僕(夫)はここ(東庄内町)が生まれで、現住所も変わらずです。僕の家は、西の山で石灰岩を採ってきて、石場で焼いてそれを販売してたんです。
私(妻)の生まれは旧井田川村、中富田町で生まれ、現在は東庄内町です。私のところは父親が次男ですもんで、能褒野飛行場へ勤めてました。父親はシベリアで戦死してます。戦後は父親の分け前の田んぼを母親が耕作してました。
妻の体験
〔父親の戦死〕
昔はどこの家でも長男が家を継いで、次男が学校へやってもらって勤めに出るかたちでした。長男が自動的に全部相続して、次男には何にも残らない相続の在り方ですね。だから、私の父は飯米を作る分の少しの土地を貰って、後は能褒野の飛行場で整備士をして給料を得て暮らしてました。出稼ぎのようなかたちですね。私が生まれる頃には働きに出てましたから、早くから勤めていたと思うんです。
それが、終戦間際、昭和18年に、父に召集がかかったんです。田舎でしたで、所帯を持った男性でも召集があったんだと思います。父は戦地に行ってしまい、母は私達3人の子供を抱えて、ここから苦労がはじまったんです。昭和20年に戦死の公報を受け取ることになりました。私もまだ3つか4つで覚えていることは少ないんですが、父が遺骨になって帰ってきた時に、井田川駅で骨を持って、親戚の人と並んで、今のお葬式みたいに歩いてきたことは覚えています。その時の家紋の付いた黒の着物を着て、白い布で包まれた箱を大切そうに抱きかかえて泣いていた母の姿が、今でも鮮明に頭に残ってね、前後の事は全然記憶にないのにそこだけははっきり覚えているんです。それと、これは後で聞いた話ですが、父の戦死の公報を受けて母は3,4回汽車の線路に立ったとか。私と兄の「もう帰ろう、もう帰ろう!!」の泣き声で我に返ったそうです。
母もその時は自分一人で子育てをどうしていいかわからなかったんでしょうね。父がいた頃は、田舎でありながら今でいうサラリーマン生活をしてましたから、頼りの父が戦死して生活が急転しましたでしょ。私はね、そんな事(線路に立った事)を何の目的があってやっているのか全然わからなかったですけど、何というか雰囲気で察したんでしょうね。子供でもなんとなく感じますでね。こういう話もね、戦後だいぶ経って、私が30歳くらいになってから母が話してくれたからわかったんです。それまでは、家には父親はいないという感じで、母もとりたてて話をしなかったし、私達もなんとなくその話は聞いてはいけないと思ってました。避けて通ってきたって感じですね。
父は戦地へ行く時に、母には「子供達をたのむ」、子供達には「しっかり勉強してお母さんをたのんだぞ」と言い残して出ていったそうです。日が経つにつれて父が残していった言葉も頭をよぎり、幸いにも父に次男としての5反ほどの田畑が残されていたので、それを親戚や近所の人に随分と助けてもらって田畑との格闘が始まったそうです。とにかく女手一つなので聞くも涙、語るも涙ってところです。まだ小学生の姉と兄は田んぼでころころしながらとてもよく手伝ってくれたと母は語っていました。その頃、私は5,6歳だったので母に「あんたは留守番」と言いつけられていたのでしょう。そのためかラジオを聞くのが大好きでした。常にラジオをつけっぱなしにして、ラジオから流れる外地からの引き揚げ者の名前を読むアナウンサーの声をなぜかあきもせず10年間も聞き入ってました。無意識のうちにその放送を聞きましたね。子供心に「もしや、もしや…」と期待していたんだと思います。放送は国が義務として流してたんですが、だんだん読まれる引き揚げ者の数も少なくなっていって、10年くらいしたところで国が打ち切ったんです。その時は「あぁ…」って希望を失ったような、でもやっと納得できたような気持ちだったんでしょうね。「もう自分には父はいない」決定的でした。自分の中で何かが変わっていくのが自分でもよくわかりました。自分の子育てが終わり60歳を過ぎてからこの出来事が尾を引いて戦前・戦中・戦後の日本を知りたくなってたくさん本を読みあさりました。10年ほど前には父の最期であるシベリアへどうしても行ってみたくなって、父の最期であったであろう場所で墓参りをしてきました。この時、私からやっと戦争が終わりました。
〔終戦後の生活〕
戦後の生活はどこでも一緒でしょうけど、生きていくのに精一杯で子供は勝手に育っていったってことですね。私も井田川の小学校に通っていて、昔の担任だった先生は戦死者のあった家の子をすごく大事にしてくれました。クラスに3,4人はそういう子がいまして、日曜日に名古屋の動物園に連れて行ってくれたり、遠足の時にお弁当を作ってくれたりね。家へも来て鉛筆やノートを置いていってくれました。今はね、そんなことやったら怒られちゃいますけど、あの先生だからそうやって大切にしてくれたんだと思うんです。「お前らのお父さんはお国のために戦死したんや、しっかり頑張らなあかんよ」とか、男の子には頭に大きな手を置いて「特にお前らはしっかりせな」とか何か励ましの言葉だったと思います。先生が教えてくれた句で一つだけはっきり覚えているのが「梅は寒苦を経て清香を発す」です。私は鼻歌のようによく口ずさんでいたらしいんです。
私達は農家でありながら供出の割り当てが厳しいって母がいつも嘆いてました。それはどこでも一緒だと思いますよ。親戚が隣にあったもんで助けてくれたんですけど、うちも母親だけですから米もそんなにようけは作れませんやん。土地も父が継ぐ予定だったところを貰ったんですが、田んぼの隣を一度だまされて取られかかって、それを訴えて戻してもらったみたいです。女と思ってだますって言うて母が怒ってました。私の母親は何もできない人だったんでしょうね、戸惑ってるのがよくわかりました。だから、私達子供も「なんとか母を助けないと…」という思いはありましたね。実際、兄や姉はよく手伝いをしていたみたいです。家に帰って勉強する時間なんてなかったですもんねぇ。家畜も飼えるものは飼って食料の栄養源にしました。昔はみんなそうですよ。犬は泥棒の見張りをして、猫は残飯を食べて、牛なんて貴重な働き手だったから人間より可愛がってもらってました。家の間に牛を入れて飼ってたんです。名前も付けてねぇ。昔は牛の顔も主の顔によく似るって言うて、今のペットみたいなものでした。それでも衛生上はよろしくないですよね。ご飯を食べててもハエが行ったり来たりするんだから。それに臭いなんて遠慮なく行き来するしね。
秋になるとキノコ採りに行きました。昔はキノコなんてよくあがりよったね。燃料の代わりに山を掃除しますもんで、松の下に松茸がよく生えてました。子供は山で色んな実を採ったり、魚獲ったり、貝(タニシ)拾いをしたり。食料になるものは何でも食べました。よく考えると昔の人の知恵というか田舎は屋敷が意外と広いのを利用して、案外1年中うまく食べれるように果実も何種類か植えてあったように思います。
〔買い出し部隊〕
この辺りは関西線が通ってましたので、おっきなリュック背負って列車に人が溢れてましたね。たまに列車から人が落ちるんですよ。溝で唸っとる人をよく見ましたよ。
僕(夫)は、それは落ちたんじゃなくて逃げたんだと言ってるんですよね。だって、当時は京都や大阪から列車でここまで来て、リュックいっぱいにしてここから加佐登や亀山の駅まで歩いたんですよ。それでやっと満員列車に乗れたと思ったら警察が来て、見つかったら全部没収ですよ。おまけに引っ張られていってね。だから元気のいい人なら見つかる前に飛び降りていったと思うんです。当時の列車のスピードも時速10キロくらいで遅かったんですよ。この辺はよく取り締まりがあるっていうんで安楽越えっていって石水渓から滋賀県へ行く人もようけいましたよ。お母さんがちっちゃい子供にリュックを背負わせて芋や豆を入れて行くんですよ。それを見てたら子供心に可哀想だった。
〔交通手段〕
何といっても交通手段は大変でした。当時はこの辺りの人はどこかへ行こうと思ったら加佐登や亀山の駅まで歩いたんですよ。それが当たり前になってましたけどね。誰かが病気になるとね、中冨田の山から神戸まで乳母車やリヤカーに人乗せて歩いたんです。一日仕事ですわ。途中に宮さんがあって、そこでいっつも弁当を食べたのを覚えてます。病人が出るのが一番えらかったですね。昔は回虫もようけおったから、それでお腹を痛めて腸に穴あけた子もおりましたね。回虫が玉になって出てきたって聞きましたよ。
夫の体験
〔供出〕
とにかく田舎であって米を作りながら米が満足に食べられないのです。無理な供出のためです。お米が獲れる前にここらの田んぼを見て回って、お宅はどんだけ獲れますって検査をするんです。検見ですね。その獲れる量に基づいてどんだけ出しなさいって決まっちゃう。ヤミ米で売れば高く売れるんだけれども、政府の買い上げだから安い値段で売りました。たとえ食べる米がなくても決まった量は出さんならんわけ。良い田んぼで6俵採れるところと女ばかりで4俵しか採れないところでも、供出の量は一律ではないけど、その差が小さいから割合は似たようなものになって自然ときつくなっていく。芋飯とかね、大根飯を食べやなあかんようになってくるんです。
それに町内の役人が見に来るから、権力の強い人が割合が低くなって、弱い人が高くなっていくわけ。この地域ではね、自殺した人がおるの。供出が厳しくて出せないのに、それでも取立てに来るもんで、そこの親父さんがみんながいる前で米櫃をポンッと開けて「俺んところが何食べとるか見てみ!恥ずかしながら」って蔵から何からみんな見せて「どこにも米がないのにこの上何を取ってくんじゃ!」って言うたの。それでみんなが帰ってから恥ずかしいって言うて自殺されたん。それくらい取立てが厳しくてね、他にも何人か警察に引っ張られてます。お米がないから出せないよって言っても、どっかに隠してるんだろうとかヤミに売ったんだろうっていう事でね。調べられて恥をかかされて帰されるんです。あの時代は恥をかくっていうのは大変なことだったからね。でも、供出が厳しくても言えなかった。もしそうなれば検見をした人が悪いってことになるわけ。大抵検見をする人は村の実力者だから、そういう人に対して反抗したってことになって、村八分で村におれなくなるの。
村にも供出の割り当てがあるから、それを満たしていくためにはどこの家からどんだけ取ってこなあかんっていうのがあったんでしょうけどね。昔は今のように化学肥料があるわけでもないし、この辺りは水も少なかったから遠くから運ぶんだけれども、田んぼが乾いちゃったりしてそんなには獲れないの。2俵か3俵だったんだから。ますます厳しい状態になっていくわけですよ。当時は、面積は公簿に載ってますけど、実面積と公簿面積にはもの凄い差があるんですよ。ひどいところでは1反でも半分の実面積しかないところとか、逆に公簿面積以上に多くの面積があるとかね。それも権力によって割り振りされていくんです。
〔イナゴ捕り〕
昔はイナゴを捕って学校へ持っていきました。給食で食べたんですよ。学校で大きな釜でイナゴを茹でて、それを乾燥させてから潰してみそ汁の中に入れてさ。みそ汁を見るとイナゴが一匹浮いとるんですよ。「うわぁ…」って思っても、せっかく捕ってきたんだからもったいないって言われるで嫌々食べてました。家ではイナゴなんて食べないからすごく抵抗がありましたよ。イナゴもね、叩いて潰してから入れるんですけど、十分潰されてなくてたまに形が残ったまま入ってくるんですよ。そりゃ気持ち悪いですよね。たまに姿のまま入ってるイナゴをそっとポケットに隠したりしてました。
〔戦中の教育〕
当時は天皇が神様のような存在でした。庄内小学校は校舎がH型の造りだったんだけど、その真ん中に中庭があって、そこに奉安殿があったの。その中に天皇の写真が納められていたんだけど、周囲には頑丈な鍵がかけられていて近寄れず、そこを開けるのは日本の国旗を揚げるようなお祝いの折だけでね。村長や校長とか権力のある人が紋付き袴に白い手袋を履いて仰々しく出してきて、天皇の写真を講堂に運ぶんですけど、その時にはみんなが廊下に出て二列縦隊に並んで奉安殿の方へ向って最敬礼するの。頭上げたらやられますからね。講堂に運ばれるまではみんなじっと静かに待ってるの。運ばれるとみんなが講堂に移動していった。その時に、僕達はその写真は神様だと教えられてるから、日本は今こういう状態だけれども、いつかは神様が神風を起こしてひっくり返してくれるんだと思ってましたね。負けるなんてちっとも考えてなかった。だから、僕らは家でも学校でも竹槍の練習をやってましたね。家の玄関先には竹槍が置いてあったんですよ。攻めてこられたらいつでも使えるようにね。
〔玉音放送〕
僕の記憶ではね、学校の廊下に出て、全員ざっと並んで聞いたと思うんです。ザ-ザ-言うだけで、僕はよく聞き取れなかった。小学校3年生ぐらいだったから、言葉も難しいし判断力もなかったからさっぱりわからなかった。後で先生から「戦争に負けたんだよ」って言われて、それでも「そうかな」ってくらいの感じだったね。
終戦を知ってすぐ、うちの親父が大事な米をお釜でどんと炊くんですよ。そしてそれをおむすびにするんですよ。「何するんや」って聞いたら、「アメリカ兵が伊勢湾に上陸してきて女や子供に何するかわからないから今から西の山に逃げるんだ」って言うんです。僕の兄妹は女ばっかりでしたからね。誰彼構わずおむすびをリュックに入れていつでも行けるように待機してたんです。周り近所みんなそうですよ。離れた田舎にいるといろんなうわさを信じていたんですね。結局は逃げなくて済んだんだけど。そういう何をされるかわからないって怖さは、終戦後すぐの頃にはありましたよ。
〔お魚の配給〕
僕のところはお祖母さん、両親、子供が7人の10人家族だったの。当時は、お魚の配給っていうて川崎の魚屋さんが魚を売りに来るんですよ。そうすると、ここら辺の人がみんな買いに来る。どういう売り方をするかっていうと、戸板を1つポッと置いて、そこに線を入れるんです。それで「今日は70人か?」って言うと70番まで番号を振って、魚を3枚に下ろして番号のところに切り身を置いていくんです。買いに来た人が順にくじを引いて、その番号の魚の切り身を貰ってくんです。だから、しっぽが当たったり真ん中が当たったりしてね。全部値段一緒。僕のところは10人なのに切り身1つ貰ってきて、どうやって食べます?食べようがないやんか。だから祖母さんとお袋が甘辛く煮てさ、少しずつほぐして茶碗の上にのせてくれるわけ。だけど、そんなちょっとの魚を食べて、みんな「今日は魚食べた」って喜んでね。
中学生ぐらいになった時に、僕は親父に言われて豊津のところまで魚買いに行ったんですよ。あそこの漁師さんやったら売ってくれるって言うからね。それも、お金では絶対に売ってくれないですよ。モノを持っていって物々交換。漁師さんに頼みこんで網にかかった魚を家から持っていった芋や豆と交換してもらってさ。魚は自転車に積んだけど、暗くてよう帰らんだね。僕のところは商売をやってたから、乗用の馬を飼ってて、それに乗って親父が迎えに来てくれたからね。魚食べようと思うとそんな大変な思いをしたんですよ。魚もイワシとかそんなんですよ。そのくせここら辺の川で魚釣りすれば、えさがなくても釣れたんですよ。だけど釣りに行かなかったね。川も今のようにきれいじゃなくて木が生い茂って、入るのも大変でしたからね。
鶏のね、産んだ卵も3,4人で分けて食べるんだよ。肥料なんてないから、そこら辺の草食べて鶏も育つでしょ。だから今日のように毎日卵は産まないんですよ。