疎開
私は東京生まれなんです。昭和19年の4月に東京大空襲に遭って強制疎開になって、それで一家着の身着のまま、父の生まれ故郷であった寺家に来たんですわ。疎開してきた当時は東京と違って空襲もないし安心しておれると思いましたわな。それに、小学校2,3年の頃から東京は空気が悪いで田舎に帰って行けってことで、毎年夏に1か月くらい寺家の親類の家で生活してましたから、こちらでの生活には慣れとるでね。新しい土地に来たっていうよりは田舎に帰ってきたって感覚ですわ。でも家はないですわね、東京から疎開しなさいって言われて即やでね。家を建てるわけにもいかんから、空いとる家を借りてそこに入ったんやな。借家みたいなかたちやね。
お父さん、お母さんは働きに行ってたけど、そんなに働き口はないでね、日雇いみたいなもんです。だから、農業をして暮らしとったんやな。少しの田を借りてね。苦労はしたね。東京では農業なんてしたことなかったし、田んぼの田の字もわからんわな。多少は承知しとったけど、米がどうやってなっとるかも知らんかったからね。それに、資金ったって東京から持ってきた資金しかない。当時は農家をするにしても鍬から買わないかんでしょ、幸いにも近くの親戚から足りない物は借りたけど、向こうも使うもんやから借りられる物、借りられない物はありますわな。そりゃ不自由も出てきますわ。ただ、食べ物はね、東京におった頃は苦労したけど、こちらに来てからは親戚とかに貰うからそんなに不自由はせんだね。そうはいっても食べ物の不足してる時代ですから、麦ごはんや雑炊も食べましたよ。甘食もなかったね。物流が途絶えとるでしょ、店屋へ行っても何にもなかったし、砂糖なんか手に入らなかったもんね。その上、着る物も不足しとった。替えのシャツも家に金がないから買いにくいわね。いわゆる耐乏生活ですよ。戦争中はそんな生活を強いられてました。子供心に親が苦労しているのもわかってましたから、学校行きながら何か手伝わないかんと思ってました。だから、勉強はみんなが寝静まってからしてましたわ。でも、空襲があるで電気を消さなあかんわな、そやで、ろうそくを立てて勉強をしとったの。ところが、疲れて眠ってしもたんかな、その時にろうそくを倒してしもてね、本を焼いたことがあります。熱さで気が付いてパッと消したでよかったんやけど、火事になるところやったね。
学徒動員
白子の高等小学校に通っとったんですが、小学校では学徒動員ってあったね、楠の軍事工場に派遣されて風船爆弾や機関銃の弾作りをやりました。我々は働いとる人の手先になって物を運んだりしてました。勉強なんてしてないですね。あの当時はどこの学校も動員が多かったですから、いたるところから動員に来てましたね。河芸女学校や神戸中学も来てました。女子は風船爆弾を作って、我々は機関銃を作ったり、物を運んだりしとるっていうようなことです。毎日8時間くらい労働ですわ。朝8時から夕方5時くらいまでやってましたから。楽しいってことはなかったね。なんで我々が作業をせなならんのやろって思ってました。工場も軍隊方式で厳しいの。風船爆弾作っとるるなんて秘密やで他の人には言えないでしょ、だから風船爆弾作っとる人は寮に缶詰やったね。それに携わっとる人は寮から一歩も出ない生活です。私は電車で通えるだけ良かったんやろうね。寮生活は大変だから。お昼は楠の工場で出されるんやけど、私らのご飯はイモやダイコンが混じっとることが多かったね。それでも、食べ物が食べれるだけ良かったのかな。
動員で軍需工場に行ってた頃は、近くに航空隊があったから爆弾落したり、低空飛行で飛行機が頭の上をグルグル旋回しとったりしたね。四日市とかに空襲があって、夜になっても真っ赤に燃えてましたね。うちの親父達は救援隊で行くわけやね。(そういったところを見ていると)子供ながらに戦争には負けるんじゃないかって思ってた。絶対に口に出しては言えないけどね。
戦後の生活
その当時はね、今の白子小学校の近くの幼稚園のところに鈴鹿市立工業学校ってのがありました。1クラスしかなくて科目は航空ですわ。私も将来飛行兵になるために、そこに昭和20年に入ったんです。三菱の会社に飛行機の勉強しに行ったりしてました。そこで終戦を迎えたわけですな。教室におってさ、クラスの子と一緒に玉音放送を聞いたわけ。聞いた時は雑音ばっかりで、何て言うてるのかわからなかったね。それでも、後で先生が話をしてくれたの。それを聞いた時には、そりゃもう悔しいっていうか、日本は負けたんかっていう気持でこみ上げてくるものがあったね。なんでこんな犠牲を払ってまで戦争せなあかんだのやろってね。子供心に戦争は二度としたらあかんなって感じました。だってね、親が津や四日市の空襲の処理に行ってさ、ようけ死体を運んだわって言うとんのやに。それを聞いたら悲惨な気持ちになりますわ。それと同時に、終戦になればアメリカが上陸して来ますから撃ち殺されたりしやんかっていう不安もありました。
終戦後はね、物流も良くなったし百姓も安心してやれたから、小学校を卒業してからは親の農業を手伝っとったんやな。だけど、一生農業で生活できるかって言われたら私はそりゃあかんやろうって思ったの。兄弟もみんな会社に入っとったし、私も会社に入らなと思ったんです。それで、旭ダウの第一期生として入ったんだね。昭和28年頃ですわ。一般募集があって、その試験には100人くらい来とったやろか。津の会場がいっぱいになっとったんやで。採用は私1人だけやったと思うんです。工務科に配属になりました。入ったすぐは3か月間の実習がありましたね、実地練習やね。ボイラーの監視とか計器の見方とかを学びました。当時は宮崎県の旭ダウから社員がこちら(鈴鹿)に来てましたから、上司はみんな宮崎の人ですわ。言葉がね、純粋の宮崎弁でわからんの。会話する時は標準語で話してくれればいいのにね。それは苦労したね。でもわからんなんて言えへんし、聞き直すと怒られるの。旭ダウも我々が入ってから半年くらいしてからまた募集をしていって、初めは工場でも宮崎の人が管理しとったのが、次第に鈴鹿の人が増えて管理するようになっていったね。
旭ダウには自転車で行ってたの。道伯を通ってさ、山越えて行くんですよ。それが大変でした。夜は真っ暗やしね。帰りは塩屋の道をくるから、そこでよく警察官がパトロールしとって職務質問を何回かされましたね。そうやって過ごしていたけど、やっぱり通うのがつらかったんやろうね、辞めるんやったら早めに辞めて違うところへ行こうと思っていたから、1年ぐらい勤めたら辞めてしまって、その後は富士電機に勤めました。