男性(昭和7年生まれ、牧田地区在住)

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小学校時代の思い出

 私は生まれた時からずっと算所に住んでます。家は農家をずっとしとってね。私も戦争中、牧田小学校に通っとった時に勤労奉仕をしたというか、戦時は食糧危機で校庭もサツマイモとか麦とか作っとったりしたわな。敵が来たときのために竹槍の練習とか防空壕掘ったりとか、勉強よりもそういう事の方が多かったね。無論、勉強はしとんのやに。それでもずっと防空頭巾を被っとるか近くに置いといていつでも逃げれるようにしといて、警戒警報ぐらいなら学校におったけど、空襲警報になると学校から帰されるわけさ。我々が子供の時分は空襲警報が出ると喜んで帰っていきよった。勉強せんでええやろ。まぁ、そんなことの繰り返しやったね。

 勤労奉仕をしたのも戦争が激しくなってきた時で、私らが小学校6年生の時分にはしとったね。その上の中学生なんかは学徒動員で引っ張られてった。だから、学校に残っとんのは小学校6年生までと高等科1,2年の家が農家をしとる者だけ。農業の経験のない者はみんな学徒動員でいろんなとこ行っとった。農業するって言ったってあの頃は今みたいに機械化してないやろ。だから、農器具も自分の家にあるのをみんな持ち寄ってやったわけさ。牛を持ってくる者もおった。作業も今日は何時から何時までって決まっとって、みんなで一斉に作業するのさ。毎日しとるわけではないけど、農繁期の時はせなあかんだの。

 他にもね、子供ながら考えていろいろな事をしてましたよ。今の学校は全部鉄筋コンクリートでできとるでしょ。でもあの時分は無論、木造やんか。学校の天井の板をみんなきれいにはずしてね。海軍工廠の資材置き場から大きな竹を持ってきて、それを割って飛行機の胴体を作る。それから、はずした天井の板で羽を作って模型を作るんです。それを持ってって、敵がそれを狙って撃つようにしたんです。浅はかな考えやね。そんなん子供がやっとることやで、きちっとした飛行機の模型やなくて、あくまでも格好作るだけのことやから、敵から見ればすぐにわかるのにな。学校の天井をはずしたのにはもう一つ重要な意味があって、焼夷弾って直径10センチくらいで6角形をしとったから、小学校に焼夷弾が落ちたらそれが天井で止まるでしょ。だから止まらないようにっていうこともあったん。


算所の爆弾

 私はね、腕白だったからいつも学校が終わると遊びに走っとったんやわ。それが、あの日は家の近くの藪に防空壕が掘ってあったんやけど、ちょうどそこに何気なしにおってね。そしたら爆弾が落ちたん。落ちてから母親が「それー!」って言うて飛び込んで。静かになってから鈴鹿川に逃げたんや。落ちてからやで。そんなん意味ないやないか。外に出た時には道路も何もなくみんなヘドロだらけやった。7月やったから田んぼには稲も生えてない頃で、そのヘドロがこの周辺に飛び散ってまっ黒になっとった。東北の津波の時と一緒で、あとはがれきだらけ。人も24人亡くなって、その中には私の同級生もおった。一家5人死んだ家もあったに。私らの家はちょっと外れとったで助かったん。他にも同級生で足に破片が刺さってよう走らんだんもおった。そんな人らはみんな海軍の海軍共済病院まで連れてったんやけど、そこも人がいっぱいで入り切らんもんで鈴鹿川の橋の下に寝かしたん。そしたら夏やでさ、蚊に食われるし暑いしね。それが7月の24日。死体は農家の共同作業所に持ってった。いっぺんに焼ける火葬場なんてないから防空壕に24人寝かして、夜やったら明るなってアメリカ兵の目標になるから昼間の内に焼いたんさ。爆弾が落ちた跡も自然とゴミ捨て場になったり、池になったりして、埋めもせずにそのままやった。そりゃ機械も何もないでな。ごみやがれきで埋まってった。

 算所の爆弾もさ、海軍工廠を狙ったと思う。それが算所に落ちたんやないかな。とにかく工廠の方から降ってきたんやでね。バーっと雨が降ってきたのかと思ったらドーンッとやられたんやでな。それはすさまじい光景やって、それからいっぺんに怖なってしもて。それまでは空襲警報が鳴っても勉強せんでええって喜んで遊びに行きよったんが、もう震えあがってしもてさ。あの時に戦争というのは恐ろしいものだと実感したのやな。


兄の出征

 うちの兄も出征してます。内地やったから、行って1年も経たずに名古屋で終戦を迎えて帰ってきましたよ。兄が出征する時は、みんなで見送りに行きました。神戸の駅まで送ってってさ。旗を持って軍歌を歌って。兄を送る時は、表面上は「お国のために頑張ってください」って言うとってもやっぱりさみしさを感じました。それは他の人も同じとちゃうかな。在所の者で出征やって言うたら家に紅白の鳥居建ててもうて、そこから駅まで行くんさ。出征者は赤い襷して衣裳も着てね。けど、それは戦争が始まった頃の話で、最後の方はみんな引っ張られてっとったから、そこまでせんだかもわからんな。終戦になってからは紅白の鳥居が黒になったりしてね、要するに戦死者さ。それをまた迎えてね。算所でも10人ぐらい戦死してますから。


食べ物

 うちは百姓もしとったでさ、食糧危機やったけど本当は食べようと思ったらお米もあったわけ。供出があったって自分ところの食べる分ぐらいはあるわさ。だけどね、私の同級生で一番多かったんが海軍の偉いさんの家でさ。学校で昼飯食べる時はみんな弁当出すやろ。その時に、うちのはご飯が入っとるけど友達のは大根やサツマイモが入っとる。他の家やと配給米しか食べてないからサツマイモがどんと入っとったり、サツマイモの茎を食べとったり、そんなんやったん。そうしやんと食べてかれへんのさ。うちの母親が厳しい人だったから、そういうのは他と同じにせなあかんって言って同じにしとった。だから、芋飯とか麦飯を食べて生活してました。


戦後の生活

 終戦後は進駐軍が来てね、道路をジープで走っとった。うちは昔から人寄りが良くて、警察もよう来とったし、神戸でなんかあると平野の人らはうちで休憩してったりしてたんです。そしたら進駐軍もうちに来るようになってね。最初は怖くて逃げよったよ。そりゃ初めの頃は女の人はみな隠せとか、髪の毛を剃って男みたいにしとれとか、男の若いもんはみんな殺されるとか噂が流れとったで。ところがそやなかったん。進駐軍は優しい人ばっかで、チョコレートくれたりしたで子供らは寄ってってね。そうやって次第に交流するようになってった。戦中はABCなんて言ったら怒られよったから英語なんてしゃべれないでしょ。だから交流っていってもジェスチャーしたりそんな程度でしたけどね。

 昭和21年から22年ぐらいだったと思うけど、算所にもバスが走るようになったんや。算所は交通手段が少ないでしょ。だから、その時はとっても便利なものが出来たと思ったね。燃料のガソリンが少ないやろ。だから木炭車で走っとったわな。スピードが出やんから止まってきそうで、時には後ろから押したりしてね。でも、便利やからようけ乗っとったですよ。私も乗りました。当時はバイクもないし自転車も家に1台あれば良い方だったからね。

 算所にもパン作っとる人がおってな、パンっていうてもあんパンや。それが1つ5円やったん。今は100円以上するやろ。うちは家で小麦を作っとったから、小麦1升持ってくとパン8つ貰えたん。そのパン屋も終戦後に出来たな。というのも、終戦になって兵隊さんがみんな帰ってきたりとか、名古屋とかから疎開してきた人がおるわな。その人らが百姓しようと思っても職がないやん。だからパン屋さんする人もおれば、他の事する人もおったり、そうやってなんでもせな生活できんだんさ。泥棒もしとった人もおるでしょうな。生活かかっとるでな。私らはここに土地があったから生活してけたのさ。あの頃は物作っとる人が強い。

 戦後、私も商売しとったんやけど、その材料買いに京都まで行っとったん。金で売ってくれやんから腹に米巻いてってな。たまに亀山の駅で見つかってね、没収やさ。そうするともう京都にも行けやんからしぶしぶ帰ってきたりしてな。警察に検査されるのは亀山の駅だけやった。だから、そこでは米の入った荷物を持っとっても軽そうにしとらなあかん。そうせんとあやしまれるやろ。

 戦後の娯楽っていったら映画やったね。神戸に映画館があって、一六休みになるとそこまで歩いて見に行くのが楽しみやった。白子にもあったけど、そっちには行かんだな。この辺では1と6のつく日は昼から休みになったで青年団で見に行ってね。よう見たのが時代劇やった。1週間ぐらい1つの映画がやっとってさ、毎週見に行ったら月に4つも見にいけるでさ。芝居も見に行った。それぐらいしか遊びなんてなかったやろ。パチンコもやったけど、1つの玉をパーンっと打つだけでさ、今みたいにジャラジャラ玉が出てくるのとは違ったからね。それから、卓球も若い時はよくやったね。私ら卓球台も作ってもうてさ、今もその卓球台が神社の倉庫に残っとる。

[杉山亜有美]