学校生活
〔開戦の放送〕
戦争を始めるっていう天皇陛下のラジオ放送を聞いたね。学校で廊下に全部生徒が並んで座って、校長先生の部屋の前へラジオを据えて、それを聞いた覚えあるわ。終戦の時もあったけど、開戦の時もあったね。前日くらいにな、ちゃんと通達があって、それで各担当の先生が、明日は何時からっていうことで。その時は、先生の中には兵隊さんもおった。兵隊っちゅうのは、今は兵隊に入っとらんけども、教育召集とかっていって、兵隊に1年やら半年行った人が、また帰ってきて先生やっとる。1日や15日には軍服着ておる先生もおったな。
〔軍事教練〕
私は今の亀山高校の前身の亀山実業学校へ小学校卒業してから行ったけどね、入学する時にね、木銃っていって鉄砲の形に木で作ったのを強制的に買わされるの。竹刀とね。それで教練っていう科目があって、配属将校っていうそれ専門の先生が来とったんやわ。その人らは若い時は兵隊に行っとって、年食ったで学校の先生になったわけ。それでも戦争が激しくなってきた頃には、本当の中尉とか兵隊が学校へ配属されたね。生徒に訓練できちっと教えよってことで国から来たんやろな。そういうことでしたわ。
手榴弾ってのがあって。それは信管ってのを口で引いて、敵にほおると向こうへ落ちてバンっと弾くってやつ。それは模型みたいなので、芯だけは金で外はゴムで包んだような同じ格好のが作ってあったな。それを投げる練習とか。だから学校ではラジオ体操みたいなのもあったけど、それよりも軍事訓練のほうがきちっとしとったな。
海軍工廠へ学徒動員
海軍工廠へ行って、機関銃の弾を作っとったんや。それを住吉の池の所にコンクリで造られた試し撃ちするところがあって、大体10発くらい続けて撃たんならんのが、3発くらいで出やんようになるの。ということは不良品がある、っていう教育やったわ。不良品が多くてね。不良品入れってのがあったの、すごい多かったわ。
工場では上野高女の人と対面するわさ、そうすると男よりも女の子はどうしても優しいでさ、よう知っとる女の子と対面になって、ちょっとニコッと笑ろたりするとさ、その本人1人やなくて隣の人と3人くらい、パッと前へ連れていかれてパンっと叩かれてな。海軍工廠やで、海軍中尉やったな。「歯を食いしばれ」って言うわ。パンっとすると舌を切るでな。
私らと一緒におったのはね、上野高女の人らで年1つ上の人やったわ。その人らはもう実習も済んで、仕事できとったん。旋盤ってあるわな、それをちゃんとやっとったわ。ところが工場の屋根がな、破れてさ。雨が降ると漏るもんで、上野高女の人の後ろに立って、傘持っておったんさ。それも仕事さ。午前に1回休憩ってのがあったけども、帰りたいっていう話ばっかりやったな。ちょっと喋ったりした時も笑顔で「そう」ってくらいのことでさ。
空襲警報
ラジオで空襲警報発令って大本営の発表があったわさ。始め、三重県、愛知県、岐阜県って警戒警報ってでるやろ、もうその時にはB29の音がしとんのや。もうその時には爆撃に入っとるんやに。大体は潮岬からこっちへ入ってくるんや。潮岬から北上中って放送が入るやろ、もうその時は飛行機の音がする。B29は腹に響く独特の音がするの。高度1万メートルやでな。大きい音やなしにな、唸った音。あの時はいやらしい音やと思ったけども、考えてみたら最高の技術の音やろな。その次の日、写真を撮りに大体2機くらい来るわ。夕べ攻撃した跡をな、航空写真で撮るのや。精度を見るわけ。1機か2機は必ず来よった。その飛行機はもう爆弾も何にも落さんかったな。
北伊勢飛行場
今の能褒野町に北伊勢飛行場ってのがありました。初めてのパイロットを養成する飛行場やったな。黄色い練習機がよく飛んどったわ。僕ら小学校におるやろ、するとブーンと音がするのや。ちょうど練習しとって宙返りするの。そしたらパッと音が消えるの。すぐわかったに、エンジンが止まったなって。エンジンが止まったらもうあかへんやろ、せやもんで東庄内の広い田んぼへ不時着すんのや。それで学校が終わったら、ランドセル負いねてそれを見に行くのや。するとさ、羽根とって解体しとったな。死んだのはあらへんけどな。パイロットは特攻隊とかなんとかって出てくやろ、するともうパイロットがおらへんでようけ練習しとったに。
私な、亀山実業学校行っとった時に、新しい型の攻撃機があったんやわ。そんな噂がたっとったな、「あの飛行機は前が重たいで事故が多い」とか何とかって、よう言いよった。それで落ちたんやわ。今の長明寺っていう所に安楽川って言う川があるわ。そこの土手の所に不時着したんやけど、ポーンと伏せてしもてな。それでシートベルトしとるで出るに出られやへんわけ。端へ近づけてくれへんもんで、遠くから見とったんやけどな、スコップでその土手へ穴空けて出しとったわ。そんなことでよう落ちよったわ、練習機も落ちよったし。パイロットも未熟ってのもあったんやろな。18年の暮くらいからはな、攻撃機も北伊勢飛行場に来たわ。というのも分散したんやな。何機も置いとくと爆撃されたらいかんもんで、こっちの方へ持って来たんやな。
終戦
学校で玉音放送聞いて、もう帰りになったから小学校の東側の坂を自転車で登ってきたん。当時、そこらにも兵隊さんが油のタンクを隠しとったんやわ。それで、盗られてくといかんでタンクを監視しとるわけや。その兵隊にさ、「お前早いやないか」って声かけられて。それで「終戦になった」って言ったんや。敗戦とは言わんだでな、日本の国は。それで「終戦って何や」って兵隊さんが聞くもんで、「もう戦争終わったんや」って言ったら、「馬鹿なことあるか」って怒られてさ。その通達ってのが兵隊は遅かったんやに。というのは兵隊には通達するのが難しかったらしいよ。もう命令がきちっといかんの。あの時、陸軍は終戦に賛成せんだんやでな。海軍は止めようって言ったけど、陸軍は止めやんって。軍も混乱しとったんや。
戦後の食糧難と大阪からの買出し
終戦直後は食糧難で、校庭へカボチャを作ったりイモを畑に作ったりさ。終戦になって食糧難が余計に深刻になったわ。戦争の時分は「自分だけよけりゃいい」ってのはいかんっていう教育やけども、終戦になったら、もうそういうような目標を失くした。今度は個人主義、自分さえよけりゃいい。
大阪の人が関の駅で降りてさ、ずっと歩いてここまで来るのさ。それでイモを買ってさ、背中へ負いねてさ。当時の兵隊の大きなリュックとかそんなんを利用しとったな。亀山の駅は大きいで警察の手入れがうるさいの。それで関の駅は小さいもんで警察がおらん、と。中には「金では売らんよ」って言って、自分の着物を持ってお金の代わりにとってくれってのもあったんやに。私の家にも来て会話したことある。田舎の人っていうのは、ええ物はないわけや。モンペ作ったりする生地はあっても、晴れ着ってのは案外とよう作っとらんでしょ。だから大阪の人はもう晴れ着持っとってもしゃあない、金の代わりにとってもらうわ、というような、そういうのが多かったね。物々交換っていう時代があったでね。着物以外なら鍋とかね。ジュラルミンの鍋とか言っとったわ。ジュラルミンっていうのは軽いもんで、大体飛行機に使いよったんやわ。それを持ってきて食べ物と交換してな。
戦後の物資
(物資がなかったから)軍の倉庫へ行って我先にと取りに行ったりしてな。そういう風やな、やっぱり。兵隊さんは持ってくに持ってけへんしさ。なんせ終戦になった時には、鉄砲とか銃剣はみな1か所に集めて、アメリカがそれを没収して、それで解散したんやでな。
その当時、ちょっと欲のある人は儲けたね。この山にはドラム缶もどっとあったんやわ。それを盗んで、若松の漁港の漁船に油がないで売って。若松も若松で買うわさ。ここから遠いけどな、その当時は大八車で薪を若松まで負いねて売りに行きよったんやに。朝4時に起きてさ、大八車で舗装されてないガタガタ道をずーっと。神戸で売れたら若松まで売りに行かんでいいんやけども、神戸で売れやんもんで、若松まで売りに行った。そういうような仕事やったな、終戦後は。戦争時分はそんなこともしとれんかったわけや。戦争負けたら、今度は金が欲しくなってきたわけやな。すると仕事しやないかんけど、仕事ないし、「薪作ったら何円で売れる」って言うもんで薪作って。私はせんけど、私の母親は若松まで売りに行ったことあるな。
戦後の生活
〔青年学校〕
終戦後はな、深溝に青年学校っていうのが出来たんやわ。それで、1週間に2,3日顔出さんならんかったな。要するに、終戦になって若い者を放しておいてはいかん、という政府の意向やったんやろな。だから庄内、椿、深伊沢、久間田と4か村か、そういう青年学校っていうのを創って。行かん人間も多かったけどな。点呼の時に3分の1ぐらいも行かへんだな。米作りや家畜の飼い方、そういうような農業に関係したことを教えてもらうのがあって、2年くらい行っとったな。
〔就職〕
青年学校終ってからは、また百姓やら、いろいろやっとったわけや。それで、日本コンクリートってのが出来たんや。あそこへ5年くらい行っとったな。それから昭和39年に鈴鹿サーキットへ行ったんや。最初はレース場しかなかったな。敷地は買収してあったけど、レース場だけこそあらへんだ。最初は本田のテストコースが主体やった。それで年に何回かレースをやると。夜でもテストするのでライト付けたわ。サーキットのコースはカーブが多いやろ、6か所も7か所もポイントに監視塔があるんやわ。その監視塔の仕事が私らの仕事やった。「今から何台走るよ」、とか「何周走る」とか。それでその時に4輪もテストに入っとったでな。もうその時に本田は海外レースに出て行きよったんやわ、それで鈴鹿サーキットで練習してそれから行かんならんだんやわ。