松田德夫さん(昭和9年生まれ、白子地区在住)

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戦中の生活

 私はここ(白子)で生まれてここで育ちました。16年の12月8日に開戦やでな。ちょうど戦争が始まった年に国民学校へ1年生で入学しました。戦争が終わったのが国民学校5年生の時です。2,3年上の人やと学徒動員であっちこっちの工場へ働きに行ったわけやけど、私らは学徒動員も奉仕作業も何にもなかったし、子供やで戦争の緊迫感は直接的ではなかったな。話を聞いて、「そうやったんか」って感じでした。


航空隊の教官の下宿

 私の家は昔は平屋建ての家だったんですよ。真ん中に庭があって、その庭の東側に離れが建っていて、そこに航空隊の教官が借家みたいにしてましたね。私が本当にまだ小さい頃でしたから、航空隊が出来た頃だと思います。航空隊で教鞭をとるのに、ご夫婦で来てましたね。そういうご夫婦が2組入れ替わって来てましたね。教官達を怖いとは思いませんでした。その教官は「ちょっと飛行機に乗ってフィリピンまで行ってきたんで」って言って、土産にパイナップルをもらったのを覚えてますもん。その頃はパイナップルなんて珍しかったからな。

 それと最初にいた教官の人は、静岡の由比ガ浜が郷里で、戦後しばらく経ってから家へ遊びにみえたことがあって、その時に桜エビもらいましたな。それから、その後で住んだ方は塩釜の人でした。まだ私のお袋が生きてる時代ですけど、その人の奥さんも「懐かしい」って言って、伊勢参りの帰りにここへ寄ってくれたのを覚えてます。


学徒兵との交流

 その時の交流っていえば、私の家は終戦になる2年くらい前やと思いますけど、10人くらいの学徒兵の面会場所になってました。それで学徒兵の親が休みの日になると家に来て、学徒兵達といろいろ喋ったり、食べたりして帰って行くということをしてました。

 学徒兵のことも印象に残ってて、休みの日には学徒兵に模型を作ってもらいます。作りかけで完成しないんですね。それで次の休みに来るかいな、と思ったら、来ないわけですよ。それで、「どうした」って聞くと、もうどこかへ行ったっていう話で。その頃は特攻隊やらなんやってことは言ったかもしれんけど、聞いてもわからんかったし、もちろんここ(白子)で練習した学徒兵達も、ここから特攻隊で行ったわけではなくて、もっと別の基地に行ってから行っとるはずなんで。後で考えてみるとあそこへ行ったんやな、とまあそんなことが印象に残ってますね。

 終戦になると、学徒兵の人らが実家へ帰っていくので、持ち物を整理して帰るんですね。置いていく物もあってね、落下傘のバンドなんか貴重やったな。落下傘で地面へ降りると、すぐ外さんと体が引っ張られていくもんで、着地と同時に落下傘が外せる装置があるんですけど、学徒兵の人が持ってきて家に置いてったりすることがあってね、それを私が貰ったんです。学校でも値打ちやったなあ。小さい学生ズボンはいとるくせに、バンドだけが大きくて、それをガチッとはめているのが格好良いと思ってたんやね。


憲兵隊

 私の家の近くには憲兵隊があったんですよ。それで憲兵隊の屋根の上に監視台みたいなのが造ってあって、空襲になると憲兵隊の人が監視台に登って、双眼鏡で「敵機襲来…」やら何やら言ってましたな。こわいって言われますけど、私らは子供やで憲兵さんとも仲良うなったな。憲兵隊ではね、大きな犬を2匹飼っとったんですよ。それでね、私らもおやつとかそんなんですけど餌をやりますやん。朝になると犬が必ず家の前でちょこんと座っとるんです。そんな生活しとったで、私らは戦争なんて何も頭にないわね。


疎開

 家にはね、親父の妹が名古屋から焼け出されてこちらへ帰って来てたんです。名古屋はおばさんの嫁ぎ先やったけど、焼け出されて行く所がないもんで、私の家の1番入口に近い部屋で生活しとったな。叔父さん、叔母さんと子供2人、3人目がお腹におった。3人目は産婆さんが間に合わなくて、私の母親がとりあげて家の離れで産まれたんです。今思うと叔父さんなんかは、よく電車に乗って米とかをヤミで買いに行っとった。手で持っとると見つかるから小さい袋を作ってね、米をわけてあっちこっちのポケットへ入れてくるんです。21年の頃くらいには、名古屋へ帰って行きました。


東南海地震

 学校では通学団ってのがあって、先頭は日の丸の旗持ちだったんですよ。その日の丸の旗持ちは当番制で順番になっとったんです。それで、たまたま東南海地震の時は私が旗を持つ当番でした。日の丸の旗は枕元に置いて寝るわけ。地震がガタガタっときたので大事な旗を持って机の下へもぐりました。そうせなあかんもんやと思ってますからね。

 地震といえば、学校に行ったら休み時間に校舎の外へ出て、みんなで校舎の壁を背中引っ付けて1、2、3で揺するんですよ、そうすると女の子らが中で「地震や、地震や」って。そんなイタズラして楽しんだな。


玉音放送

 玉音放送の時は、上級生から「校庭に集まれ」って言われてね、何かなって行ってみたらその放送やったんです。聞いても何言うとるかさっぱりわからんかった。校長先生がその後で「日本は負けました」って言ったんで「そうか」と思って家に帰ったんです。そんで家に帰ったら気が早いことに親父がもう防空壕を埋めにかかっとたんですわ。

 その時の校長先生がね、「ヒットラー」っていうあだ名やったんですよ。なぜ「ヒットラー」って言ったかというと上級生から教えてもらったんですけど、ちょび髭が生えてて、髪の毛も七三にわけてたからでね。みんな「ヒットラー、ヒットラー」って言ってたんですけどね、玉音放送の明くる日に坊主頭で来たんですよ。坊主頭で髭もなしで。みんなびっくりしとった。その時はそういう記憶があるだけですけどね。河芸高女の同窓会の文集に書いていたのを見ました。そこに坊主になった時の話が書いてあったんですよ。「私は今まで何を教えとったんや」と。そういう意味のことが書いてありました。それで坊主になって反省したということやったんやと、後になってわかりましたな。


進駐軍

 戦後、航空隊には進駐軍が来て、飛行機などを爆破していました。それを私らは子供やで見に行くんですわ。もちろん危なくないように陰から見てるわけですけど。

当時、菓子はね、日本製のチューインガムや飴が駄菓子屋に売っとるんですよ。日本のチューインガムってのは、噛んでピューって伸ばすとね、乾いてパリパリになるの。でもアメリカのチューインガムは伸びたり縮んだりしてね。飛行場へ行って進駐軍の人に「くれ」って言うと面白がってくれるんですよ。するとね、チューインガム貰って来たって得意になってみんなに分けたりするんですわ。あと、ガキ大将みたいなのが「こうやって言え」って教えてくれるんですけど、「チョコレート、ワンボック、サービス」って。その時は、何のことかわからんかったけど、今思うと「チョコレートを1箱ちょうだい」ってことや。私は貰ってくる人のご相伴に預かるだけでしたけどな。

 小学校の運動場で進駐軍の人らがソフトボールで遊ぶわけ。僕らは見よう見まねでボールもバットも作って遊んだ。石に糸巻いて、お袋に無理言って貰った布を縫い合わせて。バットは木の枝でね。そんなんで遊びましたね。その頃は中学の頃と思いますが、子供用の雑誌、「少年倶楽部」といったのかな、それを買うとね、グローブの作り方が型紙になっていました。グローブも布で作りました。そんな時代やった。


映画の思い出

 映画館はよう行ったな。私の家と隣の家の間に映画館のポスターが貼ってある看板が立っとるの。時代劇も洋画もどっちもやってましたよ。それでただ札を貰うわけ、だけどね、小学生の時はあんまり映画に行くと叱られたんです。でも好きやったもんで内緒で見に行ってたんです。するとね、上級生が見回りに来て、「何しとんのやー」って、見つかると叱られるんです。親と行くのは良かったんかもしれんけど、子供1人で行くのは良くなかったんやろね。

[小川真依]