私は稲生に生まれて稲生の小学校、私らの時は国民学校と言いましたが、そこに行って、新制の白子中学校、河原田の農業高校に行って、卒業してから白子の農業試験場にある農業講習所に2年行きました。
小学校時代の思い出
終戦は小学校6年生の時だったと思います。昭和19年の東南海地震の時には小学校の校舎がガタガタと揺れたのと用水池の水が6割くらい出てしまったのも覚えてます。
〔勤労奉仕、空襲〕
小学校の頃の思い出ですが、運動場にみんなで穴を掘って、そこに堆肥を入れてカボチャを作ったんですわ。昭和18年くらいだったかな。桑の皮むきもしました。それで服を作るって言うてね。みんな蚕を飼ってましたから桑の枝が残りますやろ。その枝の元から切って、皮を剥いて小学校とかに持っていったんですよ。昭和18年、19年にはそんなことばかりやってましたから勉強なんてしてないです。というのも、学校に来たってすぐに空襲警報が出て家に帰らなくてはならなかったのです。
家の窓から空を見てるとね、飛行機に乗ったアメリカ兵がこっちを見てくるんです。よくヤンキー(アメリカ兵)の顔が見えるんですよ。人がおったら撃ったろうと思ってるんですよね。B29も私の家の上を何十機と飛んでいきました。何を落とされるかわからんから、そりゃ怖いですよ。でも、アメリカもこんなところに落としたって効果ないってわかってたんでしょうね。津とか四日市が集中して狙われたんですよ。
〔奉安殿〕
小学校にもね、奉安殿が正門のすぐ横にあって、卒業式とかそんな時にはそこから天皇さんの写真を持っていってね、写真を飾るところがあるんで、そこに置いて教育勅語を言ってた覚えがありますよ。奉安殿はどこの小学校にもあったと思います。天皇の写真を飾ってるけど、それを見てはいけないんです。うつむいとらなあかんの。じっと見とったら先生が飛んできて頭叩かれてね。あの時は天皇は神やって教えられてたからね。当時はそんな教育なんですよ。先生もそう教えないといけなかったから、辛かったんじゃないですかね。
〔鈴鹿市の誕生〕
昭和17年の市制記念の時にみんなで寄付を募ってね、鈴鹿市民号っていう飛行機を鈴鹿市民で作って国へ寄付したんですよ。戦闘機と思います。たぶん三菱が作ったんでしょう。私はまだ9つだったから詳しい話は知らないんですけどね。
〔焼夷弾が落ちた〕
一色の大谷っていう在所、西ノ宮の池の端ですが、そこに焼夷弾が落ちたんです。私はここで見とったんですが、あんな焼夷弾を見たらどんなすごい花火でもそれに勝るものはないと思いますな。それで牛も死にましたし、西ノ宮の池に不発弾がようけ残っとると思います。それと、今のサーキットの受付があるところぐらいに大砲がすわっとったんです。その後戦争が終わって大砲を米兵が爆破していきました。それから1か月くらいしてから破片を取りに行ったのを覚えてます。
〔食べ物も飲み物もなかった〕
私の家の50メートルくらい先にも防空壕が掘ってあって、よう入りに行きました。ちょうどその頃は、稲生の宮さんにも兵隊がようけ来とったんです。だからアルコールの入ったドラム缶が隠してあったり、昆布がどんっと置いてありました。親がそのドラム缶を失敬してきたようでね、それ飲んで死んできましたわ。缶に入ってるアルコールってメチルアルコールでしたからね。それぐらい食べ物も飲み物もなかったんです。
神宮寺の近くでは朝鮮の人が密造酒を作っとってね。親父に頼まれて瓶持ってよく買いに行きましたわ。ここら辺には朝鮮の人もようけおりましたし、うちの親も朝鮮人と仲良くやってました。朝鮮人を蔑んだり差別したりすることはなかったですよ。
〔掩体壕〕
稲生の宮さんの北のほうに掩体壕を板で作ってました。そこに飛行機を隠すんですよ。でも飛行機を入れとる暇もなかったんじゃないかな。終戦後は掩体壕を壊しに行って、その板を家に持ってきて塀に使ったりしました。作って間もなかったですから板もきれいでしたね。
〔軍隊と喧嘩〕
口山脇ってところに小さい山があったんですわ。ここはね、雨水が溜まるもんで池が掘ってあったんです。そこに軍隊の人らが来て、勝手に水を換えていって、魚を獲って食べてたんです。そこに生えてた木もね、勝手にズタズタ切って軍隊の用材として使われたんです。だから、私の祖父が「田んぼに使う大事な池をなんでそんな風にしてしまうんや」って抗議しにいったんです。まあ、抗議したっていうても言うだけですけどね。軍隊の人らはそんな大切な池だなんて知らないわけですよ。でも田んぼしとる者にとっては、勝手なことされたらいつ田んぼが干上がってしまうかわからないから困りますわな。
〔出征兵士の見送り〕
在所の角のところで出征兵士を見送ったこともありますよ。稲生はね、日露戦争から128人死んでるんです。稲生神社の一番奥に招魂碑っていうのがあって、そこにみんな名前が載ってますよ。私の叔父2人も戦争に行ってました。どちらも帰って来たので身内で戦死したのはいませんけどね。
終戦
玉音放送はどこで聞いたかな。この辺ではラジオ持っとる家なんかなかったから、その時には聞けずに後で聞いた気がするな。世の中の人がなんやかんや言うから8月15日に天皇からの玉音放送があって、戦争に負けたなってことはすぐにわかりましたよ。どんどん日本の軍隊が撤退していって負ける戦争だなってわかってたから、敗戦を知ってもそう悔しいとは思いませんでした。私らも小さかったからそんな感覚もなかったと思います。でも、国民がひもじい思いをさせられたっていうのはありますね。私らは農家で作物も作ってたから食べ物にはそこまで困らなかったけど、都会の人は苦労したんとちがうかな。戦後は5,6年は食べ物もままならなかったように思いますよ。四日市にね、闇市があったんですが、私も友達と子供だけで面白半分に遊びに行ったりしましたに。
戦後の生活
私が白子中学に入った時はね、河芸高等女学校の校舎、今の白子高校のところですね、そこに通ってたんですよ。中学校の時は軍隊式とかではなく教育も普通でしたよ。小学校6年生から旧制の神戸中学や旧制の女学校に行ってた人がおったから、その人らが中学校に戻ってきて、私らと一緒に勉強したんですよ。その後、白子中学を出て河原田の農学校に自転車で通いましたが、まだ、国道23号線が舗装してなくて砂利道だったんですよ。あの当時は雪がようけ降ってね、それが45センチくらい積もると、もう自転車では通えませんでした。一番初めに行くから、なおさら自転車が進まなかったんです。農学校卒業後は白子の農業試験場にある農業講習所に行ったんです。
戦後の変化っていうのは私はあんまり感じなかったな。企業誘致とかがあったけど、私らの年代のもんは百姓でやってくって人もおったからね。百姓しがてら土方に行ったりして生活しとる人が多かったです。