四日市の万古屋
私は四日市の万古屋の孫なんですけど、三滝川の土手の下に家がありました。私の祖母の実家は稲生の神宮寺っていう真言のお寺です。四日市で焼け出された時は、家の裏にずっと工場があって、人も雇ってしてたんです。父も万古焼の仕事をしてたんですけど、戦争でごてごてしたら上手いこといかんくてね。広い土地もあったんですけど、みんな私らが食いつぶしてしまったようなもんでした。
四日市の空襲
昭和20年6月18日に戦災に遭って、8月1日まで防空壕みたいな所で生活してたんです。空襲は夜の10時頃でしたかな。いったん警戒警報のサイレンが鳴って、それが解除になったと思ったら、今度は空襲警報が鳴りまして。私の弟と妹は小さいから、普段から貴重品の入った竹の籠は私が抱えて走る役割だったんです。6月やで蚊帳吊ってましたけど、蚊帳に引っかかってね。そんな記憶があります。そんで裏に飛び出して、私の家は万古の工場の中に防空壕が作ってあったんです。1畳くらいの小さいものでした。そこへ走るまでに照明弾かな、パアーっと明るくなって、それで防空壕へ飛び込んだと思ったら、焼夷弾がすぐ近くに落ちてきましたに。木造の工場が焼けててよそからも火が来ますし、家の防空壕へはおられせんので、家と工場間の通路を走って前の堤防へ上がって見てたんですけど、煙で目が痛くて。父が川の水でタオル濡らしてくれて目に当ててましたわ。ご近所の方もみんな集って来てて。中には直撃受けた方もおられたみたいです。三滝川の砂のとこに針山のように刺さってたんは記憶にあります。そんなに長くは焼夷弾は落ちなかったと思うんですわ。それでもその辺りの家は全部焼けました。私の家は直撃弾がなくて、割に後まで焼け残っていたから助かるかなって見てたけど、べしゃっとね。その日は堤防で夜を明かしてました。もう食べるものも何にもありません。そしたらね、たまたまその前日くらいにジャガイモの配給があったんでしょうな。焼け跡行って、掘ったらジャガイモが焼き芋になっとって、焼き芋なんて初めて食べましたに。それから、親戚で楠の紡績に勤めてる人がおにぎりかなんか、食べるものを持ってきてくれた記憶があります。
それで家から道を隔てた三滝川の土手の方に、よそさんの防空壕やったと思うんですけど、そのよそさんがもう出て行かれて、たまたま家の前だったから譲ってもらったんかな。その防空壕に一家で住んでましたけど、広さは4畳半もないくらいで、今では予想もつかん生活ですに。食べ物はどうしてたんやろ、配給ばっかでしたからな。衛生面も無茶苦茶でした。そこに8月1日までおりまして、だんだん戦争も激しくなってくるし、女や子供がいては、もう危ないっていうことで、焼け残ったものを荷車に積んで鈴鹿峠を越えて父の知り合いの実家のある土山の方へ行きました。
〔四日市から土山、鈴鹿へ〕
四日市を8月1日の夜明けに出て、まず亀山まで行きました。そんで亀山から鈴鹿峠へ。途中に茶店みたいなところがあるんですけど、その茶店さんへ泊まらせてもらえるようにお願いしたら、「今晩は泊り客があるから、よう泊めない」って言われて。でもその当時、弟が数え年の3つ、妹が5つでして、小さい子がいるっていうことで軒を借りてたら、「お気の毒やで中へ入ってください」って泊めてもらいました。明くる朝、そこから目的地に2時頃に着きました。道中は母は荷車を後押しして、私も小学校の5年生になっとったで、一緒に押しとった覚えがあります。弟と妹は竹で編んだ籠に1人ずつ入れて荷車へ乗せて。私も平たんな道の時は、端っこに乗ってたでしょうな。
それから土山に行って半月で終戦(8月15日)になり、そのことは16日に知りました。土山の小学校では今でいう、いじめに遭いましたな。あの辺は雪が多いからね、8月の20日くらいから2学期が始まったのかな。そんで学校へ行くでしょ、先生から生徒にいろいろ質問されると、私は手挙げて答えるんです。その時はいいんやけどね、帰りに男の子が待ち構えてて、「疎開やのに偉そうにして」って、よういじめられました。そんで、四日市に残った父に「早よ帰りたい」って手紙で出してね。手紙書くと、伊勢湾からアメリカ兵が上陸して来る。女や子供は帰ってくると危険やで、もうしばらく辛抱しとけって。結局は稲生の神宮寺へ直接行くと良かったんですけれども、鈴鹿も海軍工廠があったでしょ。次は鈴鹿かってみんな思ってましたから、かえって危ないってことで行かなかったんですね。
それから終戦になって9月の24,5日くらいに稲生の神宮寺へ来て、稲生へ落ち着いたんです。いくつも離れがあったもんで、海軍のお偉いさんが離れに泊っとって。そんで神宮寺の裏に今もお墓がある山があるんですけど、その山の東と西と北側にかまぼこ型の半地下って言ったやろか。地面に掘って屋根だけ、かまぼこ型に土置いて草が生えたようになったのがありました。海軍の兵隊さん達はそこで残務処理をしてました。お偉いさんが1番長いこと残ってましたね。兵隊さん達には可愛がってもらって、やっぱり物資はお偉いさんの手元にはあったんですね。貰って食べた記憶があります。東京の方から来てみえた方なんかは長いことみえたから、東京へ帰るとお土産買ってきてくれて。私らは大事にしてもらいましたわ。
〔鈴鹿での生活〕
私らが土山に疎開してたのは短い期間で、鈴鹿へ来てからは稲生の小学校へ行ってました。私が稲生の小学校へ入ったときは5年生が62人くらいやったと思うんです。もともとは少ないんですけど、戦争が激しくなってきて、たくさん疎開して来ている人がありましたね。土山は「知り合いの家」って感じ、稲生はやっぱりおばあさんの実家っていうことで、周りの人の目も違いましたしね。「神宮寺の子や」って言うて下さるし。そんなことで違いましたな。
それから小学6年生やったと思うけど、今の青少年の森の所に、杉皮を瓦の代わりに並べて屋根にした物置みたいなのがありましたわ。学校から連れていかれて、それを壊す作業をしましたよ。松の根っこも掘りました。7,8人の班で1つずつ「この根っこ掘りなさい」って言われて。暑い時でも根っこ堀りに行きましたに。終戦後なのに、なんでそんなことしてたのか覚えがありませんけど、もしかしたら畑にでもしたんしょうかね。今みたいにショベルカーもないですから小学生を使ってね。あと農事試験場の畑の草取りにも行きました。昼間ですので授業せずに行ったんでしょうな。
〔その後の生活〕
土山へ行って稲生へ来てからも、ずっと食糧難でしたに。最初は神宮寺で一緒に食べさせてもらっとったけど、やっぱり長いことお世話にならないかんし、自分らでなんとかせなあかんって。小学校に神宮寺が近かったから、お昼はご飯食べに帰ってきますやろ。帰ってくるとお芋ばっかりでした。なかなかご飯なんていただけませんでした。それこそ焼け残った母の着物を百姓さんのとこへ持って行って、交換してもらったり。その頃の親は大変やったと思いますに。昭和22年くらいまでは大変でした。小学校をあがってから、中学、高校は白子へずっと行って。親の都合があってやりたいことを断念してから、しばらく別のことをしとって、1年経ってから大阪のおばのところで手伝いしながら、お茶やお花やお裁縫やら習ってました。そんで昭和34年にここへ嫁いでから、保母試験で資格を取って地元の保育園、その後磯山の保育園へ勤めたんです。若い人との交流もあったし、地区の役員もよくまわって来ました。
私が高校生(昭和25年から27年)の頃は電気通信学園で夏休み前、全国から研修で集って来られている男性の方のフォークダンスのパートナー役に女子が出向きました。今はなくなっていますが、広い格納庫の中で踊りました。