平野博文さん(昭和6年生まれ、国府地区在住)

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疎開

 私の両親は平野町の出身で、両親が結婚してから兵庫県神戸市に引っ越して、それからずっとそこにおったんです。だから、私も兄弟も神戸で生まれてます。神戸では親父が畳屋をやってました。

 昭和20年の3月に神戸の大空襲で家はもちろん、学校も焼けてしもて、たまたま家の近くにあったお寺の本堂が焼け残ったので、そこで3日間過ごしました。食べ物も着る物も焼けてしもてないんですよ。あの時、非常時に備えて米を節約して残すようにして、それを自分のランドセルに溜めて持ち出せるようにしておったんです。それがあったので、なんとか家族全員がおにぎりを食べる事ができました。でも、そんなの長くはもたないでしょ。両親の実家の平野町には軍需工場もあるし、今戻っても駄目だと言っておったんですが、そんなこと言っておる余裕もなくなって、今度空襲になったら覚悟せなあかんなって言いながら実家に戻ってきたんです。それが昭和20年の3月のことです。移ってきた時は母親の実家の離れを借りて暮らしてました。だけど、親父だけは畳屋の職人だったから、仕事が忙しいって言うんで単身赴任で一人だけ神戸に戻ったんです。

 平野に戻ってきた時の印象は、今まで都会生活だったでしょ、それでこちらに帰ってきたら畑や田んぼばっかやったもんで、何にも心配事がないって思いました。食べる物も畑を開墾してサツマイモとかを作ればいいし、イナゴを獲って佃煮にして食べたりもしてましたからね。そうはいっても我々は都会生まれの都会育ちで米がどういう風に出来とるのかも知らない状態でしたから、農業を始めた頃は慣れない作業ばかりで疲れて体がダウンしたり寝込んだりしました。生活が一変したっていうかね。それでも、慣れてきてからは体もついていけるようになりました。昭和20年8月の終戦以降に、お祖父さんが作っとった田んぼを開墾して、なんとか米を食べれる状態に頑張りました。お祖父さんが死んでからは一家で農業を始めたんですわ。今思うと、お祖父さんが農業やっとんのを手伝いながらいろいろ教えてもらったりして、お祖父さんの存在は大きかったですね。

 当時の思い出としてはね、鈴鹿市でも白子に海軍航空隊っていう日本の海軍の飛行機がようけおったんですわ。アメリカの飛行機が飛んでくると、それを撃ち落とすために飛んでって空中戦になりますでしょ。それで、両方とも海に落ちたとかアメリカの兵隊を捕まえたとかって言うて、その姿を見に私も面白半分で白子の港に行ったことがあるんです。そのときのアメリカ兵の顔は覚悟しとるっていうかね、殺されるってわかっとったんとちゃうかな。私らもね、終いには「いくらアメリカ兵っていったって生きとる人間を殺したらいかん」って抗議したことがあったね。


海軍工廠で働く

 うちの兄弟は男が7人と女が1人でした。長男は自ら志願して海軍に入って、2番目の兄貴は三菱造船所っていう軍艦を作る会社に行ってまして、3番目が私で海軍工廠で働いてました。それから下はまだ学生やったもんで、みんな学校に行っとったんです。私はたまたまこの集落の中で海軍工廠にお世話になった人がいたので、その人の口添えで入れてもらえたんです。工廠内では学徒動員で中学生もおりましたね。一般工員には、私みたいに口添えで入ってきたり志願して入ってきた者もおれば、徴兵制度で引っ張られてきた者もおりました。女子挺身隊もおりましたよ。私は14才で入ったもんですから、工員の中では一番の若者で女子挺身隊の方々に可愛がってもらいました。

 私は機銃部で使う工具類を作る仕事をしてまして、機関銃を作る工場ではあったけど、直接機関銃を作ったりはしなかった。長い建物が2棟ぐらいあったから200人ぐらいで作業してたと思います。その中の1割ぐらいが女子挺身隊でした。女子挺身隊の方々は四日市辺りからようけ来てました。男性は日本全国から来てましたね。私の班長は紀州の方で、その人はきつい時はきつかったけど、私らの事を大事にしてくれました。今でも顔をはっきり覚えとる。もう亡くなったけどね。

 工廠では夜勤もあったし、昼夜ぶっ通しで16時間勤務なんてのもありました。家から通ってたから朝7時半ぐらいに自分の弁当持って工廠まで歩いていって、帰りもまた歩いて帰ってくる。時にはアメリカの低空飛行の艦載機に狙われて機銃で撃たれてね、逃げまくってなんとか助かった事もありました。その時には日本の飛行機が空を飛べないくらいアメリカの勢力が強くてね、そこら中をアメリカの飛行機が飛びまわって機銃掃射されても日本は手が出せないっていう状態でした。日本の飛行機は減ってしまってないし、たとえ飛んでいったとしてもすぐに撃ち落とされる。だから飛行機は防空壕っていう、上から屋根被して隠すところに入れてあって、飛んでいくことはできなかったですね。

 私らはえらい目して必死で働いとったから、何としても日本に勝って欲しいと思とったんです。みんな「必勝」と書いた鉢巻してね。あの頃は国から日本は絶対に負けないって教育されてんです。一種の洗脳ですね。みんな日本が負けるなんて思ってなかったし、そんなこと言ったら憲兵に引っ張られてった。だから、玉音放送があって、天皇がお言葉を述べられた時には泣いてる人もいたし、皇居では軍隊の偉いさんが腹切って自殺したなんてこともあった。海軍工廠ではそんな人おらんだけど、これから日本はむちゃくちゃされるとか、女の人は男の人みたいに髪を切って鈴鹿山脈の方へ逃げやなあかんとか噂はありました。それは嘘やったけどね。実際のアメリカ軍は紳士的で、日本に進駐してきたけど子供にチョコレートくれたり、病気になるとDDTとかいう薬を配ってくれて、それで消毒したりね。日本は幸いなことにアメリカに占領してもらったから沖縄も返してもらったし、北と南で分散もされやんとよかったんですわ。それがロシアに占領されてたら今のような生活はできてなかったと思いますね。


戦中戦後の食事情

 戦争中は食糧難でしたから一家総出で畑を耕してサツマイモを植えて、それをふかしたり焼いたりして食べた思い出があります。今でも忘れる事ができないですね。米の代わりに麦を食べたりトウモロコシを食べたり。サツマイモなんかいい方でね、玄米を精米した時に出る米糠を練って焼き団子にしたり、大豆をフライパンで炒って食べたりとかそういうものもありました。兄貴は三菱造船所にいたから、米もなく大豆を炒ったものを米代わりに食べていて、栄養失調で倒れて平野へ帰ってきたんです。その時は何か食べさせてやりたいと思ったけど、食べ物がなかなか手に入らなかった。母親も苦労してました。ちょっとでも栄養のあるものをと思って、魚屋に行って生きたコイを買うてきて、その生き血を飲ませてもらった。生きたものの血っていうのは、殺生やけど精力はつきますね。私らは都会で生活してましたでしょ。だから、ヘビやネズミを捕まえて食べたりしてました。他に食べる物がないと、怖いとか汚いとか言っておれなかったんです。終戦後、食べる物も良くなった時にはあんなものよく食べたなって思いよったもんね。

 終戦後も食糧がなかった時には売り出し部隊と買い出し部隊っていうのがあって、田舎からサツマイモや米なんかを都会に売りに行ったり、逆に都会から米を田舎に買いに来たりってのがありました。でも、それっていうのは法律に違反するもので、闇取引といって、汽車の中で警察に見つかると全部没収されるんです。高い金出して買った米でも否応なしに没収です。私も売り出しにいった経験があるんです。自分達で開墾して作った作物を売りに行きました。私らも生活の糧にしてましたんで、違反とはわかっていてもそうせずには生きていけなかった。あの時は立場が都会生活から田舎生活に変わっとったから売り出し部隊だったけど、あのまま都会にいたら買い出し部隊になってたかも知れないですね。


戦後の生活

 玉音放送は昼の12時くらいに天皇から大事な放送があるから集まれってことで工廠内の1か所に集められて聞いたんです。初めはなんて言ってるかわからなかったんだけど、将校で偉いさんが「日本はイギリスやアメリカに負けてしもた。海軍工廠もこれをもって解散にする。」っていう挨拶があって解散になったん。その時に、最後の土産ってことでペンチとゴムの長靴を1つずつもろたんです。たいして使い物にはならなかったけどね。

 その後は、成人しとる大人がなんにもせんと遊んどると法律に引っかかって遠いところに仕事に飛ばされるっていうのがあったもんですから、必死になって職を見つけないかんってことで、毎日職業安定所に通いました。決まった会社というのがなくて井田川とか加佐登から四日市まで通って、重労働の仕事もしました。それから鈴鹿に旭化成が出来たでしょ。出来た頃はアメリカと資本金を半分ずつ出した合資会社やったんで、旭ダウっていう名前だったんですけどね。鈴鹿工場が出来てすぐの昭和28年6月にそこに入社して、それから39年近く勤めて満60才で定年退職したんです。旭化成に入社した時ぐらいから生活もだんだん安定してきました。食べ物も着る物もそんなに不自由しなかったし、乗り物も自転車、車にもだんだん乗れるようになってきましたね。

 旭化成では、指導する立場の人が本社のあった宮崎県の延岡からきて、我々の教育をしておったんです。だから20代、30代の人が多かったです。女の人も学校卒業したばっかの未婚の人が多かったですね。出身も鈴鹿かその付近から来てる人が多くて、遠いとこから来た人は会社の寮に入ってましたね。初めの頃は従業員も400、500人ぐらいでしたかね。男女で仕事も違って、男は糸を紡ぐとか原料関係の仕事で、女はボビンに糸を巻く巻きとりの仕事をしとったん。私は原料場におったんですが、途中で工場の中で使う電気、水とか圧縮空気とかそういうのをつくる職場(動力係)に移ったんですわ。時間も3交代制で昼の部、昼から夜半分、夜の後半から朝までの3班に分かれて機械は止めずにずっと作業して、それが1週間で入れ替わっていく制度だったんです。女の人も2交代で昼だけと昼から夜半分とあったん。夜遅くに家に帰る子は守衛が護衛のために付いていったり、寮に入ってる子は寮で泊まりよったん。初めの頃は若い人が多いからやっぱり活気があって元気でね、恋愛ももちろんありました。社内結婚された方も多かったと思います。

 一番の思い出っていうのが、今も忘れないけど、伊勢湾台風の時ですね。あの時はちょうど会社に勤務中で本当は8時間したら帰れるんだけど、次の交代の人が家の具合が悪なったってことで出勤できなくて24時間会社にいました。風はひどくなってくるし、天井は破れるし破片は飛んでくるしで、40年近く旭化成におってあんな怖い目にあったのはありませんでしたね。戦中はアメリカの飛行機に狙われて撃たれそうになったことはありますけど、その時の怖さとはまた違う怖さでした。

 私も60歳で退社して今が82歳だからもう退社して20年以上になります。ちょっと前にOBで工場見学をさせてもらいました。古い機械もあったけども新しい機械がたくさん入ってだいぶ昔とは変わってます。

[杉山亜有美]