小林潤子さん(昭和8年生まれ、白子地区在住)

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 私の父は関東出身で大卒と同時に、三重県の旧制の河芸高等女学校に赴任してきました。 当地で母と結婚し、間もなく大分県に転任しました。私達姉妹は大分県で生まれました。


自家に借家人が入っていた

 終戦になって本籍地の鈴鹿市に一家をあげて帰ってきました。船舶や電車を乗り継いで白子駅に降り立った時、私達子供は、幼い時数回帰ってきたのみですから、全く新しい知らない町に来た感じでしかありませんでした。

 ここで生まれ育った母は駅から海に続く道が広くなっているのに驚いて「広い道だわ。戦時中に家屋の疎開があったんだわ。○○さんの家がないわ。お国のためね」と言っていました。母がこの地を離れて十数年、その間に航空隊が出来、母の土地も国に没収されました。

 結婚のために建てた家もしばらくは空き家にしておいたのですが、それは罷りならずで貸していました。当時白子は繁華街でした。借家人が勝手に間取りを変えて商売をしてずいぶん繁盛していたみたいでした。なかなか話し合いで返却してくれません。戦後の農地解放のように、家も住んでいる人のものになるかもとのとこでした。それで裁判で調停してもらい、1年半後返却してもらうことになりました。その間は伯父の家の離れで一家6人が生活をするはめになりました。ほとんどの荷物はそのままにしていたので、父は書籍が出せず、ずいぶん不自由で気の毒でした。一家が長年住んでいた竹田市はあの「荒城の月」で有名な城下町で、詩情豊かな落ち着いた美しい町でした。そんなところに住んできたので、10畳ぐらいの部屋では大変でした。上級武士が住んでいた家を借りて住んでいましたので不自由はありませんでした。白子に来ては勉強もできず、姉妹喧嘩も多くなり、この土地の言葉にも慣れず、風習にも慣れず、多感な時代をもやもやした気持ちで過ごしました。早く自分の家で住みたいと願っていました。


白子での食糧事情

 竹田市では父の友人が助けてくれました。野菜を持って来てくれる人、米麦を運んでくれる人、正月には餅を搗いてきてくれた人、炭を焼いてくれ薪を作ってくれる人、慣れない菜園でイモやカボチャを作って食糧の足しにと母も頑張っていました。鈴鹿市に帰る事が決まるとみんなで米炭薪を数年分用意してくれました。それらと引っ越しの荷物に物干し竿まで貨物車に入れてくれました。今でも忘れずに彼の地のみなさんに深く感謝しております。

 十分の食糧や燃料がありましたが、白子でも親戚や母の友人がまた助けてくれました。魚介類などは大変うれしかったです。その上、一番助けてくれたのは父のアメリカ在住の兄弟でした。毎月数個の援助物資が届けられ、それには当時日本では見られない物、砂糖・コーヒー・タバコ・菓子・家族全員の衣類・長細いカリフォルニア米・自転車・香水や化粧品もあって、父は兄弟の帽子から靴までぴったりでそれを着て教壇に立っていました。

 私は命ある限り決して忘れず感謝をして参ります。亡き両親の分までもと思っております。豊かな物資を眼前にしてアメリカと争うとは無謀極まりないことだと思いました。


高校と就職

 郷里の鈴鹿市に帰ってきた私は河芸高等女学校に転校することができました。それも間もなく新しくできた学区制で旧制の中学校女学生は新制中学3年生となりました。翌春は白子高等学校を受験したのです。校舎は旧制神戸中学校で、私は毎日電車で通学しました。そこは神戸学区の生徒と白子学区の生徒が集まって鈴鹿高等学校と呼んでいました。スポーツクラブも盛んで、バレーボールは全国的レベルの高さで名が通っていました。上級生の選手は輝いて見えました。

 また大きな流れがあって、白子学区の私達は元河芸高等女学校の古い校舎に変わることになりました。家からは徒歩で通学しました。ぎゅうぎゅうの電車もおさらばでした。これで神戸高等学校と白子高等学校とはっきりと分かれたのです。

 学校の引っ越しで神戸から白子へとみんなで備品などを運んだ記憶があります。校舎は木造で教室が足りないと寄宿舎を改造して使いました。教室の真ん中に柱があったりしました。高校生活は漫然と過ごして、友人と話すことが楽しくて映画を見に行ったり、読書をしたりで楽しんでいました。そんな時、伯父の影響でクラシック音楽に夢中になりましたが、LPレコードが届かないのでもっぱらラジオを聞きました。

 昭和27年高校を卒業して、呉羽紡績鈴鹿工場人事課に勤務しました。社員の給与計算をする仕事で、手回しのタイガー計算機を使いました。軍需産業中心の時代が平和産業へと移っていく時に出会い、心穏やかに新しい平和な国になっていくのを感じました。

 呉羽紡績鈴鹿工場は新設工場でした。長野県や富山県の工場の熟練者が転勤してきました。時の経過と共に地元の若い人が入社して、いろいろの違いがありましたが、若者のパワーで明るい工場でした。多くの社員が女性で、交替番制で働いていましたので、女子寄宿舎がありました。勉強することもできましたし、趣味の手伝いも会社は惜しまず力を貸してくれました。クラブの設備も整っていたし、休日は封切り間のない外国映画を講堂で上映したり、有名な劇団を招いたりしていました。大切なお嬢さんを預かっていますので人事課みんなで頑張っていました。映画を見てあんな生活が私達にもできるんだろうかと生活のレベルの違いを感じました。なぜアメリカを相手にという思いがしてなりませんでした。

 長野県の人などと毎日付き合っていますと未知の世界を垣間見たような気がしました。スキーをやったり、安曇野の美術館にも行ってきました。退職し40余年になりますが、親友ができ、今では家族ぐるみで交際しています。喜ばしいことだと思います。

[※杉山亜有美の原稿をもとにご本人が表現を改めた]