父親の出征と家
母が私を妊娠したとたんに父親は支那事変で出征してね、私は父親が戦地におる間に生まれた。父親は戦地で道作ったり通信みたいなことをしとったみたいです。昔はね、定期的に面会に行くんですよね。京都でした。私は小さい時から父の方の叔父に肩車してもらって、加佐登から乗って、京都まで面会に行った。そういう特殊なことって、極々小さい頃の事でも不思議とよく覚えているんですね。3,4歳の頃です。私には姉がおりましたけど、昔のことやから家の1番上に生まれた女の子は、家同士で嫁にやるっていう約束をする。すると私が跡取りですわ。4歳の時に父親が帰ってきてからは、跡取りとして育てられて、女として扱ってくれない。どこへ行くにも連れまわす。嫌でもなんでも連れまわす。そんなんでした。家は田舎の家やで広いですわな。田んぼがいっぱいありましたから、稲を干さんならん。今みたいに乾燥機ないでしょ。筵何百枚と干すわけですやん。それと昔は田んぼするのに牛とか馬とかでしょ、そういう大きな小屋があって。ようけ田んぼもあったみたいです。人も雇ってね、手伝いに人が来てましたけど。
馬の出征
家は馬を飼ってたんですけど、1つは父親の趣味で。父親の馬は本当にいい馬なんです。菊里っていう名前の女の子できれいなべっぴんさんでね。私のは普通の馬。小さいときから「お前の馬や」って言ってね、1頭与えられるんですよ。それで小さい子供用の鞍とか買ってくれたけど、私には子供用でも大きすぎて跨げない。結局は裸馬に直に乗って、鬣をぎゅっと掴んでね。私の馬のたずなは父親が自分の馬に乗ったまま持って、鈴鹿川へ毎日、馬を洗いに行くんです。私は小さいから洗えるわけないし、ちょっと足を濡らしたるだけで、父親が洗うんですけど、「お前の馬だから」ってことで連れて行かれる。何も嬉しないですよ。でも男並みに育てるためでしょう。
父親の馬は昭和19年に召集されて、あれがもう悲しかった。父親も内緒で泣いてるのね。私も泣けてきて。私だけを連れて若松駅まで送りに行って。若松駅から貨車に乗って行くんです。お別れするときに、煮干とかお酒をちょっと飲ますとかしてね。いっぱい勲章つけた兵隊さんが連れて行きましたけど。父親の馬は、大事に大事に世話して。ちょっと黒っぽい栗みたいな色でピカピカのええ馬でね、すっごく良い目をしてるのね。私は毎日惚れ惚れしてました。でも戻ってきません。
父は、終戦も近い頃に、また赤紙がきてすぐ手首折ってしまって。あれは運ですに。本人は悔しがって泣いてましたに。こんな不注意なことになって。自分の同級生とかがすごく戦死してますやん。だからお米なんかも全部、戦死された家に配ったりしてました。暮れのお餅も2、300個ついてみんなに配るん。でもね、こんなもん命には代えられないっていうことでね、ずーっとしてましたよ。
私は小さい頃、兵隊さん送るのでもでっかい声で歌ってね。近所の人に歌上手いって、おだてられて先頭に立って送った。それはすっごい後悔してますよ。なんで私の両親は止めやんだかって。でも父親も戦争に行くのが名誉やと思ってる人やから戒めるどころやないわね。私も終戦になって中学生になった頃に、「何で戒めやんだ」って私はどんだけ父親と戦ったか。
玉音放送
天皇さんのね、あのラジオの時は私の家にラジオがあったから、父親がとにかくいっぱい人を呼んできて「聞いてください」って。私は外でお守りですわ。それがね、すっごく青空で雲1つない良い天気で、その色は忘れられません。真っ青。いい空でした。それからしばらく経って見に行ってみたら、ラジオを聴いてた大人達がみんな泣いてる。「えー」ってもんやわな。それで天皇さんの声がなんか聞こえてる。それは鮮明で忘れられません。父親なんか一生懸命泣いてる。「何事やろ」って思いながらね、私もじっと耳澄ましたけど、何言うとるかさっぱりわからへんし、知らんわと思って。気楽なもんですわ。ただ父親とか大人はすごい苦労してるなっていうのは感じます。私、終戦が6歳で良かったですに。責任はないけど色々見てきて、でも6歳にもなってれば覚えてる。だからね、幸せですわ。いろんなもの見せてもらって育ってきました。
戦後の学校生活
小学校の2年生頃、もう終戦の翌年くらいからね、たくさん偉いさんの家族がね、愛宕とかそういうところへ住みに来るわけや。昔は愛宕小学校もなかったですから、愛宕も若松小学校でした。そうすると、ハイカラな人が来てね、ばーっと東京弁で話して先生も振り回される。4年生くらいになってくるとね、その嫌な雰囲気もよくわかります。その新しいハイカラなお母さんが学校へ来るときは、私の友達のきれいな絵が玄関の正面にあったのを、その娘さんの絵を取り替えてやる。それを手伝わされる。嫌なことするやんかと思う。そういうことがいっぱいあります。そういう子達は、もう服装が全然違いますわ。頭もパーマかける子もおったし、すごいハイカラな格好して来る子もおって。お兄ちゃんが東大受けるので勉強してるとか言うとね、まだあの時は代用教員っていうのがおりまして。そういう人達に試験があるのか知りませんけど、なんか一生懸命「お兄ちゃんに教えてもらいたい」とかね、私らみたいな子供にも目に余るようなことはたくさんありました。
チョコレート
私が小学校2年生になったか1年生の終わりごろで、まだ冬服を来てた時期ですけど、いつも浜街道を通って若松小学校へ通ってたんです。そうすると、あそこはジープがいつも通るんです。私が歩いてる所のちょっと前で、バっと停まって通せんぼして、それでなぜか頭撫でてくれてチョコレートくれるんですわ。それで私は子供やし、嬉しくて家に帰って来ておばあちゃんに言うと「そんなな、けっと(毛唐)がくれたもん食べたらいかん」ってみんな畑にほるんですよ。すると父親が帰ってきて、その話すると、「チョコレート旨いんやぞ、食わないかん」って拾いに行って。いつも頭撫で撫でしておさげを触るのよ。それから何言っとるんか知らんけども、くれるの。よっぽどみすぼらしかったんやに。
父親と祖母の思い
父親は戦争に行かんと申し訳ないっていう思いがあるんでしょうね。農地改革っていうのがあったでしょ、家の田んぼをみんな出しました。そしたらおばあちゃん(父親の母親)が、包丁持ってきて「わし、死ぬわな」って。1回ね、そんな事件があったんですよ。「そんにな、家の土地をな、みんな出して道にして。わしはもう生きておれん。先祖に悪い」って言ってね。包丁持ってきて、父親に「わしはお前の前で死ぬ」って言いましたに。父親はな、「戦争に行かんと命があるんやで、わしが頑張って働くで。そんな土地やらにこだわるな」って一生懸命説得してました。その風景も忘れません。結局おばあちゃんは、私が高校2年まで生きました。終戦頃はね、70代だったと思うんです。おばあちゃんは養子娘です。だからそれをそっくり受け継いでね、それを護るのが自分の仕事だと思ってますからね。自分の旦那は早くに死にましたから、その後ずっと護ってきたのに、戦争が終わったからといって、土地がなくなるなんていうのは考えられんのでしょうね。
兵隊さんとの交流
戦争が終わるまでは海軍の兵隊さんが下宿してました。終戦直後は、沖縄の兵隊さんを預かった。沖縄の兵隊さんは帰れないんですよ、占領されて。帰るパスポートが取れるまで家におりました。沖縄の復帰の前にパスポートで帰る時期があったんですよ。その時に父親が全部パスポート取ってやって、お土産持たせて帰したんですけど。6人おる中の1人は箕田のきれいな娘さんと恋愛して家に帰らんかった。
ご飯でも兵隊さんが食べた後でないと食べさせてもらえない。お風呂でも何でもそうですわ。とにかく1班みんな預かったそうです。みんないい人でね。沖縄の話をしてくれました。膝の上へ乗せてもらってね、沖縄の夕日はこんなんだとか、サトウキビはどんなんだとかね、忘れられません。でも父親がね、家に来てもらってるけど遊んでおってもらっては困るっていうことでね、ちゃんと自分の仕事は手伝ってもらってました。
企業の設計士の下宿
旭ダウとか建てるのにね、まず設計士が家に下宿するわけ。離れが1軒あったから、そこへ建設のために大林組の人が来てました。離れにはお風呂ないから、家のお風呂に来るんですよ。独身の人達は家でみんなと一緒にご飯食べる。そこでいろんな話してくれるんですよ。楠の紡績は丸屋根で柱なしに建てるのにどうやって建てるか、とかね。そういう話をするので私は設計士になりたかった。それで中学3年生の時に、先生に言って松阪工業かなんかに問い合わせてもらったら、女の子を受け入れる準備がないからって断られて。学制が厳しかったからね、あの頃は。私達は白子の普通科しか行けない。だから、そこから大学に行って工学部に入りなさいって言うわけで、楽しみにしてたけど、駄目やって。それでもやっぱり製図とかそういうのが好きで、洋裁でも製図教える方にいきました。今でもそういうのが好きなのは、大林組の影響があるんじゃないかと思います。もうほんとに楽しそうにやってましたから。
千人針の事
出征するの兵隊さんが必ず持って行くのが千人針のある腹巻き、千人針とは晒木綿五尺くらいに赤い糸で針で結び玉を作りながら縫って行く物、それを腹に巻いて戦地に行くのです。女の人が年の数だけ玉を作るのですが、寅年の人はいくつでもたくさん玉を作ってあげる(虎は千里を帰ると言われている)。私は千人針の特訓をされて5,6歳でしたが50,60しました。たくさんの人に頼まれました。(ご本人の加筆)