出岡正宏さん(昭和10年生まれ、白子地区在住)

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食糧難の時代

 私の生まれは寺家でね、親父は型紙の職人をしながら、京都に仕事をもらいに行って、また寺家に帰ってきて、仕上がった物を京都に持っていくっていう商売をしてました。この辺りの男の人は伊勢型紙に関わっていた人は7割~8割いたと思います。大体の人が何らかのかたちで伊勢型紙と関わってました。そのほとんどが彫刻する職人さんでしたね。

 それでも昭和18,19年くらいには伊勢型紙なんてしとる余裕がなくて、うちの親父は勤労動員で津にあった住友系のプロペラを作っとる会社に働きに行ったんですわ。その時の生活っていうたら、そりゃ大変なものでね。親父が働きに行っとる間は、私らは草食って生きてましたからね。そこら辺に生えとるハコベも食べましたよ。農家でない限り米なんてめったに手に入りませんでしたから、米のご飯は1か月に1回くらいしか食べることはありませんでした。切迫すると、お袋が家にある着物を持って塩屋や稲生へ行って、イモとかカボチャと交換してきて、それが主食になってたんです。なんでも物々交換でしたね。それでもやっぱり米は貰えなかった。それに良い着物を持ってってもカボチャ1つとか、あちらの言いなりですよ。そりゃ、こっちが困って行ってるんですからね。お袋はそんなんでしょっちゅう物々交換に行ってました。子供も4人おったしね、食べてくだけでも本当に苦労しましたよ。だから、何でも食べました。イモの蔓、大根葉、小麦を茹でてそのまま食べることもありました。もうガリガリで栄養失調寸前でした。


空襲

 昭和20年頃っていったら毎日空襲でね、ましてここは航空隊があったから、柳町に爆弾が落ちたこともありました。前のNTTのところ(鈴鹿医療科学大学)に三菱の軍需工場があってね、爆弾が落ちたんですよ。私の知る範囲ではその爆弾の破片が刺さって1人の方が足を切断してます。

 そうはいってもアメリカから爆弾を投下されるってことは少なくて、ほとんどが焼夷弾なんですよ。それっていうのは日本の家屋が木造だから、焼夷弾を落としたらみんな焼けてしまうわけですわ。津でも四日市でも丸焼けになったっていうのは、ほとんどが焼夷弾ですわ。津の空襲で焼夷弾が落ちていくのはここからでもよく見えましたよ。外に出て見とると綺麗に見えてね。ここから見とると千里くらいに落ちとるように近く見えるんですよ。自分達もまる焼けになって死ぬかもわからんっていう恐怖は強かったですね。

 昔は灯火管制っていうのがあって、空襲になると電球に被いを付けて電気漏れを防ぐんですよ。ところが、高齢者なんかは電気がないと何もわからないから、どうしても電気がちょっと漏れとるんですよ。それで標的になってしまうっていうんで、当時の町内会長さんが絶えず巡回をするんですよ。電気漏れを見つけると厳しく注意するんです。漏れやんようにしてくれってね。

 それから、電気を消すと真っ暗になりますね。だから、塀があるでしょ、そこに人間の目の高さくらいの位置に15センチ角くらいで真っ白いペンキみたいなものを50センチ間隔で塗るんですよ。そうすると逃げる時に目印になるでしょ。どこの家でもみんな塗りました。当時は、今のように外壁が白い家ってないんですわ。木そのままですからね、木が朽ちてきて薄黒くなってるんです。そこに白いマーキングをしたらよく目立つんですわ。国からの命令でやってたから、寺家以外でもこういうことはやってたんじゃないかな。当時は、なんでもやることは国からの命令でしたからね。地域からの命令なんてほとんどなくて国の言いなりです。


分散教室

 私は白子国民学校に通ってましてね。昭和19から20年頃に勤労奉仕がありました。まぁ、私達の時には勤労奉仕なんて言わずに、農家のお手伝いとかそういう風に言ってましたけどね。農作業はもちろんヒマシ油作りもしました。飛行機の燃料の足しにするって聞いてました。小学校の校庭を耕して、種を蒔いて育てて、実を収穫するってことをしてましたわ。他には松根油採取とかお茶の実採りとかもしてました。そんなことやってるから勉強なんか全然してませんよ。

 昭和19年頃には空襲で学校なんか行けないから15、16人が近くの民家や寺に分散をして避難してました。私らはそこを分散教室っていってましたけどね。分散教室っていってもそこで生活するとかそういう事ではなくて、空襲警報があると分散教室からすっと家に帰ってこれるでしょ、だから空襲があった時に少しでも助かるようにってことですわ。昭和19年、20年頃は毎日のように空襲警報が鳴ってましたからね。海岸の方である漁師さんが「そんなん爆撃して来やへんわ」って言って網を直しとったんやけど、その時に機銃掃射を受けてね。ちょうど逸れたからよかったのですが、グラマンがようけ飛んできたから、そうやって1人でもおると低空射撃をされてもの凄く危なかったんですよ。

 私の場合は、鼓ヶ浦海岸の吉田さんってお宅が分散教室になっとって、私達は吉田さん家の網小屋におったんですよ。吉田さんとこっていうのは、当時寺家地区で4つの網元があったんですけど、その1つでね。戦時中でもすごく魚がとれて網が上がらんほどでした。当時は男が殆んど兵隊にとられてますから、女が一生懸命に網を上げてたんですよ。私もそれをよく手伝いに行きました。警戒警報とか空襲警報がかからん時はフリーでしたからね。普段はみんなと集まってじっとしとるか手伝いに行っとるかで過ごしてましたね。


終戦

 玉音放送も吉田さんの家で聞きました。今から玉音放送が始まるでみんな集まれってことで吉田さんの自宅へ入れてもらって放送を聞きました。それでもガーガー言うとるだけで、なんて言ってるのかさっぱりわかりませんでしたけどね。私も当時は小学校5年生でしたから。周りの人から教えてもらって戦争に負けたってことが端的にわかったぐらいでした。

 昭和20年の6月頃には東京は焼ける、サイパンは陥落する、艦載機やB29は毎日飛んでくるわけですよ。日本は戦争に負けるってことはみんな大体わかってたと思うんですわ。口に出しては絶対に言えなかったですけどね。だから、終戦になった時、アメリカに何をされるんだろうってもの凄く不安になりましたね。進駐軍が来て、鉄砲で撃ち殺されるんじゃないだろうかってね。日本がそれまでに野蛮な事をやってきたから、相手もそうだろうっていう認識で悪い噂もいっぱい飛び交ってました。子供だったからそういう噂を信じて洗脳されてましたね。

 終戦を知っても戦争に負けて悔しいっていう気持ちはなかったですね。悔しいっていうよりは戦争が終わってホッとした気持ちでした。敵が来るたびに逃げ惑っておったのが、もうB29が来やへんでってことになったんですから。

 ただ、そうはいっても戦中の昭和19年、20年の前半っていうのはお国のために死ぬのは当たり前っていう洗脳をされてましたから、戦地に死にに行くことに対してはなんの恐怖もなかったし、将来は自分も予科練に志願して威張りたいなって憧れてました。そりゃ目の前に爆弾が落ちたり鉄砲で撃たれることへの恐怖はありましたけど、思想的にはなんら恐怖はなかったね。


農地解放

 ご存じの通り、マッカーサーが農地解放ってことで地主の土地をまき上げて、小作にただ同然で分け与えたわけですよ。うちも親父は職人で農業の経験なんてなかったけれども、終戦前は食糧難で地主から土地を借りて細々と稲を作とったんで、2反ぐらい土地を貰ったわけです。寺家でも農業をしとった人もいたので、その人らは3反とか5反とか貰うし、なおかつ自分達で作っとったところは優先権があって、ようけ土地が手に入ったから1町歩以上を耕して農地解放後は裕福に暮らしとったんです。逆に地主の凋落っていうたらすごいもんですよ。私の知っとるところでは、神戸の土地を何町歩も持ってた人が急にガタンときたって言うてます。何にも収入がないわけですやん。ゼロではなかったけど、自分らの食べてく分だけしか残らなかったんですから。

 余談ですけどね、稲を作るのは何ら難しいことはなかったですよ。2反くらいなら見よう見まねで土を耕して、水入れて、稲を入れたらできるんですから。ただ、作るのに上手、下手はありましたよ。肥料も人糞ですわ。その余波で回虫がもの凄くわきました。学校の運動場を調べただけでも卵がウヨウヨおるってくらいにね。戦後はしょっちゅう回虫を殺す薬を飲まされましたよ。

 農地解放で土地が手に入ったけれども、生活に変化があるってほどではなかったですよ。少しのお米が手に入るから、ちょっと楽にはなりましたけどね。親父も着物の仕事ができるわけでもないから、家族総出で農作業をしてました。全部人力です。人手が多ければ多いほど良いわけです。米はね、当時1反で6俵くらい獲れたんですが、寺家は海が近かったから、うちの田圃は塩害でその半分くらいしか獲れないんですよ。2反あっても5俵くらいにしかなりませんね。うちは大人が2人と子供が4人でしたから全然足りませんでした。代用食で芋飯が食えたら良い方ですわ。それでも戦中みたいなことはなかったです。なんとか食べていけるかなってとこですわ。

 小作は土地を借りて耕しとるだけですから、収入なんてないに等しいですよ。百姓は供出があっても自家米として作っとればようけあるわけですやん。それを高い値段で売るんですよ。私の記憶では高いときは1俵8000円くらいしたと思うんですよね。すごい値段ですよ。一般の人ではなかなか買えなかったんです。それが、だんだん小作も米を作って売買できるようになって、少々の値段で米が手に入るようになりました。私に言わせると戦後マッカーサーが来て農地解放をしたっていうのは、日本の食事情を改善するすごいことやったと思いますよ。ほとんどみんなが平等に近いようになって、自分の土地が手に入ったんですから。借りとる土地と自分の土地では全然違いますやん。そりゃ精を出しますよ。


松下電工に就職

 昭和25年に中学校を卒業しました。私らは新制中学の1期生だったんです。卒業してしばらくは型紙をやってました。でも、そのあと昭和35年に松下電工に就職しました。僕がサラリーマンになったのは単純な動機でね。職人っていうのは毎月1日(ついたち)と15日しか休まさへんのですよ。それに長時間労働でしょ。その当時は日曜日がボツボツと休みになってた頃でね、友達が遊びに来るんですけど僕は遊べないんですよ。こんな不公平なことはないと思ってね、親父に内緒で履歴書を出したんです。そしたらたまたま採用になってね。それで大阪に研修へ半年くらい行って、四日市に工場が出来たからこちらへ戻ってきたんです。

 松下電工では本社で電気のソケットとか電気器具の材料を作って、津工場で成形をして売ってたわけです。私が派遣されたのは材料を作るところでした。でも、貧弱でしたね。当時従業員が3000人くらいしかいませんでした。人海戦術でしたからきつかったですね。まぁ、今みたいに空気がどうやこうやって言ってる時じゃなかったから、それが当たり前と思って働きました。昭和36年に四日市に来たときは、新しい技術の導入で工場にも装置工業の機械が入ってきましたけどね。それから名古屋営業所でも働き定年まで勤めました。

[杉山亜有美]

鼓ヶ浦海岸(鈴鹿市)