稲垣俊夫さん(昭和7年生まれ、河曲地区在住)

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戦時中の生活

 旧制神戸中学1年の時に終戦。1945年の大東亜戦争に負けた年です。勤労奉仕はよく行きました。農家も出征兵士の家庭が多いから、春の田植え、秋の稲刈り等農繁期は手が足りません。おじいさん、おばあさん、お母さんが一生懸命やっておられました。小学校5,6年生から中学の1年生の終戦の頃までは、よく農家の手伝いに行きました。

 学徒動員は中学2年生以上が工場勤務に行っておりました。1年上の2年生が鈴鹿海軍工廠に行って、機関銃を作るために旋盤とか、やすりを使って作業をやっていました。旧制神戸中学の講堂、体育館も床を抜き、工作機械を据えて一般の方が兵器を作る作業をやっていました。勉強は土曜日だけだったと思います。1年生はフリーランサーですから、学業を放棄して、飛行場周辺の草刈りとか、農事試験場の作業とか、百姓の手伝いとかによく雇われました。食べるものがない時期でしたから、大変疲れる仕事でしたが、百姓さん行くのは、おにぎりとか小昼とかが出るので逆に楽しかった。

 鈴鹿は大きな農業都市でしたが、周辺も含め、確か軍の連隊が4つあり、軍隊が農作物を全部買い占めるから一般の庶民には当らないということでした。市民も街の人間は栄養失調の状態で大変な時代でした。主食はサツマイモで、雑炊を食って学校へ行き、軍事教練、勤労奉仕で、ヘトヘトでした。身長も伸びない時期がありました。

〔航空隊での飛行機見学〕

 大東亜戦争が始まったのが、昭和16年12月8日、国民学校(小学校)3年生の時でした。今でもはっきり憶えていますが、朝、学校へ行くまでにラジオ放送で西太平洋上において戦闘状態入れりと大本営の発表を聞きました。

 学校では春か秋に遠足があります。確か広瀬の奥にあった陸軍航空隊で戦闘機の「隼」とか「鐘馗(しょうき)」を見学しました。航空隊の方が飛行機の側まで案内して見せてくれて、お前らも大きくなったら操縦桿を握って敵機と戦えとか言って励まされましたね。実物を見て感激しました。海軍の白子航空隊は前線基地であり、「零戦」「紫電改」「雷電」「一式陸攻」など戦地へ赴く飛行機が飛ぶのをよく見ました。


兵隊との交流

 神戸の私が育った実家のそばの公会堂を宿舎にして、応召兵なんでしょうね、若干お年を召された白子航空隊の方が10名余り生活されていて、子供の私達とも夕涼みをしながら話をする機会がありました。

 故郷にはお嫁さんや子供さんもおられるような方が多く、軍人というよりも一般人のような感じで、なかなかいい親父さん達でした。その方から広島に原子爆弾落ちた時に「新型爆弾が落ちて、大変すごい威力だったらしい」という話をいち早く聞きました。国民にニュースとして知らされるのはいつも遅く、大本営発表は嘘だらけであったようです。その後、長崎に原爆が落ちて、それらが引き金となってポツダム宣言の受諾となり、敗戦を迎えたそうです。これらの事を知っておられた方は将校さんで大分偉いさんやったのかもしれません。


終戦の日

 旧制の中学には配属銃といって、本当の戦争には使えない訓練用の銃があり、多分三八銃と思いますが、先輩達が訓練時に使用しておりました。当時、軍需品が不足しており、本土決戦に備えて、民間が持っている軍需品は軍に返させるという国の方針だったと思います。それで終戦の日(昭和20年8月15日)に、久居の38連隊にその銃を返しに行きました。神戸中学での配属将校は浅野弥衛さんでしたが、この方の引率で銃を返しにいきましたので、玉音放送を聞くことはできませんでした。神戸周辺の1年生が重い三八銃を1人3丁ずつ担いで、約50丁くらいを朝の一番列車に乗って、久居の連隊へ持って行きました。ところが、そこで収まらず、その銃を遠い山の中にある射撃場まで運べという命令で、大八車に積んで延々と引っ張って運びました。軽機関銃も数丁。これは先輩が運びました。射撃場では、我々には見えませんでしたが、実弾を撃つ音が響いておりましたので、テストもしていると思われました。空の大八車を久居の連隊に返して、久居の駅には午後1時頃に着いたと記憶しております。ところが、その日はいつも飛んでくるB29が飛んで来ないのです。毎日見ておりますから、すぐわかりましたし、周囲の雰囲気が何かおかしい感じがしました。みんな、腹ペコでその辺にへたり込んでおりましたが、引率の浅野さんが駅長室に聞きに行かれ、「玉音放送」があったとのことでした。玉音放送の内容は家へ帰って家族に聞きなさいと言われ、誰もわからずに帰路につきました。電車に乗って白子駅まで来たら、航空隊の人間が酒に酔っぱらって乗り込んできて、「日本は負けていない。戦争はこれからだ。」と叫びながら、軍刀を振り回すので、危なくて乗客は遠ざかりました。、みんなが大変な異常事態が発生したことは認識したと思います。家へ帰って日本が負けたことがわかりましたが、近所のおばあさんは「今晩から、防空壕に入らんでもいいし、灯火管制しなくてもいい」と割り切っておられました。しかし、大部分の国民は本土決戦を前提に「撃ちてし止まん」の精神でマインドコントロールされておりましたから、やはり敗戦は将来の不安もあり、悔しいやら悲しいやら複雑な気持ちだったと思います。


戦後の部活動

 学制改革により、私は中学3年より神戸高等学校1年生に編入になり、当時の2年生は新制中学へ転校となりました。旧制中学2年の時に男女共学となり、高等学校に編入の時に鈴鹿市を地域で分けて神戸高等学校と白子高等学校に分かれることになり、旧制神戸中学に同期入学した友達とも別れました。女性も同様でありました。

 高等学校では水泳部に入っていて、6月から9月は放課後は、下駄ばきで歩いて白子のわかもとのプールまで行き、このプールを借用して水泳の練習をしました。もとは白子航空隊の立派な50メートルプールで、片方には高い飛び込み台もありました。海軍の人間は泳げなくてはいけないので、みんなここで練習されたのでしょう。今はインターバル練習を盛んにやって、短距離を速く泳ぐ練習をし、そのまま距離を伸ばす方法を採用しているようですが、我々の時は長距離を流す泳ぎ方で、距離を泳ぐのは平気でしたが、スピードは全然出ませんでした。コーチもおらず、勝手に練習しておりました。プールが掃除とか修理で使えない時は、千代崎とか鼓ヶ浦へ行って、海の沖の方へ出ると、波が静かになる所があり、そこで練習して、また、海岸まで泳いで帰ってきました。楽しい思い出です。


鈴鹿市誕生時のイベント

 神戸国民学校の3年か4年の時であったと思いますが、市制誕生の学校の祝賀行事の一端として、鈴鹿市1周徒歩大会が行われました。

 行程ははっきり憶えておりませんが、学校を出てまず石薬師へ、加佐登、庄野、住吉、道伯のあたりから帰ったのが、初級。そこから稲生、白子、千代崎へ行って帰ったクラスが中級。更に、箕田から長太、一ノ宮、高岡経由で帰ってきたのが上級だったと思います。

 早朝に出発し、1周したメンバーが帰って来た時はもう真っ暗になっていて、家族が心配して学校へ迎えに来ておられました。歩いた生徒の最下級生が我々のクラスで、それ以下はなかったから、体力に合わせて、強制ではなかったと思います。又、初級、中級、上級の判断も自己判断で、歩いた結果により自由に帰れました。日も短い時期で昼食をとったくらいで休憩もなしにひたすら歩いた記憶が残っております。一番下級生の我々のクラスで頑張って歩いたのは2,3人でありましたが、後刻、校長先生より褒めて頂き、賞状か何かを貰いました。

 他には特に行事とかはなかったと思います。鈴鹿市が生まれたということは全校生徒に校長先生、神戸町長から話があったと思います。この歩く行事も、神戸国民学校で企画されたものだと思いますし、他校がどうされたか、教育委員会、或いは、市の方から何らかのお達しがあったのかは我々にはわかりませんでした。

 以上70年も前のことで往時茫茫、いろいろ間違いの部分もあることと思いますがご勘弁下さい。

[※小川真依の原稿をご本人が表現を改めた]