吉田俊和さん(昭和11年生まれ、河曲地区在住)

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赤トンボの衝突

 あれね、小学校の2年生くらいの時やったと思うんですけどね。神戸小学校で授業の始まるまでの休憩時間でしたけどね、川の近くで座って話をして上見とる時にね。白子に航空隊があったもんでね、当時は練習機がようけ通ってました。それで話しとるときに偶然、衝突したのを目撃したんですね。見とった者は少ないと思う。当たって機体が翼と胴体が離れて。ちょうど子供の時分で飛行機が上を飛ぶと、みんな見ながら遊んどったもんでね。それから現場へ走って行ったらね、校長先生に怒られてね。飛行機は民家に落ちてね、壊れて。火災は出なかったみたいですけど。細かいことは覚えてないですけどね、ただぶつかった時の現場は見てますから、いくつになってもその話は忘れんとおりますけどね。


海軍航空隊の兵隊の下宿

 当時、部屋のある家を指定して休憩所みたいにして、海軍航空隊員が昼から来たりしてました。うちも3,4人来とってね、3人ともみんな死んどる。20歳前の兄さん達やったけどね。今思うとかわいそうなことしたね。僕の前住んどった家が料理屋を移築して部屋が5つか6つあったもんでね。部屋に余裕があるもんやで、下宿にしてもらえやんかってことで。2階に3部屋あったのを提供しとったみたいやね。僕らは小さかったで、1階だけで生活できたでね。家は空いとったもんで使ってくれってことで。小学校3,4年の時やで、その時の細かいことは知らないですけどね。ただ休みの時に来て休憩しとったってことは覚えてます。

 僕らは小学生で小さかったもんでさ、一緒に遊びに行った記憶があるんですわ。「鉄棒にぶら下がれ、僕が後ろから引っ張ったるで」って遊んでもらったのは覚えてますね。「鉄棒にぶら下がっとると身体大きくなるぞ」って。冗談ですけどね、こっちは真に受けとるわね。遊びって言っても散歩程度でしたけどね。

 その人らの親から正月の餅や何やらを送ってくれとって、「家族で食べよ」ってくれたのを覚えてます。こちらは四角の餅やったけど、岡山の人のは丸の餅を正月に食べる用にしとったから。「ここら辺は四角の餅やのにあんたらは違うなあ」って言った覚えありますけどね。

 その人達が特攻隊っていうのはわかってましたからね。昭和20年の早い頃に特攻で行ってますからね。その3人が一緒に写った写真があります。その写真が残ってなかったらね、何も今は思わないけどね。その写真を見ると、この人はこうで、あの人はこうでって、多少記憶が残ってますからね。それを見ると気の毒なことでしたな。


友人宅で

 終戦前に、鈴鹿の航空隊の端に従兄弟の家があったわけや。それで僕と仲の良かった連れと行ってさ。昼になって「何か食べよう」ってなって、食べさせてもらったわけさ。子供の頃やで何も心配せんと2人でよばれてさ、家に帰ってきたら、その友達の家の親にえらい怒られた。そこも百姓と違うのやで、自分達と一緒やでようわかっとる。子供の頃やで、みんな出してもらったものをよばれてさね。今思うとえらい悪いことしてきたなと、後悔してますけどね。食べてくことに精一杯でね。子供達はそんなこと知らへんでしょ。多分おかゆかそんなもんやったと思うな。かたいご飯でもなかった気がする。


父親の仕事

 あの時は鈴鹿海軍工廠へ親父が行っとった。親父は若い時に病気しとって、検査しても丙種で除外みたいな形になっとったもんで、戦争に行かんでよかった。親父の同級生でも身体の良い人は戦争に行って戦死しとるよ。でも親父は選に漏れたでな。

親父は型紙が職で、型やっとっても仕事ってもうないですわ。それで、なんかせんならんっていうことで。昭和17年くらいから、工廠が出来た時にもう行っとる。終戦までな。海軍工廠では人事へ行って、それでハンコを彫っとった。あの時は人の出入りがものすごい多いんで、ハンコが要るんですね。認印でもなんでも。ちょっと前に来たと思ったら、出征やなんやって出て行くってことがしょっちゅうあったらしいですね。

 終戦後はまだ型紙の仕事もないもんで、ゴム印を彫っとったんです。しばらくはなんやかんや、やっとるわね。器用やったもんでね、歯医者さんの技工師の手伝いとかね、職があらせんで。22年くらいからは、また伊勢型紙が出てくるようになりましたけどね。それで、何とか食べさせてもらってきたんですね。


戦後の食生活

 僕らは26年に中学校を卒業しとって、その頃にはだんぶ良かったですけど、22,3年とかは大変な生活やってましたね。何でも口に入るものがあれば良しとする生活でしたね。今思うと嘘みたいで、笑い話になるけどね。鈴鹿市の駅前に配給所があって、少しずつ袋に米をもうてきた覚えもあります。あの時の生活を思って生活をしたら、何にも贅沢を言わんと、不足も言わんと幸せですけどね。なかなか人間、ちょっといいことになると、それが基準になりますからね。不足が出てくるんですわ。

 終戦後はまたえらかった。母親の弟が白子でパン屋さんをしとったもんでね、1年か1年半くらいの間やと思いますけどな、その手伝いをしてました。僕が6年生くらいの頃やで、戦後の22,3年ぐらいやったと思いますね。僕らもようついてった。乳母車を引いて。現物交換でね。百姓の人の所へ行ってパンと小麦と交換して、パン屋のとこへ行って。またパンを貰って、また回って。それでその残りを僕らが貰ってたんやね。親の兄弟には助けてもうた。食料関係の仕事をしとるとね、まだ食べる方にも余裕があったのでね、何やかんやってありがたいもんやって感謝しとる。僕は1番兄貴やでね、下に4人おってね。弟や妹に言ってもそんなことは「知らない」「覚えない」って言いますね。

 ほかにも鈴鹿川へ行って、よもぎとか何やかんや食べる野草を採ってましたね。食べるのが1番大変だった。大根を千切りにしてさ、ご飯へ入れて。量を増やすわけやね。温かい内は食べられるけど、冷めたら臭いがして食べれるもんやないね。ちょっと冷めると全然味が変わります。百姓とかしとる所はいいけど、そうやない所は配給の量が決まってますからね。余分なものは入って来ない。家も少しの畑はあったんやけどね。あの時の生活を知っとる者は少なくなってきとるね。

 終戦前後と思うんやけどもね、運動場を耕してイモを作ったね。また、神戸町の百姓の人達に野菜のくずを給食の材料にもらいに、よく学校から行ったですよ。野菜の正規のものは売れますからね。6年生の時やで、昭和21年の時かな。校庭で作ったサツマイモかよそで貰ってきたサツマイモか知りませんけど、道伯へ遠足に行った時に1切ずつ貰うたのを今でも覚えてます。


戦後の学校生活

 ちょうど神中の1年生の時に、教室がないもんで6回くらい移動しとる。神戸小学校、河曲小学校、飯野小学校、若松小学校なんか、みんな寄せ集めて神戸へ来とった。机を持ってね、移動しとった。中学生になっても神戸中学の校舎がなくてね。昔の木造のやつは2年生の時に海軍工廠の一部を持ってきて建設したみたいやけど。1年生のときは自分らの教室がなかったの。旧制の神戸中学が神戸高校になって、新制中学ってので新しく出来たわけ。旧制とは校舎が別個で、新制の神戸中学の校舎がなかったってことね。

昭和26年に神中を卒業してから、僕は親父が型紙しとったでさ、僕も型紙を覚えてさ。40歳近くまでしとった。40歳からはサラリーマンになって70歳まで働かしてもらった。

[小川真依]

旧制神戸中学校校舎(鈴鹿市)