしたか。紡績の誘致を図って、それがまあまあ上手くいって、その次に大きな仕事っていうのは本田技研の誘致ですわ。本田宗一郎さんは浜松が本拠地ですわな。埼玉にも狭山工場ってのがありますね。それでこっちにも1つ工場を設けたいってことでね、3つぐらい候補地があったんですかな。他の候補地では料亭へ上がってくださいとか接待されたそうですわ。でも、鈴鹿に来たらなんにもなしに市長室に入って、こんな理由で鈴鹿市はいいですよってお茶1杯で市長が熱弁してくれたん。今まではなんやら食べ物で釣るようなことやったんが、鈴鹿はそうじゃなかった。宗一郎さんもこの人の方がええんかなって思ったみたいですね。

 現地もずーっと麦畑でしたん。あんな広いと「ここの辺です」って言われてもわからんでしょ。そこで、当時の山口係長が職員を集めて、範囲の麦畑に座らせて旗を寝かしといたんや。それで市長が本田宗一郎さんと高台に登った時に旗を上げる合図をしたら一斉に旗が上がった。そうすると「この範囲が工場の予定地です」とそう言ったわけです。そういう要領のいい人だったから気に入られて誘致に成功したんです。

 そうやって財政的には立派な市になったんです。鈴鹿市の復興を感じたのはやっぱり本田が入ってきた時ですね。紡績ってのは娘さんばっかりでしょ。だから、お金も家に送っちゃうわけです。その点、本田は野郎ばっかでしょ。男はよう飲むでね、市としては潤ったんじゃないですかね。マンションもようけ建ってきたしね。

[杉山亜有美]