学校生活
私は牧田の端(はた)の甲斐の生まれでな、牧田の小学校です。今は広くなりましたけど昔は(人数が)少なかったですでな。牧田ってのは小さい学校でした。私の時分はな、入学の時は女13人、男17人のそんだけでした。戦争になって、工場やら会社がようけ来ましたやろ、平田の方へ。それでだんだん増えましてな。倍にもなりました。私は戦争の終った年に6年生で卒業です。私らもう5,6年生の時は戦争で勉強もできやしませんだ。運動場もみんなおこして、サツマイモ作って。上の人はみんな学徒動員で行ってますやろ。私らも堤防の草をみんな摘んで堆肥にしたり、学校の下肥もみんなでつって、肥やしにした。そんな時代でした。
よそからの子
戦争中は子供同士でもさな、イモやあられをやるやろ。そしたら毛糸持ってきてな。そうやって少しずつ交換しよったですに。昔は手袋編んだり、靴下編んだりしよったんですよ。その子らは町の子やでええ毛糸持ってきよったです。広島や京都なんかから、みんな遠い所からようけ来てますに。工廠が出来て、大池と病院の建っとる端回(はたまわ)し(近所)は官舎があって会社の偉いさんが来てます。家族もみんな来て子供も学校に通っとった。牧田はそういう子が1番多いですやろ。それで元は少なかったのにどんと増えました。今でも同窓会しますに。
算所の爆弾
警戒警報が鳴ると学校から帰らんならんかったんです。ほんでみんな帰って、私は甲斐まで来たら、ダダダーンって音がしました。その時爆弾が落ちて。16発くらい落ちました。私の妹が後に嫁いだ先の家はさ、敷地内に3つ爆弾が落ちましたん。その時、妹の夫は私より2つ上やもんで学徒動員で出てって家におりませんだん。その人の兄さんはあんな時分やもんで名古屋の会社へ行って留守でした。そやもんでその時、家の内におる人が4人死にました。その家は。お父さんとお母さんと、私の同級生とその姉さんと。それと三日市へお嫁入りしとった人が、旦那さんが兵隊へ行ってみえたもんで、都合の悪いことに帰って来てみえたん。そしたらその時に爆弾が落ちて。その人だけは足を切断する怪我をして。もう3年か4年前までみえましたけどな。その時はようけ亡くなりました。算所の宮さんには死骸がいっぱい積んであったようですけど、私は気の毒でよう見に行かん。その妹の嫁いだ家も壊れてまして、中はみんな空でしたって。ちょっと使える様なものはみんな盗んでってしもて。家の者はみんな死んでしまってますやろ。中の物は何にもなかったって。
中学時代とその後
戦後、私は6年生にあがって高等へ行って。そんで新制の中学校が出来ますやろ、私らその中学校の第1期生です。その時は第二中学っていってな、平田野中学が出来る前に1,2年ありましたんやわ。庄野と汲川原と牧田とが一緒で。みんな歩いて通いましてさな。それも人数が少ないんですわ。家もない、学校もないですやろ。でも海軍工廠の女子寮がありますやろ、そこで勉強してさ。運動場も何にもなかった。教科書も無くって、1年間プリントで教えてもうた。高等に2年と行ってますやろ、だからあと1年で済むわけ。卒業は終戦後の23年ですのやわ。
中学を卒業してからは家におって、農業の手伝いです。あんな時分は働きに行くとこってあらへんださ。私は農閑期だけはお針習わせてもらってな。農繁期は農業を手伝ってました。そんで田でもな、私の家は人手があるのでようけよそのを手伝ってましたんやわ。親戚の人が兵隊に行ったり、家の端にも兵隊に行った家があったので。精一杯作ってましたやろ。どっこも勤めやんと手伝ってましたん。
サトウキビ
実家は甲斐の在所でな、畑にようけサトウキビ作りました。子供の頃はそれを切ってよう食べましたに。甲斐に砂糖に加工する家が2軒ありました。サトウキビを剥いてさな、(器具を繋いだ)牛でグルグル回って絞るわけ。そうやって出た汁を、朝から晩まで大きな釜で炊いて煮詰めますの。それを桶に入れてもらいます。そうやってようけ作りました。砂糖はその黒砂糖があったですやろ。子供の重湯もさな、その黒砂糖で砂糖の代わりにして、真っ黒な重湯を飲ませましたに。赤ん坊はようけ栄養失調で死にましたわさ。私の兄弟も2人死んでます。そら、10人もおったら死にますわな、戦争中にな。生まれた子はな、手でも、もう骨と皮でな、細くて。こんな子、よう生きとるなってくらいの。それで母は歳とって乳がでませんやろ、牛乳だってよう買いませんやろ。乳の代わりにご飯炊いた時の汁を取りますの。それでもあかんだな。みんながなかったんやでな。ご飯が足らんし、イモやそんなもん食べてさ。
旭ダウに土地を売る
昭和26,7年かな。そんな時分でしょうな。土地を買うてもらったんやな。別に「売りたい」って言って売ったんではなく、強制的みたいなものやろ。甲斐はな、田は在所にあるけど畑みんな平田の方にありました。今のベルシティもそうやしハンターも、あの辺はみんな甲斐の土地でしたんやに、昔は。私は子供やで知りませんけどな。それでもその時はお母さんが病気でお金欲しいし、土地買うてもうたで喜んでましたわ。みんなどこでも工場が来たり、本田や学校が来たりした所は、ほとんど強制的に土地を出して買うてもらいましたけども。その時にその端で取られやんと残っとった人が儲けましたの。その後に土地を高い値で売って。端に残った人がみんな儲けた。私とこは貧乏くじ引いてさな、みんなその時に取られてしまったんです。
騙しの商品
痩せたおばあさんが米を田舎で買うていきますのや。町の方から着物やそんなの持ってきて。米を腹に巻いて内緒で駅へ持って行ってな。私は顔もよう忘れやんと。戦争中、しょっちゅう同じ人がようけ買いにござって。
私が嫁入りするちょっと前にな、困った人がようけおってな。騙されました。「これは純毛や」って言って、ようけ巻いてある布の端の方をちょっと取ってさな、シュッと焼いて見せますのやわ。すると、純毛やと燃えますのやわ。それで本物やって言って。私らはそんな着る物もないもんでさな。昔は家で作りよったで、作るのに買いますやろ。すると巻いてある中身は純毛と違いますのや。純毛なのは先の方のちょっとだけで、嘘。そうやって騙し物を売りに来るの。食べ物と替えてもらいにな、着物を町から売りに来よったんですわ。
〔嫁入りの着物〕
私は31年にここに来ましたんやわ。そのちょっと前でしたんさ、お母さんはもうおらへんだです。それで嫁入りの着物拵えせんならんだです。そしたらきれいな嫁さんが、ええ着物を5,6枚持って泣いて家に入ってきますのさ。それで、「なんで」って聞いたら、「着物を拵えてもらったけど、反対された旦那と一緒になったら、勘当やって言うて、家にも帰れやんし、子に飲ます乳がないで」って泣きますのや。泣いて持ってきて風呂敷広げますの。ちょっと見るとええ着物に見えますのさな。せやから、私とこのじいさんは情けの深い人で「かわいそうに。そしたら、わしとこ娘がおるで買うわな」って、その時は帯とええ着物と羽織とを3枚買いましたんや。そしたらその嫁さんは喜んで帰ったん。それから1時間もしたらな、また同じように泣いて入って来ますのや、違う人が。これは騙されもんやってことに気が付いてさ。その人は「神戸の常盤町のとこに家借りて入っとる」って、「また来てくれ」って上手いこと言いますやろ。ほんで家はおじいさんがな、「神戸の方は心安い人がおるし邪魔するわ」って言ったすぐまた後追いにさ、一緒のようなのが入って来て。今度は兄さんがさな、わざわざ金もあらへんのに農協までお金出しに行ってさ。5万くらいしたと思う。ええ着物やったで、「(新しく)作らんと、これ持ってけばいいわ」って言ってさ、買うてくれたん。そしたらそれも嘘、騙しでさ。着たら物が悪いの。そんでよう忘れん。
それでも私はお母さんおらへんし、着物よう拵えんし、嫁入りにそれ持ってきましたんや。そして嫁入りの晩に着たら、くちゃくちゃになった。結婚式の場では羽織を着やんならんですやん。「絵羽の羽織や」って言われて、ええ物に見えたし、絵羽と思っとったん。そしたらそれも人絹のぼっこな羽織でさな。騙され物ばっかり買うてさな、私。それよう忘れませんもん。それでこっち来たらおばあさんに「嫁入りに着られるようなもんやないなあ」って言われてなあ、私。昔は式を家でしよったですやろ、最後にその着物と羽織をちょっと着たら、もうくちゃくちゃになってさ。
おじいさんが神戸の方へ見に行ったら、もうそこらへんにはおらへんのですやろ。どこ行ったかしらん。どこへも言うてきようないですやろ。もう泣き寝入りですわ。