家は薬屋を営む
生まれは白子本町です。家内が加佐登生まれで、両家の中間っていうと神戸になるもんで、今は神戸に住んでます。戦中は白子の方で過ごしてました。家は薬屋をやっててね、戦争が激しくなればなるほど薬が入ってこなくなって、親父は生活のためにその辺の庭におるような小型のカエルを獲ってきて、串に5匹くらい刺して干して、それが熱下げの薬になるって言うて作ったり、影に生える苦い薬草を採って、屋根裏で干したりして売ってました。結局、漢方の方で自分が習ろてきたものを自然から採って、それを売って僕らを養ってくれてたんです。戦後はもっと悪くなって何も入ってこなかったね。
戦時中の思い出
私は白子の小学校に入学しました。終戦が6年生でしたから、小学校5,6年の思い出っていうのは強烈に残っとるんですわ。4年生の時なんて先生に殴られたってことを覚えてるぐらいですもんね。
〔勤労奉仕〕
小学校6年生の時には半強制的に「あっこの家行け」って言われて、2,3人が派遣されて農家で田植えや草取り、収穫の手伝いをしました。小学校でも5年、6年になると働かなあかんってことで、みな勤労奉仕に行ったんです。農家の方も働き手が戦争に行ってるから人がいないでしょ。私は田植えなんてしたことなかったから、とにかく気持ち悪かった。ぐにゃぐにゃって沈むのがなっとも言えんと嫌でね。そいで、あの頃は裸足で田んぼに入ってるから、知らんうちにヒルにやられてね。ただ、お昼になると白米のご飯を食わしてくれたからそれが何より嬉しかった。一遍に辛いことを忘れるっていうんですかね。
〔アメリカ兵が捕まるのを見た〕
小学校5年生終わりぐらいの時やったかな、とにかく終戦近くの時でしたね。白子の港の8000メートル程上空を飛行機雲を引きながらB29が真昼間にやってきてね。そこに小さい戦闘機が突っ込んで体当たりして撃墜するのを見ました。その時は一気にダーッと上がってって、私らはみな「上がってた、上がってた」って言っておったんです。そしたらボカンッとぶつかってバラバラになってね。そりゃ見事なもんですよ。B29に突っ込んでった戦闘機は鈴鹿航空隊じゃなくて明野か香良洲から上がったって話を聞いたね。もちろん、その突っ込んでった戦闘機のパイロットは即死でしょうね。でも、当時はそう教育されとったもんで19歳、20歳のパイロットっていうのは怖さってなかったんとちゃうかな。
それを見とった周りの人らはみな拍手で喜んで。大人はむちゃくちゃ言うとったね。やっぱり反米感情ってのはすごかった。B29に乗っとったアメリカ兵は白子沖に落ちるでしょ、そこに白子の漁師さんが舟漕いで出てったわけ。あの時、白子港の一番右の岸壁には、海軍の200トンの船がいつも横たわっとって、練習機なんかが落ちると拾いに行くんですわ。だから、近くに兵隊はおるのやけど、数人おるだけでそんなアメリカ兵を捕まえに行く余裕ないし、地元の漁師の方が早よ動けたんやろね。けどね、漁師さんらもやっぱり怖かったらしいですね。後で聞いたらそう言うとった。そりゃアメリカ兵なんかは、みなピストル持っとるしね。漁師さんが竹槍で殴ったり、櫂で殴ったりでアメリカ兵を血まるけにして2,3人を連れて帰ってきたんですよ。そりゃもうかわいそうで見とれんくらいでしたね。その後で憲兵隊なんかにむちゃくちゃされたんじゃないでしょうかね。
白子では、空襲になると港の方へ逃げたんです。港には松がズーッと生えとるでしょ。だから敵に見えないようにその松に隠れたりしてたんです。海に逃げていた時に見たんだから、私もアメリカ兵を捕らえるとこはたまたま見れただけですよ。あの時が初めてだったし、それ以後は1回も見なかったですね。
〔終戦間際の鈴鹿〕
昭和20年になったら、悠々とアメリカの飛行機が飛んできおった。その頃は戦闘機が来て航空隊を撃ってくことはあっても民家がやられるって心配はなかったな。だからみんな平気で海に逃げとったんよね。津は夜に焼夷弾でやられたんですが、あの時、海岸に近い人はみんな海に逃げたらしいけど、そこに焼夷弾が風で流れてきて多数焼け死んだって聞きましたね。だから、うちの親父が「もし白子がやられたらどうすんのや!」って言うとったけどな。
〔グラマンの機銃掃射を受けた〕
これは昭和20年くらいの時です。たまたまね、うちの隣の借家で八百屋をしとった家があってね、その家に僕より1つ上の人がおったんです。それが新聞配達しとったんで「お前も新聞配達についてこい」って言われて2人で自転車に乗って白子の本町から航空隊に配達に行ったんです。行きはよかったんだけど、帰りに今の警察前まで来たときにヒュンッて何やら音がしたと思ったら、アメリカの艦載機グラマンがものすごいスピードで今の23号線のところを地面スレスレで飛んできてね。白子の岸壁ぐらいから航空隊にめがけてバンッバンッと撃ってきたわけ。航空隊からも機関砲で迎え撃っとったけども、なんにも当らへん。アメリカの飛行機なんかは平気でシューッて飛んどったね。ほら、まぁ、こっちの防衛体制っていうのはなっとらんだからね。ちゃんと戦える飛行機はなかったからな。
とにかく、その光景ってのはすごかったね。実弾で撃ちあってるのを見るのは初めてだったから、そら怖かったですよ。そしたら、航空隊から出てきた兵隊さんに「何しとんのや!」って怒られて、今の鈴鹿警察の本署のところが当時は小さい山になっとって、防空壕が掘ってあってね、そこに引き摺り込まれたんを覚えてます。
〔海軍記念日〕
毎年1回海軍記念日ってのがあって、航空隊を開放して飛行場とか航空隊の中を見せてくれたの。ものすごい人が来ましたよ。子供はもちろん、親も見たいから子供を連れて来る親が多かったね。うちの親父もいっつも連れてってくれてね。白子に鈴鹿勤労青少年センターってとこあるでしょ。そこに昔はコの字型の建物があってね。今でいうレストラン。海軍の将校以上が利用できるとこらしくて、そこもその日だけ入れるんですわ。海軍でしょ、だからやっぱりカレーです。海軍記念日に親父にそこで食べさしてもろて海軍を見に行く。そんなんが私らにとっては嬉しくてね。今もその建物が残ってるでしょ。だから、その近くを通るとなつかしいなぁって思いますね。
戦後の思い出
玉音放送は小学校の校庭でみんなで聞きました。けど、聞いても何を言うとんのかわかりませんでしたね。天皇は独特のしゃべり方するでしょ。だから不安も感じなかったね。親は私の兄が戦争に行ってたから「なんでバンザイ(降参)したんやっ」って言うてました。
終戦直後に、白子にも進駐軍が来たと思うんです。舗装もしてない道路をもうスピードで走るジープを見て驚いたことを記憶してます。あの頃は学校で英語を習ったばっかりで、その習いたての英語で「ハロー」ってみんなで話しかけて、アメリカ兵に寄ってたんですよ。それでチョコレートなんかをもらったりしてね。私らみたいな子供には、アメリカ兵が怖いとかそんな思いはなかったですね。孫には戦争であのひもじい思いは絶対させたくないです。
〔航空隊跡のプールを借りた〕
あの頃は不思議なもんで、山間部の人が海軍に入って、海岸の人が陸軍に入っとった様に思うんです。山間部の人なんかよう泳がんのですよ。だから、格納庫の裏手側に50メートルのプールがあって、そこに10メートルの飛び込み台もあって、そこから突き落としたって聞きました。戦後、その訓練されたプールがまだ残っとるぞって言われてたんです。
それで、私が神戸高校に戻ってきた時ですかな。当時まだ神戸高校に水泳部がなかったんですわ。その時、私は河童みたいに毎日泳いどったもんですから「水泳部をつくって下さい」って言って、つくってもらったんです。しかも予算が5000円付いたんです。というのも当時NTTの学校で電通学園やったんです。そこに海軍の施設が全部預けられたもんで、神戸高校がそこにプール貸して下さいって頼んでくれたんです。で、水替料として5000円の予算がついたのですが、一回の水替料にもならなかったそうです。
そのプールを借りたから、学校が終わったら毎日23号線をずっと歩いて通って、終わったら白子まで帰るっていう生活をしてました。あの頃、あんな遠いとこまでプール使いに来る人らなんて私らと白子高校の1つ上の連中2人ぐらいしかおりませんでしたな。その時に飛び込み台も登ったんですけど「ようこんな高いとこから突き落としたな」って思いましたよ。少年でも先端まで怖くていけませんでした。
〔白子分離問題〕
うちは白子本町っていう白子の原点の町でね。昭和17年に軍隊が鈴鹿市をつくって戦後を迎えたでしょ。だから市役所を神戸に取られてはいかんと言う声が上がったんです。というのは、本町に郡役所と白子町役場の2つがあったから白子が主要都市やっていう思いが親父らにもあったんでしょうね。それを神戸に持ってかれたっていう気がして白子は分離しよやってなったんだと思うんです。そこへ燃える連中が集まって会合を開いとったんですわ。今の旧街道沿いの白子と江島地区には賛同者が多くおったと思います。
お袋なんかは「そんなんやったって負け」なんてえらいはっきり言うとったけどもね。なんでかっていうと、今の旭が丘のところは、昔は航空隊があったんだけど、戦後は住宅地になって、そこによそから多数の人が入ってきたんです。杉本市長が企業誘致を一所懸命やってたでしょ。だから新しく入ってきた人が旧白子の人口より多くいるから選挙したって負けるって、そうお袋は言うとったんです。そやけど、親父は一生懸命にやってね。反対派と喧嘩になったってのも聞いたことありますよ。結局、どんだけ差があったんか知らんけども負けてね。だけど、あの時選挙まで追い込んだっていうのは凄い事やね。
私は子供やったでどう変わるのかわからなかったけど、また小さな町に戻るよりよかったなあと思いました。