軸原史朗さん(昭和10年生まれ、牧田地区在住)

299 ~ 301

鈴鹿での生活

 生まれは広島県の呉市です。父が海軍工廠に勤めていた関係で、昭和17年に鈴鹿市に海軍工廠が出来た時に、こちらに転勤してきました。自分で異動願いを出したんじゃないかな。小学校の1年生が済んで3月になったら母親が学校に行って挨拶をしに行くと言うので、なんでやろなって思ってたら、学校変わるって言うんです。7歳になったばかりの子供にはわからんやろな。そのあくる日やに、汽車乗ってこっち来たんやで。当時は10時間くらいかかって鈴鹿に来ました。

 鈴鹿市には親戚もなく、まったく新しいところでした。だから、こっちに来た時は、前にいたところと印象は全然違う。呉市では宮原通りってところにいたけど、ちょっとした町やった。呉市の人口は35万から40万人で海軍工廠があったので、兵隊さんがものすごく多かった。町歩いとると兵隊さんが行進してきて、少しでも遅れると頭スパーンっと殴られる。あんなん見たら兵隊なんてなりたくないと思ったな。

 こっち(鈴鹿)に来てからは、海軍工廠の大池住宅ってところに住むことになりました。その時はそこに住宅が50軒くらい建っていて、誰も住んでなかった。1番初めに来たので、1年ぐらいは誰も住んでいなく、そんなに早く来なくてよいのに、親父がええ格好して早く来たんさ。昔はさ、先方隊で行くと昇進とかそんなんがあったみたいで、でもな、こっちは往生したに。一面林と畑ばっかりでさみしくて、キツネが出るみたいな気がして姉とどっこも出なくて。でも、学校には行かなくてはならないので、平田の人に道教えてもらって、岡田町に岡田神社があって、そこを通って牧田の小学校まで通ったんです。

 姉は当時5年生で、行きは一緒に行けたけど帰りは学年違うで遅くなったりして地元の子と帰ってくることになり、よくいじめられた。こっちは1人なので、よく殴られた。当時は軍国主義やで、いじめもあるし、学校行くのが嫌でよくさぼったな。それでもさ、いじめられたけど、時には向かっていった。今思うとようやったなって思う。そういうところがあったから良かったのかな。弱い子は学校行かない子もいたな。

 小学校にも3人ぐらい自分みたいなんがおって、大池の三羽烏っていわれていた。学校行くとよう先生に怒られた。悪さばっかしとったな。横着でさ。そこら辺のスイカ畑に入ってって、百姓さんが作っとるスイカを盗るんやわ。そうすると、百姓さんは怒るわな。そやけど、また2,3日すると僕らは盗みに行くんやわ。その時にな、百姓さんが隠れとってな。3人ぐらいがネズミみたいに畑入ってって、畝の下に入ってスイカの葉っぱの下に隠れて食っとんの。腹減っとるでさ。そしたら「コラー!」って怒られて。逃げるのは1番やったわ。

 当時は両親も生活が苦しくて生きてくのに必死で、着物を食べ物と交換しに百姓さんのところに行く。自分の着物を出してって、最後は何にもなかったんとちがうかな。食べ物にはそりゃ不自由した。おかゆ食えれば良い方で、イモ食うたりさ、バッサバサのコウリャン飯も食べた。それでも食えれば良い方で、当時は栄養不足で多くの人が倒れとったでしょ。私の1番下の弟は、4つの時に栄養失調で亡くなったんです。腎臓悪くして、ちっちゃい顔がぶくっと腫れて。見とっても可哀想で。(遺体を)焼いたらさ、腎臓のとこだけ黒く残っていた。水が溜まっていたのでそうなるの。

 昭和18年頃(8歳)は、勤労奉仕で学校のグラウンドの草刈とか、畑でサツマイモ作りとか、防空壕の土運びなんかをよくさせられた。長いことさせられて、もう、えらくて。小さい子やもん。当時は体の事とかあんまり考えてないから、倒れる子もおったな。勉強なんてしてないで。毎日空襲、空襲でさ。防空壕入る練習をしていた。そんなことしていても効果があったかどうか?

進駐軍との交流

 玉音放送は聞いても分からんかった。天皇が難しい言葉しゃべっとるから浪花節を聞いとるみたいで。親父は「いよいよ終わったんやな」って言っていたが、まったく理解できなかった。終戦ってわかった時は、もう空襲はないっていう安心感と、これからどう食っていけばいいのか、アメリカ軍が来たら何されるのかっていう不安があった。

 終戦から1週間くらいしたら、この辺にもアメリカの兵隊がやってきて、そこら辺を鉄砲持って歩いていた。それを見に行ったのが、初めてアメリカ人を見た時で、撃たれやんやろかって思って300メートルくらい離れたところから見ていた。みんな知らんわさ、アメリカ人なんて。「あんなでっかいんや」なんて思った。だんだん増えてきて100人くらいおったかな。

 ある時に、家で夕食をしていたら、ガラガラって音がして「誰か来たのかな」って思とったら、バタバタっと進駐軍の軍人2人が土足で上がってきて、ドアをガラッって開けた。こっちは夕食していて、みんなでイモ食うとるところにいきなり入ってきて、「怖いな、殺されるのかな」って思った。進駐軍は女の人を探しとったみたい。でも、なんて言うてるかわからなかった。その時、うちの兄貴と前の家の人が英語が得意だったので、兄貴が片言でもわかったみたいで「カモン」って言うて連れていき、前の家の人と案内した。家に来たアメリカ人は二等兵くらいで、女のところに遊びに来たみたいでした。そのように米兵が遊びに来たのは2軒くらいでした。


本田技研の誘致

 昭和29年4月に市役所の試験を受けた。当時は60人から70人ぐらい受けて4人か5人が受かったぐらいで採用は非常に少なかった。市役所に行って、初めは税務課に2年。税務課は若い人が多く、2年経ったら異動でした。そしたら商工課でした。そこに山口五郎って役所でもやり手の人がいました。東北の人やったけど、これがもの凄いキレる人で、交渉する時でも東北弁でしゃべり、これが上手でさ。よう相手が褒めとった。その人が「軸原さんってどの人やな」って言うてきて、何やろなって思ったら「私、商工課の山口でございます」って言うてさ。「あなた今度商工課に来てもらう人やな、よろしくお願いします」って言うんやに。びっくりするわな。それで「山口さんってどんな仕事してるんですか」って聞いたら主に企業誘致をやっとるって。

 それで、商工課に配属になったら、これがもう、えらいのさ。毎晩12時に帰れたら良い方で、2時か3時は普通でした。夜通しの時も多くあり、目がパンパンに腫れました。なんせ人数が少なく、商工課は当時5人でやっていて、やる気のあるやつだけ置いた。杉本市長はやる気のないやつを多く置いたってしょうがないって思とったみたいやね。商工課は毎日遅くまで残業して、また次の日は朝から出てきてで、若かったけど本当に大変でした。

 ちょっと山口さんの話をするとね、すごくとんちのある人で、素人演芸会なんかがあると総括をしとった人やったな。僕が商工課にいた時にも市役所に演芸会ってのがあって、山口五郎さんが全部製作・監督して、いつも優勝やったわ。工場誘致でも日東紡績、敷島カンバス、本田技研、倉毛紡績(カネボウ)、全部山口さんが携わっとる。私が入った時はちょうどカネボウの誘致が終わる頃で、紡績がものすごい良かったときで、べっぴんの女工員さんがようけおってな、僕なんかは若かったで相手にしてもらえやんけど、山口五郎さんが行くとモテるわ。女工員さんが門で待っとんのやに。3,4人が並んどって、なんやこりゃって思ったね。

 昭和34年が始まった頃に、本田技研の誘致の話があった。当時は鈴鹿市以外に他3つくらい候補地があって、取りあってたの。本田宗一郎さんと直接話するってことになった時に、杉本市長から「宴会はしない、その代わり冷やしたええお茶を出しなさい」って言われた。杉本龍造って人はそんな人でした。現地に行くから汗をかくので、帰ってきたら冷やしたタオルを用意しときなさいってことでした。当日は、僕らは先に現地行ってさ、その角で竹竿の持ち役をやった。20万坪っていうんやで相当広く、自分は平野の一番向こうで、一番長い竿担いで、係長が旗上げたら竿を上げる役でした。前日に練習もして、本田宗一郎さんが来た時に、練習した通りに竿をパッと上げたら宗一郎さんがびっくりしとったって言っていました。初めは「あの旗何や」って言ったらしいです。まぁ、初めはセンターしか見てないでな。それで「こっちもこっちも見て下さい、大体この辺りで20万坪ありますね」って説明を課長がしたら感心しとったって。「鈴鹿はこんなアイディアがあるんやな」って言うてね。そりゃ他の所は大体この辺ですって言われるだけやでさ。鈴鹿はパッと竿が上がって、広さと距離が一目瞭然でわかったって褒められてさ。その晩に杉本市長がわざわざ商工課に来て「君達はようやってくれた」って言うてくれた。

 このアイディアを出したのが山口五郎っていう人や。すごい頭や。本当に努力を惜しまん人やった。その代わりこっちはついてくのに必死やった。

 現地から帰って来て、真夏のときで、言われた通りお茶とタオル出したら本田宗一郎さんが大変喜んだってことや。他の所はたいていお酒出して、料理屋行って、ってことやったのが鈴鹿は冷たいお茶とタオルを出してくれて、こんなもてなししてくれたのは初めてやって言われて、それで鈴鹿に決まったんやと。誘致からおよそ30年を経て、本田宗一郎さんが亡くなられる5,6年前に本人に面会して話した時にそう言っておられた。

 商工課には約10年おり、その後は土木の管理課に配属。この仕事もまた面白かった、やりがいがあった。それから2年したら今度は管財課に行った。管財課なんて楽やな。そやけど、そこの課長がとろい課長で、ちょっとも間に合わへんの。年も山口さんよりちょっと上なぐらいやに。自分は商工課の時に用地交渉をしていたので、どっちかっていうと話を聞いたれって感じでそういうのは得意やったの。やっぱりそういう時にずばり言えるっていうのは大切やね、そうやないと良くならんわさ。しかし、今思うと失礼なことを言ったものだ。

 手前味噌やけどさ、商工課におった頃のメンバーは本当に少人数で大工場誘致の大きな仕事をしたものだと、それぐらい自分では本当に誇りに思う。鈴鹿に住んでからこんな機会を得たこと、少しでも役に立てたことが良かったなって思っております。

[杉山亜有美]